< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2017-12-11 15:16:46 (42 ヒット)

ルカによる福音書22章22〜38節 12月に入りますと、クリスマスの季節です。人々は、となかいの鈴の音に乗せて、クリスマスプレゼントや、クリスマスデイナーの準備や、サンタクロースの登場を待ちわびております。しかし、キリスト教会では讃美歌の調べに導かれ、イスラエルという国の、エルサレムという町の、馬小屋へと足を早めております。全ての人々への救い主となられた神の御子イエス・キリストが私たちの所へ来られゆえにその方を礼拝するためにです。聖書には、「この水を、飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と書かれておりますが、クリスマスは12月だけの季節的な楽しみではありません。このキリストを礼拝する、つまりキリスト・マスこそ永遠の命に至る水を与えてくださる主に感謝し礼拝することです。
 さて、クリスマス・ストーリーは、2つの福音書、マタイとルカに記されておりまして、マタイ福音書ではイエス・キリストの誕生を祝い、占星術の学者がエルサレムに礼拝をしに来たこと、そしてマリアとヨセフ、そして赤ちゃんのイエス・キリストが、当時の王であるヘロデから命を狙われたので、エジプトに逃れ、しばらくたってからガリラヤ地方のナザレに移り住んだとですが、その内容を良く読みますと、マリアとヨセフが以前、どこに住んでいたのか、何故、エルサレムでイエスを生むことになったのか、詳しい説明は一切なく、占星術の学者とヘロデ王との対話を通して、旧約聖書のミカ書を引用し、新しい王はエルサレムで生まれたのであると強調している。
 ルカ福音書の方は、マリアとヨセフは以前からガリラヤのナザレの人であり、皇帝アウグストウスによる人口調査のために、自分の故郷エルサレムに戻った時、神の御子イエス・キリストがお生まれになった。そしてそこに羊飼いが礼拝をしに来たことや、お産の清めの期間が過ぎたのちに、マリアとヨセフはエルサレムの神殿に行き、山鳩、或いは家鳩を「いけにえ」として捧げて、その後、ガリラヤのナザレに帰ったことが記されています。マタイとルカでは多少内容が違い、ルカの方がより詳細に、記事の場所と時間が特定できますし、バプテスマのヨハネとイエスは元々、両親同士が親類関係であったこと、バプテスマのヨハネはイエスより6か月先に誕生したこと、妊娠中のマリアが150キロ離れた、ガリラヤのナザレからユダの町、エインカレムを訪れ、バプテスマのヨハネの母、エリサベトと挨拶を交わしたことも書かれており、更にバプテスマのヨハネの誕生にまつわる物語と、父ザカリアの賛歌があり、また御使いからお告げを受けたマリアの賛歌もあります。そしてマリアとヨセフが神殿を訪れた時に、救い主イエス・キリストに出会ったシメオンの賛歌、そしてアンナという女預言者が、この赤子のイエスを人々に救い主として紹介した記事が載っております。本日のメッセージの題はこのシメオンの賛歌、「万民のために整えてくださった救い」という御言葉から採りました。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-12-04 14:35:12 (85 ヒット)

マタイによる福音書1章18〜25節
マタイ福音書では、マリアの婚約者(当時は既に夫と呼ばれ、結婚したとみなされるが、結婚式までは赤子を生む関係性を持つことは厳禁であった)ヨセフの人柄を一言で「正しい人」であったと語ります。この言葉は聖書で二つの意味に用いられ、その一つは、人自らの努力により、清く正しく生きようとする良い姿勢ですが、実は人が自らの不完全さや罪に気づかず、勘違して生きることへの警鐘も含みます。なぜなら、「正しい人(義人)は一人もいない(ローマ3:10)」とあるように、神以外に真に正しい者は誰一人存在しないからです。もう一つは、同じローマ書で「正しい人(義人)は信仰によって生きる」と語られており、これは、神の目から見て喜ばれる生き方(イエスをキリストと信じること)を選ぶ者への祝福の言葉です。ヨセフは後者でした。
当初ヨセフは、マリアが身重になったことに悩み、「表ざたになる (原意:さらし者にすること)」を望まず、密かに「縁を切ろう(原意:去らせよう)」と「決心し(原意:切に願い)」ます(1:19)。突然の難題発生に苦悩するヨセフへ、神は夢の中で天使を通して、彼の選ぶべき正しき方向性を示されました。つまり、名誉や命を守るため、密かに彼の元からマリアを去らせるのでなく、受け入れ難い現実、神のご計画を共に歩むようにと諭されたのです。実はここに平安を得る秘訣があります。神と共に現実に立ち向かう信仰から「平安」が与えられるからです。
この時、彼が一番必要としていたのは、「罪からの救い」でした。なぜならマリアに予期せぬ命が与えられたことは、彼女の過ちと罪に由来するとヨセフは心の中でマリアを責め、憎しみに満ちていたかもしれません。しかし一方でヨセフは、何とか自分の力でマリアを守ってあげたいと考え、対立する心の狭間で苦しみます。けれども、天使の語りかけは、ユダヤの民が長年待ち望み続けていたメシア(救い主)誕生、イザヤ書の記述(イザヤ7:14)が現実となろうとしている事の重大さに気づき、個々人の幸いを超え、民族に対する神の計画を優先する信仰へとヨセフを整えたのです。「夢から覚める(1:24)」とある言葉は、単なる睡眠からの覚醒だけでなく、彼自身が御言葉によって霊的に目覚めさせられる体験となりました。即ち、真の「平安」とは、自らの幸いを求める以上に、隣人と共にへの幸いに生きることに目覚める時、与えられるからです。
マタイは福音書の最後に、イエスが十字架に架けられる前、総督ピラトの妻が「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました(27:19)」と夫ピラトに告げる場面を語ります。ピラトの妻は、ヨセフのように夢を通して揺さぶられますが、苦難の僕・イエスこそ真実に「正しい人」であり、死に値する者でないと示されながら、夫ピラトは愛する者の声に耳を傾けられなかったと、ヨセフの記事と対比させ記しました。
今、私たちはクリスマスを前に、「永遠に奪われることのない平安」をお与え下さる主イエスとの出会いが全ての人に与えられますようにと共に祈り、宣べ伝えて参りましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-11-27 15:43:01 (114 ヒット)

エフェソの信徒への手紙1章17〜23節
「教会」(ἐκκλησία/エクレーシア)という言葉の語源(ギリシャ語)を見ると、それは「(神さまによって)呼び出されたもの」という意味です。現代においては多くの場合、地域における個々の教会共同体や、建物としての教会を指しているように思われます。しかしそれは、かつてひとつの大きな組織的教会であったローマ・カトリック教会から、宗教改革によって個々人の信仰が認められるとともに、一つひとつの教会が自立していった(各個教会主義)中での言葉の変化だったでしょう。いま改めて原点に帰り、世界大のスケールで教会をとらえ、私たち一人ひとりがそれぞれの場所から、神さまによって「呼び出されて」いまここ(教会)に集められていることを思うと、とても感慨深く感じます。
そこにあるのは、まず第一に神さまの招きです。エフェソ書でパウロが繰り返し語っているように、教会には「すべて」のもの(22,23節)が招かれているのです。そこにあるのは、かつて「あなたがた」と呼んでいた人たちが「わたしたち」と呼び合い、イエス・キリストへの信仰を共にする関係性の中に入れられていくという、教会に与えられた「神の力」と「希望」の約束です(17,18節)。
その力の源、希望の光、約束のしるしは、「すべてのものの上にある頭」(22節)であるイエス・キリスト――その姿は、イザヤ書52〜53章に描かれる「苦難の僕(しもべ)」――です。栄光の王、キリストの姿は、私たちが思い描くような、きらびやかな王様の姿ではありませんでした。そこにあるのは、人々に理解されず、犯罪者として鞭打たれ、唾をかけられ、嘲られ、十字架に架けられ、それでもなお苦しみの中で人々のためにとりなし祈った、あの痛ましい姿です。人間の妬みや憎悪が渦巻くこの世界の中心で、神さまの愛を叫んだキリストの姿…聖書はそれを、「苦難の僕」の栄光の姿だと語るのです。自分を憎み、傷つける者も含めたすべての人を友と呼び、その友のために命を捨てる(ヨハネ15:13)などということが、いったい誰にできるでしょう。しかしそのキリストの姿にこそ、「すべて」の人を招く「キリストの体」なる教会の働きが表されているのです(23節)。
「キリストの教会」には、あなたもあなたの家族も、この世界のすべての人が招かれています。「ここからが教会、ここまでが教会」ではない。全世界において、また私たちの生活の全領域において、「すべてにおいてすべてを満たしている方(キリスト)のおられるところ」はどこでも「キリストの教会」だからです(23節)。
私たちは、この世界のただ中にあって、様々な日常の困難の中にあって、目を覆いたくなるような悲惨な出来事のただ中にあって、キリストのように愛を叫ぶもの、とりなし祈るものでありたいと思います。
水が海を覆うように、いま、ここにも、イエス・キリストの愛が満ち溢れている…
       「ここはあなたの教会です」


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-11-20 12:55:13 (87 ヒット)

コへレトの手紙9章10節、マタイによる福音書20章1〜16節「聖職」とは、司祭(や牧師、また教員)職にある者だけを指す言葉のように使われていました。しかし、ルターによる宗教改革の一つに、どのような(神の御心に沿う)職種で働くことも、神よりそれぞれが与えられた貴く聖なる職であり、召命感を持ち成し遂げることは神のみ旨だと確認したのです。その後、監督制(カトリック・ルター派)の教会制度から更なる宗教改革がなされ、会衆制(バプテスト)が整えられ、主の御前に等しい信徒の教会が形成されたのです。
旧約時代の職業は、親から子へ継がれ、仕事で労苦するのは、男(アダム)への罪の“報い”(創世3:17-19)であり、人生の“むなしさ”(コヘレト9:7-10)だと受け止められていました。しかし新約時代、主イエスは、弟子たちを取税人や漁師から、主の弟子として招かれ(マルコ1:16-20他)、招きに応え主に仕えつつ、それぞれの役割を担い合い、初代教会の基が形成されます。
主イエスの譬え話に、ある主人(主なる神)が労働者を雇い、自分のぶどう園へと送り込む物語(マタイ20:1-10)があります。夜明け、朝九時、正午、午後五時と『何もしないで<人生の意味や目的を見出せないで>』いる人々に職を与え、日が暮れる頃、一日の賃金を払う時となりました。驚くことに、働いた時間に関係なく、賃金の一デナリオン(当時、一日働いて家族を養える額)が全ての労働者に等しく支払らわれたのです。当然、夜明けから働いた者たちから不平不満が噴出します。ところが、主人はこう答えます。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。・・・わたしの気前の良さをねたむのか(20:13-15)」。主なる神が私たちの人生に与えられた価値観、信仰観と愛は、人の思いを遥かに超えています。
神が私たちを救い、主の働きへと招かれ導かれる、時、場所、方法は異なります。しかし主は「同じように」、それぞれの賜物を用い、仕える喜び、何よりも主と共に生きる喜びを与えたいと願っておられます。この主なる神の御心を知り、それぞれの職業観、結婚観、生死観、つまり人生の意味を理解する時、私たちは、人からの評価や比較による、不安や恐れから解放されるのです。
常盤台に主より託された教会の目的として、「礼拝・教育・伝道・奉仕・交わり・祈り」、そして「休息」があることを聖書から分かち合いました。今日の総会で、神の招きに応えて教会員一人一人が、それぞれの使命(ミッション)を見出し、喜んで主に仕える教会、新しい執事制度を具現化するための決議をします。今、主なる神はあなたをどのような神の(ぶどう)畑へ導いておられるでしょうか。神からの招きに恐れずに、各自の働きを共に担う主の同労者として歩みましょう。なぜなら主にあって、私たちは皆、“聖職”を与えられているのですから。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-11-13 14:44:08 (132 ヒット)

ペトロの手紙一 2章1〜10節、詩編46篇1〜12節
第一礼拝では、日本ルーテル教会(幼稚園)が宗教改革500年を記念し制作した紙芝居を用い、ルターが聖書に基づいて歩み、信仰者として成長する物語を分かち合います。ルターは父が期待した道でなく、神に従う修道士の道を選びました。そこで聖書そのものを読む機会を得、当時の教会が聖書以外の権威(教会と教皇)に従うことに疑問を抱き、恐れを乗り越え、神の真理に立って生きる道を歩み続けたのです。正にルターの生き方、特に一人の信仰者として成長する姿に心揺さぶられます。
ルターは聖書(ペトロ一2:9) より、人間全て(万人)は罪人であるが、救われた者は神の前に福音宣教の働きを託された祭司、つまり『万人祭司・ばんにんさいし』であると語りました。主イエスの到来まで、レビ人だけが祭司として神殿に仕える職務を担っていましたが、キリストの弟子(クリスチャン)たちへ、全世界へ福音を宣べ伝える者とされる宣教命令(マタイ28:19−20)が主イエスによって託されます。更に、聖霊が弟子たち全てに注がれ(使徒2章)、同じビジョンを共有する教会が誕生しました。使徒パウロは、一人一人が「キリストの体の部分」とされ、異なる賜物と役割が与えられている(コリ一12:27〜)と語るように、決して全ての人が教師や説教者とされるのではありません。しかし、全ての者が「祭司の務め」、つまり神と人との間で執り成し、全ての人が神と和解する《罪を告白し、赦され、救われる》という役割(祈ることを含め)を担うことを祈り求めるとき、キリスト者として訓練され、成長するよう勧められたのです。カトリック教会礼典の一つであった「塗油(終油)の秘蹟」なども、宗教改革を経て聖書に基づき、主の前に謙虚にされた信仰者が相互に祈り合う交わりで行える恵みと約束が確認されました。「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい(ヤコブ5:13-16)」とあるからです。
 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも(詩編46:2-3)」。ルター作詞作曲の「神は我がやぐら」は、この御言葉をもとに作られ、今も歌い継がれています。彼は決して自ら望んで宗教改革者とされたのではなく、一人の信仰者として聖書の御言葉に聴き従うことを願った時、主なる神が彼を用い、世界が大きく変えられたのです。ルターの有名な言葉の一つに、「たとえ明日この世界が終わるとも、私はリンゴの木を植える」があります。彼の徹底したキリスト再臨の希望に基づき、どのような時代においても、最後まで主に従い続け、成長し続けるキリスト者の力の源は、聖書の御言葉を日々受け続けることこそが、最上の道です。
 今日の成長感謝礼拝において、子ども達の身心の成長を祈りつつ、全ての者が主の御国に招かれる日まで、主に与えられた霊と魂が成長させて頂けることにも感謝し、御言葉の種と苗とを植え続けて参りましょう。


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