< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2017-09-17 22:42:18 (43 ヒット)

テモテへの手紙二3章12〜17節
 500年前の1517年10月31日、ドイツ・ヴィッテンベルク城教会の門に「95か条の提題」が張り出されました。修道僧・マルチン・ルターが、唯一の教会・カトリックに対し、聖書をどう読んでも、当時の教会の教え(煉獄など)が書かれていないことに対する疑問への返答を求めたのです。悲しいかな当時の教会は、聖書に基づく教え以上に、1500年近く続く教会の伝統や人為的な教えが優先され、教会が変化・改革されることを恐れ、ルターを破門するに至りました。それまでもチェコのヤン・フス(1411年破門)や英国のジョン・ウイクリフ(1415年破門)らも聖書こそ、キリスト者の生活基盤となると訴えましたが、処刑され、その教えはもみ消されていました。しかし遂にルターの時代、グーテンベルグの活版印刷技術の助けもあり、95の提題はドイツ国中に配布され、多くの民衆が賛同の声を上げ、それまでのように教会と国家の癒着(政教一致)により権力で押さえつけることが困難となり、ヨーロッパ中に宗教改革のうねりが広がったのです。
 宗教改革においてラテン語で「ソラ=のみ」が聖書から語られ、正に主イエスの御言葉、「真理はあなたがたを自由にする(ヨハネ8:32)」との通り、心と魂が解放される喜びを人々は体験したのです。当時は「5つのソラ」、聖書のみ<ソラ・スクリプトゥラ>、信仰のみ、恵みのみ、キリストのみ、そして神の栄光のみでした。しかし、ルターの宗教改革以降、更なる改革が進み、「神の選び」を語るジャン・カルバンなど今のバプテスト教会の信仰の基盤になる教理が聖書から明示されますが、政教一致など聖書的でない教えがまだ含まれ、幼児洗礼の否定、非暴力を訴えるメノー・シモンズ(1542年逃亡者宣言)たち<後に、アナ・バプテスト(再洗礼派)と呼ばれる>によって、「信仰者のバプテスマのみ」など更なる改革が続きます。そして1612年、イギリス国教会より分離した群れ、私たちバプテスト教会の源流が誕生するに至った (1631年に生じた独立派に吸収された)のです。しかし、今のバプテストの教えが完全だとは信じません。なぜなら今なお宗教改革、いや自らを改革し続けること<新生>を主が求めておられるからです。
    <今回のシリーズは、聖書に基づく5つ以外の
              「ソラ」も分かち合います>
 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です(テモテ3:16)」とあり、宗教改革当時は「教会」や「教皇」に与えられていた権威を否定し、キリスト者は「聖書のみ」に聞き従うこととなりました。こうして、主イエスがニコデモに言われた、「人は、(水と霊とによって)新たに生まれなければ、神の国を見ること(入ること)はできない(ヨハネ3:3-5)」と語られた意味への理解が深まったのです。
 私たちは一度限りの水による新生と共に、日々、生ける神の御言葉<聖書>に触れ、聖霊によって常に“新生”し続ける者として生かされていることを信じ、感謝しましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-09-11 13:47:29 (75 ヒット)

出エジプト記20章17節
「本当に欲しいものは」と問われたら、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。それをじっと見つめながらもう一度、「いや、『本当に』欲しいものは」と問われたら、目の前のそれがまた別のものに変わってはいかないでしょうか。私たちはよく、「自分のことしか考えられない」生き物だと言われることがありますが、本当にそうでしょうか。私たちは、本気で「自分のこと」を考えたことがあるでしょうか。「本当に欲しいもの」はなんですか。
 哲学者キルケゴールの言った「死に至る病」という言葉――その意味するところは、私たちが本気で「自分のこと」を考えてしまったならば、「絶望」に突き当たるということです。栄華を極めた王ソロモンでさえ、「すべては空しい」(コヘレト1章)と述べました。私たちには、また私たちの生きる世界には、限界がある…それに気づいてしまった時、私たちは絶望してしまう…それでは生きていくことができないので、私たちはその絶望を忘れ、満たされないその思いを埋めてくれる何かを求め、自分のところにないならば、と「隣人のものを欲して」(出エ20:17)しまうことさえある。「ここにはない、でもあそこにはあるのではないか」、そうやって他者との境界線を越えて、世界を思い通りにしようとする。そのために時に他者の持ち物を奪い、関係性を奪い(姦淫)、命をも奪っていく。私たちは、「空しい」「ない」ということ、「絶望」を見つめることが恐ろしいのです。
 しかし聖書は十戒を通して、私たちには神さまの「ほかに神があってはならない」(出エ20:3)と語ります。ほかに「ある」ということ自体があり得ない。「わたしはある」(出エ3:14)という神さま以外には何も「ない」のだということ、そのことを認めるようにと語りかけるのです。
 サマリアの女性(ヨハネ4章)は、心に深い「渇き=絶望」を抱え、それを何とかして埋めようとして生きていました。彼女はキリストに、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)と言いました。その時彼女が出会った神さまからの語りかけが、今日私たちにも語られています。神さまが「礼拝する者を求めておられる」(23節)ということ、私が神を(あるいは宗教や信仰を)必要とする以前に、神さまが私を求めておられるということです。私を造られた神さまが、私の存在を、命を、無条件に必要としてくださっているというのです。そのことを私に伝えるために、神さまは何度も語りかけてくださっていたのです。あの「ぶどう園の主人」(ルカ20:9-19)のように。
 私の「本当に欲しいもの」はここに「ある」のです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-09-04 14:40:52 (76 ヒット)

出エジプト記20章16節 
海外で裁判、大統領就任式など、聖書の上に手を置いて宣誓する姿を見かけます。しかし、教会では神にも人に対しても極力「誓う」という行為はなされません。なぜなら主イエスがこう言われたからです。「一切誓いを立ててはならない。天にかけて…、地にかけて誓ってはならない。…また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである(マタイ5:34-36)」と。イエスはご存知だったのです。私たち人間が心では誠実に、正直に生きようと願っているにも関わらず、隣人や大切な人を傷つける弱さ、危うさという罪を抱える者であることを。
 「隣人に関して偽証してはならない」と神がモーセに与えられた十戒の第九戒は教えます。この地上で出会い、共に生かされている人々を聖書は“隣人”と呼びます。その人々が不利になるようなこと、悲しませることをしてはいけないと語られてきました。ですが、どうして人類の歴史は繰り返し、この第九戒に反する出来事で満ち溢れているのでしょうか。
イソップ寓話の有名な「おおかみ少年」のように、ウソをつくことは隣人に対してだけではなく、自らに大きなしっぺ返しが及ぶことが語り継がれてきました。頭では分かっているはずなのに、私たちはつい自分自身(の側)を守ることを第一に考えます。この十戒が、人ではなく、神によって語られていることの素晴らしさは、単に人の目があるからという理由で倫理道徳的観点から行動する人となることを教えるものではないこと。何よりも神が創造し、私にとっての他者(神が愛する人)も含めて誰一人として苦しむ姿を神ご自身が願っておられないからこそ語られる愛の叫び声だからです。
 主イエスが十字架にかけられる直前、最高法院と大祭司の庭において(マルコ14:53-72)、また総督ピラトの面前で、様々な不利な証言(偽証)がなされ、遂には神の御子・救い主であるイエスが死へと追いやられていく姿が克明に描かれています。ここに関わった全ての人々、更にはもしそこにいたら同じようにしていたであろう私(たち)の罪*1を、贖う*2ため、主イエスは黙して十字架の死を受けて下さったのです。その三日目に、神はイエスを復活させ、神の右の座へと引き上げて下さいました。そして今も、主イエス・キリストは私たちのために執り成し、不利な証言によって裁かれることがないように見守っておられるお方です(ヘブライ10:12-14)。
 この神の深い愛に触れる時、神の子とされ、少しずつ、少しずつ、相応しい者へと私たちが変えられていく希望が与えられています。こうして大切な隣人と共に心開き、神に、そして人にも正直に生きる喜びを分かち合って参りましょう。

*1[ギ]ハマルティア:的はずれな生きかた *2あがなう・身代わりになって罪という借財を帳消しにする


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-08-28 13:49:22 (103 ヒット)

出エジプト記20章15節
「盗む」という行為は、「所有」があってはじめて成立します。「盗む」ということを考える時、私たちは「所有する」ということについても考えることになります。
「盗んではならない」(出エジプト20:15)という十戒の第8の戒めは、具体的には人身売買を禁止する戒め(出エジプト21:16, 申命24:7)として語られています。そこに込められているのは、「人の尊厳を否定する」ということに対する、神さまからの強い反対の声です。相手の「所有」しているもの(お金、物、人間関係、時間、生活、言葉、自由意思など)を奪うことによって、相手の尊厳を否定してしまうこと。それは、私たち一人ひとりが持っている、目に見えない「境界線」を越えてしまうことによって生じます。これらによって引き起こされる具体的な問題が、最近では、パワー(あるいはモラル)ハラスメント、DV(ドメスティック・バイオレンス/家庭内暴力)、虐待などの言葉で表現されるようになってきています。そして、この「尊厳の否定」の最たるが、相手の命を奪ってしまう殺人です。
 聖書には、部下を殺してその妻を奪い取ってしまった、ひとりの人間、ダビデ王の姿が生々しく描かれています(サムエル下11章)。この行為は、明らかに十戒の第6戒「殺してはならない」(出エジプト20:13)と第7戒「姦淫してはならない」(同14節)をやぶる行為でした。ただ神さまはその時、預言者を通して、裁きの言葉とともに次のような不思議な言葉を語られました。「不足なら、何であれ加えたであろう」(サムエル下12:8) すでに沢山の妻や側室のいたダビデに、「不足」などということはあり得ない、と思ってしまいます。しかしここで重要なことは、「それを加える(与える)のは神さまである」ということです。ダビデの最大の罪は、すべてを与えてくださる神さまの、権威という「境界線」を越えてしまったということだったのです。
 彼と対照的なのが、新約に登場するカナンの女性です(マタ15:21-28)。彼女は、キリストに娘の病気を治してほしいという切実な願いがあったにも関わらず、その願いを強引に押し通すことなく、謙虚に願い続けました。それは彼女が、彼女の願いを実現するのが自分の力ではなく、神さまのあわれみ(22節)であるということを知っていたからです。そんな彼女にキリストは、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)と言われました。
 すべての「所有」が神さまにあるということを知っていること。その神さまの「所有」を盗まないこと。神さまとの「境界線」を越えないことが、私たちが互いの「境界線」を越えないために必要なことであり、私たちがあらゆる「所有」から自由になって、幸せに生きるために大切なことなのです。そしてまた、イエス・キリストを与えるほどに私を愛してくださった神さま(ヨハネ3:16)は、私に次のように語ってくださる神さまです。
「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたし(神)のものは全部お前のものだ」
(「放蕩息子のたとえ」父から兄息子への言葉 ルカ15:31)


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-08-21 15:30:33 (105 ヒット)

出エジプト記20章14節          
 旧約では一夫多妻を容認されているような記事がありますが、本来聖書は創世記より一夫一妻のあり方を尊び、神より結婚する道が備えられる人は、一人の伴侶と命ある限り共に過ごすことが大切にされてきました。聖書はこの清い“結婚”生活を比喩とし、唯一なる神との愛に基づく関係性、またイエスを主と信じ、キリストの花嫁とされ、永遠の命に結ばれる喜びが語られます。
 「姦淫してはならない(出エ20:14)」との戒めは強烈な言葉ですが、別の言葉に言い換えると「愛する伴侶(妻・夫)を悲しませてはならない」でしょう。愛するという行為は、相手の立場に立ち、考え行動することです。にもかかわらず、ダビデ王然り、この悲しみがいつの時代にも絶えないのはなぜでしょうか。
 主イエスが示された倫理観は驚くものでした。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:27-28)と。この言葉を聞く者は、「え?!では誰がこの戒めを守れるのですか?」と驚愕することでしょう。主は更に、「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまえ。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましだ…(同29-30)」と語られました。これは死後、神に裁かれ、永遠の滅びに至らないようにと、あえて不可能と思える(これを実行するためでなく心に刻むための)教えです。これはパウロも告白した「善をなす意思があるのに実行できず、望まない悪を行う(ローマ7:15-20)」“私”、つまり罪人なる弱き人間に対し、それでもなお神に従う信仰を促すためでした。
その一方イエスは、律法や戒めに従うことにより「神が救う」とは一度も教えられていません。宗教改革者M.ルターは、「十戒を学ぶとは、私には“できる”と告白するためでなく、“できない”と神に告白するためである(大教理問答より)」と語り、他者を裁くためでなく、十戒を自らの戒めとして心に刻むことを勧め、日々、「<私の>祈りの言葉」として神に祈り、助けを求めるよう勧めました。
ある日、主イエスのもとへ姦通の現場で捕えられた女性が連れて来られ、裁かれようとしました(ヨハネ福音書8:1-11)。その時、律法学者たちから問われます。「先生、こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。すると主はこう答えられました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい(8:7)」と。何と、神の義と愛、そして知恵に満ちた対応でしょうか。私たちはこのイエスを主として信じ従う者(キリストの花嫁)です。この主イエスの愛に最後まで生かされ続けるため、互いに祈り合いましょう。なぜなら私たちの中にも主のこの御声が響いているからです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない(同8:11)」。
 


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