「神が自分たちと共にいて行われたすべてのことの」の報告
「到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そして、しばらくの間、弟子たちと共に過した。」(使徒言行録14:27,28)
パウロ、バルナバが第1回伝道旅行を終えてアンテイオキア教会に戻って来ました。上記の聖書の箇所には、そのときのことが記されています。
第1回伝道旅行において、パウロ、バルナバはそれぞれの地において、困難、艱難を乗り越えて福音、宣教の業に邁進し、主イエスを主と信じる群れをつくり上げました。特に異邦人が救いに与ったことが報告されています。しかし、この業はパウロ、バルナバによるものではなく“神ご自身の業である”ことが述べられております。福音、宣教の業は人を用いて神様がなされる業であることが語られております。
この度国際ミッション・ボランテイア、佐々木宣教師が一時帰国し、諸教会を訪問しルワンダでの活動報告をして下さいます。
佐々木宣教師はルワンダのフツ族とツチ族の間の憎しみの感情をどう緩和し、また和解へと導いていくか、という大変大きな課題を背負いながら活動を続けておられます。そしてその活動は「佐々木さんを支援する会」の会報やホームページで紹介されている通り着々と進められております。
ルワンダのツチ族とフツ族間の抗争は100日間に80万人以上が虐殺された事件の後遺症は私たちの想像を絶する憎しみが満ち満ちているのだと思います。その憎しみを乗り越えて和解へと歩みだしたその出来事は「神が自分たちと共にいて行われた」神の出来事であると思います。
今日、私たちは佐々木宣教師から、その神がなされた業の報告を聞き、神のくすしきみわざを共にほめたたえたいと思います。
キリストの教会を建て上げる
「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(ペトロの手紙一2章1,2節)
ペトロは当時のキリスト者に対して、上記の言葉を語りかけ信仰に生きよ、と命じております。
神から離れた人間は分裂や分派、争いの思いを心の内に抱き、そしてその思いをあらわにし、人間関係を壊し、交わりを破壊する方向へと向かいます。しかし、この思いはキリスト者にもあるのではないでしょうか。その思いがあるからこそ、“悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去りなさい”と命じているのです。しかしキリスト者はそれらの思いを捨て去ることが出来るのです。それらの思いを捨て去るには“生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の父を慕い求める”ことです。
この霊の乳とは、御言葉です。聖書です。この御言葉を神の言葉として慕い求めていく時に、私たちの心の内にある醜い思いはその御言葉によって抑えられ、「神にとっては選ばれた、尊い、生きた石」となっていくことが出来るのです。
“尊い、生ける石”とは教会の基礎のことを指しております。キリスト者は“教会の基礎”とならなければなりません。基礎とは建物を支える重要な役目を担っています。しかし基礎は外見からは見えないものです。見えたらならば、その建物は美しくないでしょう。
美しい教会を建て上げるためにキリスト者は、己を砕き、他者に仕え、教会の基礎としての働きを担っていきたいと思います。
美しい教会、それはイエス様をこの世に現していく教会です。
「喜びと賛美と」
教会は賛美と切っても切れない関係にあります。それは神様が与えて下さる喜びを賛美として表し、神様への感謝の思いを賛美を通して表しているからです。
初代の教会においても賛美は盛んでした。今日の教会より、賛美は大いに歌われていたようです。
使徒パウロも賛美の大切さを教えております。
「キリストの言葉があなた方の内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイの信徒への手紙3章16節)
キリストの言葉とは、聖書の言葉です。今も活けるイエス様の御心は聖書の中にはっきりと啓示されているからです。ですから聖書を抜きにしたキリスト教はありえませんし、聖書を抜きにしたキリスト教理解はありえません。
パウロが「聖書」と言わずに「キリストの言葉」と言っているのは生き生きとしたイエス様の言葉を聖書の文字の中に押し込めることのないようにではないでしょうか。パウロが言わんとしていることは聖書に示されている活けるキリストを私たちの心に迎えるようにとの勧めであります。
私たちがイエス・キリストとの出会いを求めて聖書を読むならば、イエス・キリストは霊なるお方として私たちに働きかけて下さいます。そしてイエス・キリストを私たちの心に迎えるならば、私たちの日々の生活は喜びに満ちたものとなります。
キリスト教会で賛美が歌われているゆえんはここにあります。キリスト者に与えられた喜びを神に感謝して賛美しているのです。賛美は内なる喜びを外に表す行為ですが、この行為を通してそしてさらに喜びが与えられていきます。
どうぞ教会で共に賛美いたしましょう。
信仰と自己認識
「わたしたちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかしわたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマの信徒への手紙7:14,15)
パウロは律法は霊的である、と語っております。この霊的とはどういう意味なのでしょうか。それは神から出たものであり、本来その律法によって神の意思が表明されており、人間の生きる道、あるいは守るべき事柄が示されているからだと思います。そういう意味において、パウロは「律法は霊的なものであることを知っています。」と語っています。
しかし、残念なことに罪ある人間は、人間にとって神の意思を示す律法、そして真理を示す律法が与えられますと、その律法を守るか守らないかが問題となり、神の意思からどんどん離れてしまうのです。
15節において「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」と嘆いております。「自分が望むこと」とは、何でしょうか。それは神の御心に従おうとする思いであります。その思いを抱きながら、その思いを実行できない、と悩んでいるのであります。実行に移しているのは、「自分が憎んでいる」ことだ、と嘆いております。それは神の御心に反することでしょう。神の御心に反することは、自分自身が憎んでいることなのに、その憎んでいることを行っている、これはパウロ自身承認することの出来ない、というのであります。自分自身の中にある内部分裂を嘆いております。
パウロ律法が良いことである、と認める一方、他方ではそれと反対のことを言っている、これは一体どういうことなのか、とパウロは自問自答するのであります。そしてその回答は自分のうちに宿って罪だという結論に達するのであります。そしてこの罪は、イエス・キリストによって清算されているのだから、内部分裂している自己であっても、その自己を受け入れて下さる「神に感謝いたします」と神賛美をしています。
私たちも、自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをしてしまう者です。この自己認識を与えてくれるのが信仰です。そして信仰はこのような私を神は赦してくださることをも示してくれます。それゆえ私たちもパウロと同じように「神に感謝いたします」と感謝の意を表し、日々歩んでまいりましょう。
私たちを訴える良心
「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」(ローマの信徒への手紙2:14,15)
人間は自らの善悪を判断する基準を自己のうちに持っております。良心でありますが、その良心が示すことは神の御心であります。たとえば、「むさぼってならない」でありますがユダヤ人でない私たち日本人はモーセの律法を持っておりませんが、むさぼりはいけないことであることを私たちは自分の良心によって知らされております。
ここで問題になるのは、人間はユダヤ人が律法を守ることが出来ないように、良心に示されたことを、人間は守り、行うことが出来ないということであります。人間の良心すら、人間のエゴに隷属しているからです。
パウロは律法、これはユダヤ人に与えられている律法だけでなく、異邦人、外国人、私たち日本人がそれぞれに持っている法、良心、これらによっては人間は義とされないことを訴えております。律法、法の類は違反を指摘するだけで、人間を義とする働きはありません。
ですからパウロは人間の救いは法律とは別に、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられるということをこのローマ書において語っております。
全ての人間は、ユダヤ人であろうと、ギリシャ人であろうと、また、私たち日本人であろうと、神の御心は、いろいろな形で示されておりますが、全ての人間はその示された神の御心を行うことが出来ない、いや、逆に神の御心に逆らって生きる存在なのであります。その神に逆らって生きる存在である私たちの罪を、イエス様が赦して下さる、と宣言してくださっているのでありますから、はばかることなく、イエス様の罪の赦しに与りたいと思います。
