< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2018-09-16 15:38:10 (46 ヒット)

エフェソの信徒への手紙5章21〜33節
 「使徒信条」の後半には、「聖」という言葉を繰り返し用い、「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり…を信ず」と告白されます。「神の霊」に付記されることは当然ですが、不完全な者の集う「教会」や「交わり」に対して「聖なる」と告白することには少々戸惑いを覚えます。ここで訳される「教会」は“エクレシア”(<神が集められた人々の>集会)、「交わり」は“コイノニア”(分かち合い・神と人との霊的な交流)が用いられています。つまり、私たち全ての者は罪人ですが、その交わりに神が介入されるとき、神が「聖さ:ハギオス(異なる・神が分離するの意)」を与えられるので、キリストの教会と、そこに集められる人々の交わりは「聖別」される希望が告白されるのです。
 エフェソ5章25節以下には、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えに(十字架で犠牲と)なられたのは、「言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるもの」とするためだったと告白されます。そして終わりの時、主イエスの御前において、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせる(5:27)」ことが神のご計画であると約束されました。この箇所は、夫婦の愛の関係性とキリストと教会の関係性とは共通していると譬え、聖書の驚くべき神秘が解き明かされています。つまり、全く別々の存在であった男と女とが神によって招かれ、一つの夫婦とされていくようにキリストの教会(エクレシア)に招かれた人々は、互いに仕え合い、愛し合う関係を深めることで、かの時には栄光に輝く、聖なる、汚れのない、主イエス・キリストの前に恐れずに立たせて頂く者へと変えられていくと告白されたのです。夫婦が一つとされる目的と使命は「互いに愛を育む」ことであるように、教会がキリストによって立てられた目的も、様々な違いを乗り越えて「互いに愛し合う」とこであることが証しされています。
「教会」とは、「公同:カトリコス(普遍的・違いを乗り越えて一つ)の教会」であると、使徒信条は告白しました。今日、世界中に存在する教会(「目に見える教会」)は、様々な働き役割に違いがあっても、実は「見えない教会」として、キリストにあって一本のぶどうの木(一つの身体)として、前もって主イエスは語っておられたのです(ヨハネ15:1-17)。キリストが教会に託された使命とは、互いに愛し合うこと、様々な課題を乗り越えて一つとされることでした。それが正に「しみもしわのたぐいもない者」として、造り替えられ、神の前に「聖なる公同の教会」、また「聖なる交わり」と呼ばれるようになることだからです。現実の世界で、夫婦そして教会も、しみやしわだらけの美しいとは言えない状態かもしれません。それでも、御言葉は私たちにチャレンジするのです。「互いに仕え、互いに愛し合おう(ヨハネ15:17、エフェソ5:21)」と。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-09-10 15:01:31 (66 ヒット)

コリントの信徒への手紙二4章7〜18節
敬老の日を覚えての礼拝ですが、私たちの肉体とその人生が、神の栄光のために備えられていることを感謝し、若い人も年中の人も、高齢者も、男性も女性も、一人一人に与えられたその人生を感謝し、主の恵みを証し、主の栄光を賛美しましょう。
 私たちは生物学的に言えば、ホモサピエンスという人類で、昔は人生50年、今は人生100年と言われています。肉体的には、22歳から25歳ごろまでに体の成長が完成し、知的能力も30歳ごろがピーク、体力勝負のスポーツ選手なら40歳まで活躍できますが、その後、完全に肉体能力は衰えて行きます。しかしながら若いうちに信仰の訓練と学びをした方が、信仰の土台をしっかりと造ることができるでしょう。けれども実際の人生でその信仰が継続できるかどうかは別問題です。何故なら、信仰は常に生きているものです。そして肉体的な成長と共に、必ずしも人生経験と比例していくとは限りません。つまり内なる信仰も、内なる人は常に成長する必要があります。 
今日の聖書の箇所は、パウロが、伝道生活を続ける中で、肉体的な限界を感じつつ、自分は土の器のようだという言葉で自分自身を表わしました。見た目は立派ではなく、病気がちで、小柄の人だったかもしれません。それなのにこの神の命である福音を携えて誰よりも多くのローマ人とギリシャ人に福音を宣べ伝えて歩きました。そして私がこのように弱い肉体を持つ人間でありながら、福音を宣べ伝えることができるのは、私の力ではなく、神が与えた宝がこの土の器の中にあることが明らかになるためである。
そしてパウロは自分の内にあるその宝を「偉大な並はずれた神の力」だと告白しました。「四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない」。「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体にあらわれるためである」と言いました。逆に試練が信仰者に襲って来るのは、その宝が本物であることが明らかにされるためですよ。そしてその宝物とは復活の命。イエスの命だと言うのです。
もしクリスチャンが肉体的、物質的に或いは、信仰的に現状に満足しているならば、自分の内にある神の偉大な力である宝が見えてこない。そしてその先は、私たちの目に見えている現状はいつか朽ち去るので、ある期間、自分は信仰生活をした、教会の礼拝に出席していた、で終わってしまう。クリスチャンの信仰とは日々、新しく生きて、生きている信仰なので、本当は素晴らしく、輝かしい信仰生活が待っているのです。預言者エリヤ、エリシャは「万軍の主は生きておられます」と告白しました。イエス・キリストは、「神は今日も生きて働くので私も働くのである」と告げました。それはたとえ、困難があろうとも苦難があろうとも外側の人間が弱められても、内なる人は日々、新しくされ、現状を打ち破る偉大な力を私たちはこの土の器に授かったということなのです。 


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-09-03 14:44:58 (210 ヒット)

ヨハネの黙示録22章12〜21節
 「マラナ・タ」とはアラム語(ヘブライ語方言)で、「主よ、来てください」という意味で(黙示22:12,20、コリント一16:22)、『再臨・さいりん』とは、主イエスがこの世に再び臨まれ、つまりこの地上へ戻って来られることを表す神学用語です。福音書において、マタイは「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る…(24:30)」と語り、ヨハネは「…あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える…(14:3)」とそれぞれに主イエスご自身が再来を語った箇所が証しされます。前者マタイの再臨は、この世の終わりの時、神の裁きと新生が人類の歴史の中で起きる預言です。しかし、後者のヨハネの箇所は、主イエスを信じる一人一人が地上での終わりを迎える時、主イエスが私たちを神の御許へと導かれる出来事が約束されています。
 歴史を振り返ると、初代教会も、主イエスの再臨は直ぐに来ると信じつつ、緊張感を持って歩んでいたことが分かります(テサロ一4:15〜他)。しかし、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存知である(マタイ24:36)」の主イエスの言葉通り、世の終わりを特定することが目的ではなく、主イエスがいつ来られても良いように備える信仰を育むことが目的であったと後に人々は気づかされました。日本キリスト教史を見ても、世の中が混乱し戦争の足音が響く時代、内村鑑三のように「再臨待望論」を唱え鈍った信仰心を奮い立たせ、教会のリバイバルに火を灯したように、今も私たちは正しい再臨信仰に立つことが求められます。「御国が来ますように」。主の祈りのこの言葉には、世の終わりが来て、神の裁きを待ち望む信仰者を主イエスが求めておられたのでは決してありません。この世に多くの課題や痛みがある時こそ、その時代に生きる者たちが神の御前に悔い改め、福音を大胆に人々に告げ広め、神の御心が行われ、神の国(天の国)がこの地上に到来するために働くことを、主イエスは願っておられることを心に刻みましょう。主なる神の愛と義とは、実にバランスのとれた緊張関係の中に存在するからです。
 今、私たちはこの主イエスの再臨を信じる信仰をどのように育み、信じ、告白し続けることが求められているのでしょうか。世界の痛みに敏感となり、関わり続ける感性と、個々人の日々の生活における生への関心も、バランスが求められます。これこそが、キリスト者のスチュワードシップとして教会生活の中でも育まれていくことに気づかされ、使徒信条の次に告白される「聖なる公同の教会」となる基盤がここにあります。いつ再臨があっても、恐れずに生きる喜びを育み、主に仕える者とされますように。「マラナ・タ 主よ、来てください」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-08-27 14:57:29 (147 ヒット)

ヘブライ人への手紙1章1〜6節
 ルカ文書では、主イエスが復活された約40日後、復活の体のまま天に昇られたと証しします(ルカ24:36〜53、使徒1:6-11)。「イエスは言われた『…あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、…わたしの証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった(使徒1:8-9)」。更にヘブライ書簡には、「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました(1:3)」と。これらの証言に基づき、使徒信条は「主は、…、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり…」と告白します。
 聖書が語る「天」とは“天体や宇宙”、また“天国”を指すだけではありません。何よりも“神のおられる所”、“神の御心が行われる所”が「天」だと語ります。主イエスは「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ(ルカ17:11)」とも語り、目に見える地上の価値観で生きることのないように、「天」を仰いで生きることを教えられました。
 キリスト教会の歴史を振り返ると宣教法を大きく二つに分けられます。まず、地獄や陰府への不安と恐怖を語り、救いへ導く方法。その反対に、神の愛と憐れみを語り、天にある希望を語り救いへと導くことです。間違いなく、神にある裁きへの畏れ(恐れ)を心に刻み、かつ、神の驚くべき赦しと恵みをバランスよく聖書から心に留める必要があります。しかし主イエスの生涯を見ると、律法学者や宗教家に対しては厳しい裁きを語りましたが、その福音宣教の中心は、父なる神の驚くべき愛と赦しを信じ、そのお方を見上げて歩むように示されました。そして遂には、「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」である神の御子が十字架の上で私たちの罪を清め、死んで陰府にまで降られたのです。しかしそのイエスを神は三日目に復活させられ、父なる神のおられる天へと引き上げられました。これは、私たち人間を愛する神が、イエスの死と復活、更には「昇天」の出来事を通して、私たちもイエスと同じように、神と共に天において生きる祝福をお与えになるためでした。コロサイの書簡にはこう告白されます。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。…地上のものに心をひかれないようにしなさい。あなたがたの<永遠の>命(ギ:ゾーエ)は、キリスト共に神のうちに隠されているのです(3:1-2)」と。永遠という驚くべき祝福の世界へと私たちを導く計画を立てておられる主なる神を信じ、天を見上げつつ、歩み続けて参りましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-08-20 15:18:07 (202 ヒット)

詩編1篇、マタイによる福音書7章24〜29節
 私たちの生きる世界には、人間の力ではどうにもしようがないことが溢れています。そのようなことの中には、「ときが巡り来れば実を結び」(詩編1:3)とあるようなポジティブな出来事も、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかる」(マタイ7:25, 27)とあるようなネガティブな出来事もあります。どうにもできない、そのような現実に直面するとき、私たちは揺るがされるものです。決して揺るがされることの無い強い意思、固い信念、そのようなものを持つことができれば…。日々一喜一憂する自らの心、右往左往する人生を振り返りながら、そう願うことがあるかもしれません。聖書はそんな私たちに、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と語られるイエス・キリストを指し示し、このおかたにつながって生きる(ヨハネ15章)という生き方を教えています。
 「いかに幸いなことか」(1節)という言葉から始まる詩編の歌には、神さまご自身がまず、そのような生き方へと私を導いてくださっているということが歌われています。「流れのほとりに植えられた木」(詩編1:3)…それは神さまが、絶望に荒れ果てた大地から、命の希望あふれる水のほとりへと、私を植え替えてくださるという約束です。また、マタイ福音書で言われている「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(マタイ7:24)…それは神さまが、風によって吹き飛ばされ、水によって流される砂地ではなく、決して揺るがない岩の土台を、私に示してくださっているという希望です。命の流れ、揺るがぬ岩、イエス・キリストにつながって生きる生き方こそ、聖書が語る「ぶれない生き方」です。
 しかし、このイエス・キリストを信じて生きてみたとしても、いやむしろ、そうすればするほどに、自分自身の価値観や生き方が揺るがされるように感じることがあります。それは、「岩の上に家を建てる」ということの実際なのだと思わされています。決して揺るがない強固な岩の上に、私という家を建てるためには、私自身がその岩に合うように形を変えなければなりません。私に噛み合うように土台を削るのではなく、土台に合うように私が砕かれていくのです。そのために私たちは、土台であるイエス・キリストについて知る必要があります。「わたしを知りなさい。道であるわたしを、わたしの生き方を知りなさい」――「権威ある者として」(マタイ7:29)、人となられた神さまご自身として「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」(24節)と言われたキリストの言葉が響いてきます。
聖書が私たちに語っている希望、それは、私たちがたとえどんな困難によって揺るがされようとも、イエス・キリストは変わることなく揺らぐことなく、私の命の流れとして私を潤し、私の生きる土台としてそこにあり続けてくださるということです。自然の猛威を感じさせられる昨今、また価値観の多様化するこの時代、私は、この揺るがない土台の上に立つことができているだろうか…。考え続けていきましょう。


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