< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2018-02-19 15:25:38 (37 ヒット)

コリントの信徒への手紙二4章16〜18節
福岡女学院大学初代学長、岩橋文吉先生は「人の精神的飛躍はより優れた精神との出会いによってなされる」と言われたことを思い起します。私たちの精神的飛躍をもたらす人との出会いも私たちを深く愛しておられる父なる神様によって与えられます。
靖史先生のお父様である友納徳治牧師は高校時代に重い結核を患って入院していた時に、当時西日本新聞の文芸欄担当記者であった叔父、伊藤整さんが徳治さんを見舞って下さり、「君は病気をして何を失ったと思っているの?」と尋ねられて、即座に「青春です」と答えます。すると思いがけない言葉が跳ね返ってきたのです。「それは大変な思い違いだ。君は青春とは、美しい少女に出会い、音楽会、読書会、サークル活動。旅行、誕生パーティ。それにスポーツ、映画、観劇に…と思ってはいないかい。それらはすべて青春らしい生活形式であっても、青春そのものではない。例えて言えば蜃気楼、砂漠の中の幻影のようなものだ。それを追い求めていると、やがて疲れ果てて、人生そのものに幻滅を抱くことになる。…
 形だけの青春が失われることは、真実の青春が失われることではないのに、君は青春を失ったと言う。その喪失感により、君は死を恐れ、不安を抱いている。しかし、その青春の喪失感を君の魂の深みへと導いてゆく鉛糸だと思い、怖れずに自分の内なる声に届かせるといい。」と語るのです。深い言葉です。74歳になられた友納先生がその時を回想しながら自分に語られた伊藤整さんの言葉を思考に思考を重ねて表現した言葉です。
友納少年が「僕は青春を失った」と言い切ったとき、青春時代の見える形、一般の人々が楽しむ青春の様々な形を失っただけであり、自分はどこから来て、どこに行くのか?自分の存在の意味があるとしたら、何をもって意味があると言えるのか?自分の存在が死と共に無となり、それで終わりなのか?等を問いながら生きることも、それは形には現われないけれども、青春の大切な一部なのだと伊藤整氏は諭したのです。
 友納徳治先生は今紹介しました伊藤整氏の言葉を、『生きぬく力』(伊都文庫、2009年)の中で述べているのです。そして、伊藤整さんが語られた青春らしい生活形式を「目にみえるもの」、青春の本質的姿を「目に見えないもの」と言い換え、「この“見えるもの”と“見えないもの”の区別、識別は、その後も自分の基調音として脈打っている」と見事な文章で表現しています。私たちも「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」ことの大切さを聖書から学びましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-02-13 09:46:40 (62 ヒット)

ルカによる福音書17章11〜21節
 「国」というのは、私自身がこの広い世界においてどこに立つのか、その足場のようなものかもしれません。それは、私たちの寄るところであり、所属するところ、生きる場です。国や国籍は周りと自分を区別する、ひとつのアイデンティティ(帰属意識)ともなって、私たちはそれらを共有する人々と安心して暮らし、そうでない人々を時に排除することさえあります。島国である日本は、物理的国境も精神的国境も、特に強いものがあるように感じることがあります。2月11日「建国記念『の』日」の制定の議論、その背景にある国家観にも、日本「国」という強い意識が表れているように思います。
 イエス・キリストは人々に「神の国」についての教えを語りました。「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(11節)という御言葉は、私たちがもっている「国」の概念とは違う、新しい教えです。キリストがこの言葉を語られる少し前、10人の病人が彼に病の癒しを求めてやってきました。彼らは普段は、宗教的な課題で仲の悪いユダヤ人とサマリア人でしたが、共に「わたしたちを憐れんでください」(13節)と願い、イエス・キリストのもとにやって来ました。そこでは彼らは、「国」や「宗教」というそれぞれのアイデンティティ、違いを超えて、「病を癒してほしい」という願いと祈りによってひとつになっています。このように、私たちが互いの痛みを分かち合い、共に祈るとき、共に平和を願い求めるとき、その祈りは私たちの違いを超えていくのでしょう。
 実際、世界の平和のためには、国も国境も必要でしょう。また、私たちの間にある違いは、必要というよりも必然です。そんな中で、不用意に互いの境界線を越えてしまうことは、互いを傷つけることにも繋がります。しかし、それらの違いを“超”えて、私たちが共に祈りを合わせるとき、「神の国」は、その私たちの間にあるということを、聖書は語っているのです。
 教会は、2月11日を「信教の自由を守る日」として覚えます。イエス・キリストによって病を癒される中、たったひとり神に感謝したサマリア人の姿(18節)は、当時のユダヤ人の閉鎖的な宗教文化の中で、国や信仰が違っても、神と出会い祈る自由があることを、皮肉を込めて物語っています。聖書は、「国」や「宗教」というアイデンティティによって、私たちが互いの間に作り上げてしまう「へだての壁」を、イエス・キリストが取り壊してくださったと語っています(エフェソ2:14)。
 私たちは、「ここでもなく、あそこでもなく、私たちの間に神さまの平和の国が実現し広がっていくように」と、国の違う、信仰の違う人たちとさえも、平和の祈りを合わせていきたいと切に願います。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-02-05 16:02:12 (100 ヒット)

詩編5篇2〜4節
 「祈りは適度な声で静かに祈るもの」と日本の教会では教えられたようです。しかし、旧約を読むと「叫ぶ祈り」が何度も登場します。「わたしの王、わたしの神よ。助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります(詩5:3)」。この他にも、繰り返し人々が叫び声をあげて神に祈り、その祈りに神が応えてくださることが証しされます。人生の様々な危機において、叫び声を神に、人にあげる存在として人間は神に造られているようです。韓国の教会を訪ねた時、特に金曜徹夜祈祷会で、会衆が一斉に大きな声を上げて、叫びながら祈る姿に衝撃を受け、また感動したことは忘れられません。
 ある日、弟子たちと主イエスがエリコの町を出た時、道端に座っていた二人の盲人が、主がそこを通られることを知り、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました(マタイ20:30)。すると群衆たちは彼らを叱りつけ、黙らせようとしたのです。ところが二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。そこで主イエスは立ち止まって、彼らの願いを聞き入れ、癒されたのです。私たちは今、主なる神に、大きな叫び声をあげなくても、聞いてくださることを知っています(マタイ6:5〜)が、私たちの人生における状況や心情が叫び声を上げて祈ることを必要とする時、恐れず声を出せる祈りの場も必要なのかもしれません。
実は、主イエスも十字架上で何度も叫ばれました(マタイ27:50)。それは単に苦しみだけの叫び声でなく、父なる神への語りかけ、御言葉による祈りの言葉でもありました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか〈マタイ27:46/詩22:3〉)」。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます(ルカ23:46)」。この主イエスの、「御言葉による祈り」と「執り成しの祈り」の叫びは、父なる神の許に届き、信じる者にも、まだそうでない者にも神の赦しと救いの道が開かれる偉大な力となりました。このように、主イエスは私たちの心と魂(霊)の声なき深き嘆きを、主ご自身が代わって叫けばれ、「恐れず、神に苦しみ痛みを訴えよ」と示されたのです。
 今日、私たちが叫びをあげるのは、どんな時でしょうか。本当に、何かの助けが必要な時は、周りに臆することなく叫び声を上げるべきです。ですから、私たちはそのような祈りを互いに受け入れ、また必要を覚える時、恐れず叫び祈ることも信仰生活の大切な姿勢であると知る必要があります。
 神の民は、神への魂の叫びを祈りのみならず、賛美の歌声へと変えていきました。祈りによって、また賛美によって神に恐れず叫びましょう。なぜなら、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった(詩106:6,13,19,28)」との御言葉は真実だからです。臆せず父に叫ばれた主イエスにならい、心の叫びを、言葉に、また賛美として奉げられるキリスト者は何と幸いなのでしょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-01-29 15:05:34 (126 ヒット)

ルカによる福音書11章5〜13節 主イエスは、父なる神に対しては、臆することなく「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」(ルカ11:9)と教えられました。その前後に二つの譬えを語られ、最初の話しを聞いた弟子たちは驚いたかもしれません。なぜなら、友達関係であっても、真夜中にパンを分けて欲しいと家に押しかけるなど非常識極まりないからです。ですが、主イエスは私たちが父なる神との関係において「遠慮は無用」と語られるのです。又もう一つの譬えでは、たとえ聞き分けの悪い子どもであっても、自分の子どもには良い物を与えようとするのが、地上で真の親子関係であるなら、天におられる父なる神はなおさらですと教えられたのです。
 旧約で最初に神に「求める祈り(願望の祈り)」が記されるのは、アブラハムが息子イサクの花嫁を探す使命を託された僕(しもべ)の祈りです(創世24:11-15)。彼はアブラハムの故郷へ初めて旅をし、そこで子息イサクのために相応しい花嫁を探すようにと命じられますが、不安と戸惑いの中で旅立ち、途方にくれたことでしょう。しかし彼はその地で当時、多くの女性が集まる水くみ場へと導かれ、主人アブラハムの神、主に次のような驚くことを求め祈ったのです。「この町に住む人の娘たちが水を汲みに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼み、その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、神がイサクの嫁としてお決めになった方だとさせてください」と。すると彼がまだ祈り終わらないうちに、リベカと呼ばれる女性が現れ、願った通りに事が展開していったのです。これは不思議な物語ですが、実はイサクに生涯の伴侶がこうして与えられた理由があります。それは、神がアブラハムにかつて約束された神にあるビジョン(幻)の実現であったからです。神の約束とは、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。…地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る(創世12:1-3)」でした。このような身勝手と思えるような祈りさえも神に叶えられた理由。それは、神が立てられた祝福の計画に彼の祈りが合致していたからです。
 主イエスが、臆することなく「父なる神に求めよ」と語られたのは、自分勝手な願いを神が何でも叶えて下さると約束をされたのではありません。主が「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる(ルカ11:13)」と約束されたように、私たちを真理へと導く『聖霊』が「すべてのことを教え、わたし(主イエス)が話されたこと〈神の御旨〉をことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:15-26)との約束があるからでした。だから、臆することなく願い求め、祈りましょう。
 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて
与えられる」 (マタイ6:33)
 


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-01-26 16:03:31 (126 ヒット)

詩編103篇1〜13節
 「歌」というものは、私たちの心の底から生まれてくるものです。あふれる感動、喜び、感謝、時には嘆きや叫びが、言葉となり歌となってほとばしる。そして、それらを忘れず覚え続けるために、私たちは歌を歌い継いでいきます。そうして歌い継がれた歌は、時代を超えて、状況を超えて、私たちの心を再び震わせる歌としてよみがえります。
 賛美歌もまた、様々な時代を生きた信仰者たちの心の歌、信仰の歌であり、それぞれの人生の中で、人々が個人的に、また共に経験した神との出会い、そのあふれる感動が歌となって、歌い継がれているものです。私たちが賛美歌を口ずさむとき、そこに込められた神さまへの感動と信仰に自らの心を重ねる瞬間、その歌は私自身の歌として、私の心を震わせるでしょう。
 詩編に多くの歌を残したダビデもまた、人生の様々な出来事の中でそれらの歌を生み出しました。彼は103篇で、「わたしの魂よ、主をたたえよ」(1, 2節)と、自らの深みに向かって呼びかけるように歌っています。彼の内には、遠い昔、イスラエルの人々がエジプトから救いだされた時に歌われた歌が響いていました(出エジプト記15章)。時代を超えて歌い継がれてきた、その感謝の歌を思いながら(7節)、彼自身もいま、変わることのない神さまの偉大さと忍耐に、畏敬の念と、ふつふつと湧いてくるような感動を覚え、たまらずそれを口ずさんでいるのです。苦しみの中でも、病の中でも、老いの中でも、変わらず「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」(8節)。
「わたしの魂よ」、そんな「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」(2節)。そう歌いかける彼の歌に応えるように、彼の魂から信仰の歌が湧き出ます。「父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(13節)。
 私たちの日常にはそのような、ほとばしるような賛美の「歌」が、感動が、感謝があるでしょうか。私たちの歌う賛美歌は、祈る祈りは、自らの深みから、魂からあふれ出ているものでしょうか。過ぎゆく日常の中で、辛く苦しい出来事の中で、自分の限界を思い知らされる中で、かつて感じたあの溢れるような喜びや感謝を忘れてしまいそうになるときがあるかもしれません。そんなときでも変わることのない、神さまの憐れみと恵みへの感謝を、賛美の「歌」によって私自身の心の深み、魂に刻んでおきたいと思います。魂に刻みこまれたその感謝は、いつの日か再び賛美の「歌」によって呼び覚まされ(復活させられ)、湧き出る泉のようにほとばしるでしょう。ダビデが詩編によって伝えているそのメッセージに励まされながら、私たちも自らの魂に語りかけたい、歌いかけたいと思います。わたしの魂よ!

「主はわたしの力、わたしの歌」
出エジプト記15章2節


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