< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2018-08-06 15:26:27 (45 ヒット)

マルコによる福音書15章1〜15節
使徒信条を読んで一番心に引っかかる言葉。私には「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」でした。主イエスの誕生が告げられた後、その偉大な生涯には一切触れられず、十字架の道を歩まれた場面へと一足飛びになっているからです。更に、当時のローマ総督だけが主イエスを十字架につけたかのような告白に違和感を覚えました。確かにピラトはイエスを十字架につける直接的決断を下しましたが、その背後に当時の宗教者や群衆の心の闇を忘れてはなりません。四福音書はピラトの面前に立ち裁かれる主イエスの姿を詳しく記しますが、それぞれを読む時、もしその場に私がいたなら、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆と共に叫んでいたに違いないと示されていきました。こうして、聖霊なる神の取り扱いを受けると「イエスを十字架に架けたのは“この私です”」との告白へ導かれ、ピラトだけが罪を問われるような告白はアンフェア―だと思っていました。
主告白の言葉はそれぞれ、バラエティー豊かで良いのです。私の「助け主」「癒し主」「赦しを与える主」…など。しかし、もしその中より、一つだけを選ぶとするなら、「十字架につけられた主」と告白するものとされることでしょう。つまり神ご自身が苦しみを受けられたことを。その視点よりこの信条を読み直すと、初代教会からの告白を、まず個々人の信仰告白をする基準として学び、吟味し、再告白する (原)文として評価できます。
宗教改革者カルヴァンは「ジュネーヴ教会信仰問答題55」(1541年)にこの箇所をこう記しました。“問い:「なぜ全生涯の歴史を省き、降誕から直ちに死に移るのですか」。答え「ここでは私たちの贖いに固有な、ある意味でその本質を含むことしか論じていないからです」”と。
かつてバプテストの先達者達が固定化した「使徒信条」を告白せず、個々人が聖書からイエスへの主(キリスト)告白を紡ぎ出し、聖霊の働きに委ねる決断をしたことに感謝を覚えます。受浸する際の信仰告白は一度限りです。しかしキリスト者は、その生涯を通して日々、新たな主告白をし続けることが求められているに違いありません。主イエスが受けられた苦しみ。それは、受動態でなく能動態として聖書は語ります。本来、私たちが担うべき十字架を、自ら進んで担われた主イエスの偉大な愛に感謝いたします。「(イエスは)…、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです…(ペトロ一2:21-25)」。
この主イエスの愛の足跡に私たちも続き、それぞれの人生の苦しみさえも祝福へと変えてくださる神の力を体験をさせて頂きましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-30 14:48:10 (67 ヒット)

ローマの信徒への手紙5章12〜21節 すべての人は「罪人(つみびと)」である――「人は皆、罪を犯した」(ローマ3:23)という聖書の言葉に驚く人は少なくありません。ここで言われている「罪」という言葉は、犯罪という意味ではなく、人が聖書の神さまに喜ばれる本来の生き方ではない「的はずれ」な状態に陥っていることを表す、聖書の特別な言葉です。ただそうであっても、「あなたも罪人(つみびと)なのだ」と言われて嬉しい人はいないでしょう。
 しかし、中にはホッとする人がいるかもしれません。自分自身の内にある言いようもない虚しさや、過去の行いについての罪悪感…人生の歩みの中で、ふとそれらが心に重くのしかかってくるように感じられるとき、私たちは「あなたは間違っている」「的はずれな生き方をしている」と、敢えてそのよう指摘してくれるような、そんな言葉をどこかで求めているようにも思います。
 最も有名な賛美歌、“Amazing Grace”の作者ジョン・ニュートンは、22歳の時、航海の最中に嵐に遭い、命の危険を感じる中で自らの人生を振り返りました。そして、沢山の後悔と共に、どうしようもない自らの心の汚れ、醜さに気づかされました。自分は生きている価値の無い存在である、そのように思い、死をも覚悟した彼でしたが、彼は奇跡的に命を救われ、そこに神さまからの「生きよ」という語りかけを聴くのです。彼はこの歌の中で「驚くばかりの恵みなりき/この身の汚れを知れる我に」と歌いました。自らの汚れ「罪」を知ったからこそ、彼は自らの命を救ってくださった神さまの驚くべき恵みに気がつくことができたのでした。
 ローマ書を書いたパウロについてもそうです。彼はもともと、キリストを信じる人たちを捕らえて殺す側の人間でした。そんな彼は、まばゆい光の中でイエス・キリストに出会ったといいます(使徒言行録9章)。その時彼もまた、自らの取り返しのつかない過ちと「罪」に気づかされ、同時に、これからはキリストを伝える者として「生きよ」という神さまからの語りかけを受け、全く新しい人生を歩み始めたのです。
 私たちもまた、神さまの愛と出会い、聖書の御言葉に触れるとき、まるで光に照らし出されるかのようにして、私たちの「罪は罪と認められ」(13節)、時に「増し加わる」(20節)かのように思うでしょう。しかしそのように感じられるときにこそ、それらを覆い尽くしてしまうほどの驚くべき「恵み」に、目を留めるようにと聖書は語ります。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(20節) そこにあるのは、「支配」(17, 21節)という言葉で表現される、満ちあふれる恵みの広がりです。
 クリスチャンは、赦されて「罪人(つみびと)」でなくなるわけではありません。傷跡のようにして未だ残り続ける「罪」を、神さまの驚くばかりの恵みによって覆われながら、それぞれが置かれた場所で、自らの救われた命を日々新たに生きる「赦された罪人(つみびと)」なのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-23 14:09:04 (120 ヒット)

エゼキエル書37章1〜14節、コリントの信徒への手紙5章1〜10節
預言者エゼキエルは、イエス・キリストがお生まれになった年より600年前の人。紀元前622年生まれ。当時、イスラエルという国は、現在の国のイラクで起こったバビロニア帝国によって、征服され、ユダユ人は捕虜として外国の地へと連れ去られ、首都エルサレムは荒野となり、国を失ってしまったのでした。エゼキエルもその捕虜の一人として25歳でバビロニアに連れてこられ、30歳の時、神からの啓示を受け、異国の地で預言者となり、このエゼキエル書を記しました。神殿もない外国の地で、イスラエルの苦難の人生から一つの幻が与えられ預言したのです。
主の霊がエゼキエルをある骸骨の骨で埋め尽くされた谷間へと連れ出しました。そこで彼は不思議な幻を見たのです。その谷間とはだれも住んでいない戦場の谷間、荒廃した首都エルサレムだという解釈もありますが、非常に多くの骨が周囲にあり、それはみな、はなはだしく枯れていました。主の霊が言いました。「これらの骨は生き返ることができるのか」「主よ、あなたがご存知です」それではこの枯れた骨に向かって預言を語れ。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。」「見よ。わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉をつけ皮膚で覆い、霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。そしてお前たちはわたしが主であることを知るようになる。」そうしますとゾンビ映画を
見るように、カタカタと音がして骨と骨が勝手に組み合わされ、次に筋ができ、最後に肉までついて、何千人という人間の体が合体しながら出来上がました。
 しかし、そこには命がありませんでした。そこで「霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺された者の上に吹きつけよ。霊よ、これらの殺された者の上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」と言われるまま預言をすると、彼らは生き返り、自分の足で立ち、非常に大きな集団(軍隊)となったのです。
 これは死人が蘇り、生きることを記したものではありません。生きていても魂が死んで、重荷を負い疲れた人々、生きる目的を失いただ死を待っている人々、誰からも相手にされず愛すること愛されることを知らずに自虐的生活をしている人々、これらの死に等しい人々に、神の命を与え、キリストの復活の力を与え、神の御栄光のために生きる素晴らしい人生が起こりうることを、神の素晴らしい救いが与えられる時が到来することを預言したものなのです。

「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいていますが、それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に呑み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-17 13:28:55 (105 ヒット)

ルカによる福音書12章8〜12節
「父なる神、救い主イエスの存在は信じられるのですが、聖霊のことが分かりません…」と漏らされる方は少なくありません。使徒信条のイエス告白の冒頭には、「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」と、イエスが肉親の母マリアより生まれる以前、聖霊の働きによって命が宿ったと驚くべき告白をしました。これは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。…神にできないことは何一つない(ルカ1:35-37)」とマリアへ天使からの語りかけに基づく信仰告白です。
 偉大な神、主の全容を理解することは私たち人間にできませんが、神の愛と救いの偉大さは人間の思いを遥かに超えた聖書の証言には驚かされます。福音記者ルカは「聖霊行伝」と呼ばれる使徒言行録において、「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた…(16:6)」と、聖霊が人格を有する存在として語りました。さかのぼること主イエスも「人の子の悪口を言う者は皆許される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。…言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる(ルカ12:10-12)」と、明確に聖霊に対する尊敬の念をもって語る姿が証しされています。また主イエスはご自身が十字架にかけられ、罪を贖う小羊としての役割を担う前、聖霊を送る約束をされました。聖霊を「別の弁護者」「真理の霊」と呼ばれ(ヨハネ福14:15-18、16:1-14)、ご自身がこの地上を去る時、愛する弟子たちが「みなしごになる」ことはないと、聖霊に対する力強い信頼をもって語られました。愛する者たちのために「出来ることは何でもする」救い主の愛がここにも深く示されたのです。
 使徒パウロが、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言えない(コリント一12:3)」語ったように、神を信じ、イエスを救い主と信じる者は、自らの力によるのではなく、聖霊によって信仰の告白がされると宣言しています。ここに、神を信じること、信仰の最終的決断が、実は人の側にはなく、神の霊の力とご計画によると示されているのです。
 聖書は、天におられる天地万物を造られた神、この世に人として来られた救い主なる神イエス、そして目には見えなくともどこにでも存在され、私たちと共におられる聖霊なる神の存在を臆することなく語ります。それは決して三つ別々の神が存在するのではなく、私たち人間を救い出し、神の子とするためにと、「あの手この手」を用いて「出来ることは何でもする」、主なる神の愛に基づく信頼関係が証しされているのです。
今、「三位一体」を理解できないとしても失望しないで欲しいのです。この神学用語への理解を超える素晴らしい主の愛に、言葉を超えた告白を心からさせて頂く者とされる日が来ると信じるからです。なぜなら主イエスはこう約束されました。「求めなさい。そうすれば与えられる。…天の父は求める者に聖霊を与えてくださる(ルカ11:9-13)」。アーメン。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-09 14:52:44 (513 ヒット)

ホセア書6章1〜6節
 「二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」(2節) この言葉は、私たちが信じて仰ぐ聖書の神さまが、私たちをどのような状況からも救い出し、再び生きる力を与え、立ち上がらせてくださる、そんな「復活」の神さまであることを告白する信仰の言葉です。「三日目に」という言葉に、十字架にかかられて死んだ後、三日目に復活されたイエス・キリストの姿が重なります。このイエス・キリストの「復活」こそ、聖書が語る最も重要な希望のメッセージです。それはまるで、夜の暗闇に昇る「曙の光のよう」、また乾ききった「大地を潤す春雨のよう」であると語られています(3節)。暗闇の中で、飢え渇きの中で、待ち望む希望がここにあります。
 しかし、聖書はここで、そんな私たちの信仰や渇望が、本物であるかを鋭く指摘しています。すぐに「困った時の神頼み」になってしまう私たちの信仰について、神さまは「お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ」(4節)と語りかけるのです。そして、「神を知ること」(6節)こそが大切なことであると語られています。
「知る」という言葉は、聖書の中で、人格と人格のつながりや強い結びつき、一体となることを表す重要な言葉です。神を知る生き方、それはイエス・キリストに繋がって生きることであり(ヨハネ15章)、その似姿へと変えられていく生き方です(コリ3:18)。それは、「自分の十字架を背負って」生きる生き方とも言われています(マルコ8:34)。神さまを信じて神さまと生きる、そんな生き方を、私たちは本当に望んでいるのでしょうか。
 「明日(朝)が来る」ということは、本来喜ぶべきこと、待ち望むべきことなのかもしれません。夜が終わり、朝がやってくること。冬が終わり、春がやってくること。命が明日へと続いていくこと。しかし、それらのことを喜べない人たちがいます。先が見えない状況の中で、どうにもならない現実を前に、終わらない苦しみにもがきながら、「明日など来なければいい」「目が覚めなければいい」と思う。イエス・キリストが、「十字架を背負う」という表現まで使われた、「生きる」ということの現実が、そこにあるような気がしています。
 しかしそれでも、そこに「生きよ」と語りかける神さまの言葉があるのです。その声は優しく、かつ力強く、何度でも変わらずに、揺るがずに、聖書の御言葉から響いてきます。暗闇の中で、光はどこにあるのか、そう思うときに、「わたしが光である」と語られるお方がここにおられるのです。私たちは、そんな「あしたの光のように」確かに現れてくださる、復活のイエス・キリストを待ち望みたいと思います。


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