とっても、孤独で辛いとき何を君は祈るだろう?
この状況から逃れられるように、この苦難
から抜け出せるようにと祈るかもしれない。
それは、それでいい祈り
神様は、もっと深く祈るように導かれる。
まわりのことを祈ることより、自分を主と出あわせてください
と祈ることを
たとえ、主がいないように思えても、いることをかたく信じるようにと
孤独とも思えることを祝福であることを信じることを
人々は教会に何を期待してくるのだろうか?
自分の満たされない何かを満たしてくれるところ
優しくされるところ
僕もそのように思っていた。自分の人生の夢が実現されるところ
だから、それがかなわないと絶望さえ感じてしまう。
その思いが神様へ、あるいは教会の人たちへの不満となっていく。
なんと愚かな自分であったろう。
そんなときイエス様は僕に質問をされた。
「イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」(マルコ9:33〜34)
弟子たちはイエス様そっちのけで自分たちの夢・願望について語り合っていたのである。
弟子たちの姿は僕であったと気づかされた。
イエス様は語られる。
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」
(マルコ9:37)
自分の夢はいったい何であったのだろうか?と考えさせる。夢やぶれたとしても、それはたいしたものではなかったのだ。
教会にはイエス様の夢がある。なんと素晴らしいことか
「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」
(ペテロ一 1:22)
人を愛することに疲れていないかい?
どうして僕たちは愛することができないんだろうか?
それは、僕たちのなかに愛がないからだろうね。
僕たちが相手に愛を与えていると思っているのは何だろう。
「偽りの愛」いいとかわるいとかじゃなくて愛ではなかったんだね。
イエス様の愛を知ったとき僕らは本当の愛を知ったんだ。
山よりも海よりも深く僕たちを愛して下さった。
イエス様を裏切った弟子ペテロは本当の愛をイエス様からうけた。
福音こそが偽りのない兄弟愛を持つことができる。
キリストから赦しをあたえられたと信じているにもかかわらず
あいかわらず罪に苦しむ自分がいる。
新しい人生を歩むことのできない自分がいる。
それはどうしてだろうと悩む。
ふと神様からの語りかけが聴こえてきた。
「お前は赦されるということがわかっていない。」
「お前のすべてが赦されたのだ」
このことのすばらしさをわかっていなかった。
自分がしてきたことが赦されるのではなくて、自分という存在が赦されたのだということ。
厳しく言えば、自分という存在が神様のまえにいるということさえ赦されないことだったのだ。
厳しいという人もいるかもしれない。それは罪がどれほどのものかということがわかっていないのかもしれない。
罪は僕の存在そのものを破壊してしまう。
しかし、その僕を救ってくださったキリストの十字架はなんと大きな恵みなんだろう。
赦されるということは僕の存在そのものを神様が担ってくださるということだ。
僕の人生は神様の御手にささえられている。
みんなもそうだけどね。
久しぶりに書きます。
僕自身、目標を見失っていた時期でした。
ただ、毎日を繰り返すばかりで神様からの声が聞こえなくなっていた。
いや、聞く事をやめてしまったのかもしれない。
ルカ福音書の放蕩息子を思いだす。
父親から離れてしまった弟、父のもとにいた兄、どちらも自分の毎日を過ごすだけで精一杯だった。
そんな二人に楽しみはあったのだろうか?
享楽にふける弟、真面目に生きようとする兄、二人の心のなかに満たされない思いがあった。
それは父との交わり。
どちらも一人では生きられない。
父がいて二人の人生がはじめて満たされる。
放蕩息子はそんなことも言っているのだと神様から教えられた。
僕は何かをしようとするあまり、父に背を向けていたのかな…
神様が僕をふりむかせてくれた。やっぱり神様ってすごいね
