神によって築かれる平和
「主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」(ミカ書4章3節)
ミカ書が書かれた時代でありますが、この時代は軍事的にも政治的にも経済的にも大きな力を持って世界の国々を支配していたのがアッシリアであります。
北王国ユダの国もこのアッシリアに隷属することで、かろうじて独立国としての存在を維持しておりましたが、政治的にも、道徳・倫理的にも、宗教的にも堕落し、大変混乱した社会状況が作り出されておりました。
預言者ミカはこのような時代に神から預言者としての召しを受け、国の指導者たちを始め、偽りの預言者、そして民全体に神から授かった言葉を語ります。
神がユダの国を裁きをもって臨むというミカの言葉は、当時の人々に大きなインパクトを与えたのでありますが、ミカは裁きだけに留まらず、裁きと同時に神の祝福を語っております。
義をもって裁かれる神は、イスラエルを祝福する神であります。預言者ミカは神の裁きの時に、世界的な平和が到来すると語っています。
その平和はどのように到来するのでしょうか。それは武力をもって他国を支配する大国を神ご自身が戒められる。国と国との争いを、剣や槍で解決をはかっているが、もはや、剣や槍で解決を図るのではなく、神ご自身が神の審判と判決によって解決される時が来ると預言されております。
軍事産業が平和産業に切り替えられ、そこに全き平和な社会が訪れるというのであります。
今日平和を実現するために、様々な議論がなされております。「世界平和のためには抑止力として軍事力を増やさなければならない。」という声も聞かれます。しかしそのような軍事力によって作られた平和は真の平和ではありません。真の平和は軍事力によって築き上られるものではなく、軍事力を放棄した時に神よって与えられるものであることを今一度確認をしなければならないと思います。真の平和は神によって与えられるのです。
恵みのうちに行われたサマー・キャンプ
7月26日(土)から2泊3日、天城で行われたサマー・キャンプは主の豊かな祝福のもとに行われました。
サマー・キャンプ委員長の愛情と配慮あるプログラムのもとに総勢32名は大いに楽しみ、また大いに学ぶことができたキャンプでした。
一日目の夜の“お楽しみ会”は地区別対抗のゲーム大会でした。そのゲームの一つに「放蕩息子」の現代版をそれぞれのチームで創作し、演じて競うものでしたが、参加者全員がなかなかの役者ぞろい。見ている者は「おかしくて、おかしくて」大いに笑いました。これだけ笑える、というのも私たちキリスト者の特権だと思います。
参加者のお一人、K,Iさんが分団の発表の時に、今回のサマー・キャンプの感想を交えて以下のように報告をして下さいました。K.Iさんの報告がキャンプの様子を的確に伝えて下さっておりますのでここにご紹介します。
「主のお導きにより、この天城山キャンプに始めて参加出来ましたことを感謝致しております。空気と緑の美しさは、言葉に変えられません。蝉の声と紫陽花の花が咲き乱れ、栗が小さな実をつけ、何を間違えたか鶯が鳴いているとは、天城って不思議な所ですね。思っていたよりも広いこの山荘の中庭は野の百合と草花が咲き乱れ、賛美と学びを通して、イエス様の香りに包まれて静かに癒されました。あっという間に2泊3日が過ぎてしまいました。昨日朝、食堂で兄弟方だけで黙々と婦人方のお皿にお料理を盛りつけて下さっていたこと、目立たないようにご奉仕して下さっていたこと、胸が熱くなりました。”教会の信仰告白”もこの場で始めて知りました。私たちはイエス様を知らなかった時は、自分自身を義とする人生でした。イエス様を信頼して生きる人生とは、イエス様を信頼してすべての事を御手におゆだねして生きるという信仰者としての生き方です。昨日マルコ4:35〜41の学びを頂き、み教えの深さを知ることができました。イエス様を全面的に信頼し歩んでいるつもりでも、事何かがおこると一瞬のうちに自分に戻ってしまうことを教えられました。”イエス様が私のすべてでありますように。”毎日祈りながら自我というじゃま者がイエス様を遠ざけます。そんな私たちに恵みとあわれみの冠をかぶらせ私たちを慈しんで下さいます。偉大なる神の御わざを通して、小さな私たちを自覚せずには居られませんでした。」
「神が自分たちと共にいて行われたすべてのことの」の報告
「到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そして、しばらくの間、弟子たちと共に過した。」(使徒言行録14:27,28)
パウロ、バルナバが第1回伝道旅行を終えてアンテイオキア教会に戻って来ました。上記の聖書の箇所には、そのときのことが記されています。
第1回伝道旅行において、パウロ、バルナバはそれぞれの地において、困難、艱難を乗り越えて福音、宣教の業に邁進し、主イエスを主と信じる群れをつくり上げました。特に異邦人が救いに与ったことが報告されています。しかし、この業はパウロ、バルナバによるものではなく“神ご自身の業である”ことが述べられております。福音、宣教の業は人を用いて神様がなされる業であることが語られております。
この度国際ミッション・ボランテイア、佐々木宣教師が一時帰国し、諸教会を訪問しルワンダでの活動報告をして下さいます。
佐々木宣教師はルワンダのフツ族とツチ族の間の憎しみの感情をどう緩和し、また和解へと導いていくか、という大変大きな課題を背負いながら活動を続けておられます。そしてその活動は「佐々木さんを支援する会」の会報やホームページで紹介されている通り着々と進められております。
ルワンダのツチ族とフツ族間の抗争は100日間に80万人以上が虐殺された事件の後遺症は私たちの想像を絶する憎しみが満ち満ちているのだと思います。その憎しみを乗り越えて和解へと歩みだしたその出来事は「神が自分たちと共にいて行われた」神の出来事であると思います。
今日、私たちは佐々木宣教師から、その神がなされた業の報告を聞き、神のくすしきみわざを共にほめたたえたいと思います。
キリストの教会を建て上げる
「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(ペトロの手紙一2章1,2節)
ペトロは当時のキリスト者に対して、上記の言葉を語りかけ信仰に生きよ、と命じております。
神から離れた人間は分裂や分派、争いの思いを心の内に抱き、そしてその思いをあらわにし、人間関係を壊し、交わりを破壊する方向へと向かいます。しかし、この思いはキリスト者にもあるのではないでしょうか。その思いがあるからこそ、“悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去りなさい”と命じているのです。しかしキリスト者はそれらの思いを捨て去ることが出来るのです。それらの思いを捨て去るには“生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の父を慕い求める”ことです。
この霊の乳とは、御言葉です。聖書です。この御言葉を神の言葉として慕い求めていく時に、私たちの心の内にある醜い思いはその御言葉によって抑えられ、「神にとっては選ばれた、尊い、生きた石」となっていくことが出来るのです。
“尊い、生ける石”とは教会の基礎のことを指しております。キリスト者は“教会の基礎”とならなければなりません。基礎とは建物を支える重要な役目を担っています。しかし基礎は外見からは見えないものです。見えたらならば、その建物は美しくないでしょう。
美しい教会を建て上げるためにキリスト者は、己を砕き、他者に仕え、教会の基礎としての働きを担っていきたいと思います。
美しい教会、それはイエス様をこの世に現していく教会です。
「喜びと賛美と」
教会は賛美と切っても切れない関係にあります。それは神様が与えて下さる喜びを賛美として表し、神様への感謝の思いを賛美を通して表しているからです。
初代の教会においても賛美は盛んでした。今日の教会より、賛美は大いに歌われていたようです。
使徒パウロも賛美の大切さを教えております。
「キリストの言葉があなた方の内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイの信徒への手紙3章16節)
キリストの言葉とは、聖書の言葉です。今も活けるイエス様の御心は聖書の中にはっきりと啓示されているからです。ですから聖書を抜きにしたキリスト教はありえませんし、聖書を抜きにしたキリスト教理解はありえません。
パウロが「聖書」と言わずに「キリストの言葉」と言っているのは生き生きとしたイエス様の言葉を聖書の文字の中に押し込めることのないようにではないでしょうか。パウロが言わんとしていることは聖書に示されている活けるキリストを私たちの心に迎えるようにとの勧めであります。
私たちがイエス・キリストとの出会いを求めて聖書を読むならば、イエス・キリストは霊なるお方として私たちに働きかけて下さいます。そしてイエス・キリストを私たちの心に迎えるならば、私たちの日々の生活は喜びに満ちたものとなります。
キリスト教会で賛美が歌われているゆえんはここにあります。キリスト者に与えられた喜びを神に感謝して賛美しているのです。賛美は内なる喜びを外に表す行為ですが、この行為を通してそしてさらに喜びが与えられていきます。
どうぞ教会で共に賛美いたしましょう。
