< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2018-08-20 15:18:07 (25 ヒット)

詩編1篇、マタイによる福音書7章24〜29節
 私たちの生きる世界には、人間の力ではどうにもしようがないことが溢れています。そのようなことの中には、「ときが巡り来れば実を結び」(詩編1:3)とあるようなポジティブな出来事も、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかる」(マタイ7:25, 27)とあるようなネガティブな出来事もあります。どうにもできない、そのような現実に直面するとき、私たちは揺るがされるものです。決して揺るがされることの無い強い意思、固い信念、そのようなものを持つことができれば…。日々一喜一憂する自らの心、右往左往する人生を振り返りながら、そう願うことがあるかもしれません。聖書はそんな私たちに、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と語られるイエス・キリストを指し示し、このおかたにつながって生きる(ヨハネ15章)という生き方を教えています。
 「いかに幸いなことか」(1節)という言葉から始まる詩編の歌には、神さまご自身がまず、そのような生き方へと私を導いてくださっているということが歌われています。「流れのほとりに植えられた木」(詩編1:3)…それは神さまが、絶望に荒れ果てた大地から、命の希望あふれる水のほとりへと、私を植え替えてくださるという約束です。また、マタイ福音書で言われている「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(マタイ7:24)…それは神さまが、風によって吹き飛ばされ、水によって流される砂地ではなく、決して揺るがない岩の土台を、私に示してくださっているという希望です。命の流れ、揺るがぬ岩、イエス・キリストにつながって生きる生き方こそ、聖書が語る「ぶれない生き方」です。
 しかし、このイエス・キリストを信じて生きてみたとしても、いやむしろ、そうすればするほどに、自分自身の価値観や生き方が揺るがされるように感じることがあります。それは、「岩の上に家を建てる」ということの実際なのだと思わされています。決して揺るがない強固な岩の上に、私という家を建てるためには、私自身がその岩に合うように形を変えなければなりません。私に噛み合うように土台を削るのではなく、土台に合うように私が砕かれていくのです。そのために私たちは、土台であるイエス・キリストについて知る必要があります。「わたしを知りなさい。道であるわたしを、わたしの生き方を知りなさい」――「権威ある者として」(マタイ7:29)、人となられた神さまご自身として「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」(24節)と言われたキリストの言葉が響いてきます。
聖書が私たちに語っている希望、それは、私たちがたとえどんな困難によって揺るがされようとも、イエス・キリストは変わることなく揺らぐことなく、私の命の流れとして私を潤し、私の生きる土台としてそこにあり続けてくださるということです。自然の猛威を感じさせられる昨今、また価値観の多様化するこの時代、私は、この揺るがない土台の上に立つことができているだろうか…。考え続けていきましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-08-16 10:09:52 (43 ヒット)

ローマの信徒への手紙4章13〜25節
 「口でイエスは主であると公に言い表わし、心で主がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる(ローマ10:9)」。こう使徒パウロはローマの教会員に宣言し、書き送りました。きっと当時も、とてもハードルの高い救いの条件のように感じたことでしょう。しかし、これこそ彼自身から湧き溢れた信仰告白であったのです。かつて彼自身が、イエスが救い主であることも、復活されたことも信じてはいませんでした。しかし、ダマスコ途上で復活の主イエスと出会い、人生を変えられた経験を通して、他の弟子たちと同じように復活の証人(使徒2:32)の一人とされたからこそ、その後、大胆に告白し続けたのです。そして繰り返し彼の書簡には、イエスは十字架で死なれ、葬られ(陰府に降られ)たにも関わらず、神によって、死者の中から復活されたことを語り、その事実を信じ受け入れるようにと熱心に勧めたのです。なぜなら、この高いハードルを越えなければ到達しえない、神からの祝福や恵みの世界があることをパウロは知っていたからです。ローマ4章17節には彼が、アブラハムの信仰を引き合いに出してこう語ります。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです」と(参考:ヘブライ11:19)。ここでパウロは、創造主が天地創造で無から有を生みだされたように、死という状態からも復活させる力を持つ神を信じる恵みを語りました。確かに、神から喜ばれる人生と祝福の道を歩むためには、自らの経験や理解の中だけに神を閉じ込めることを聖書は勧めません。復活された主イエスがトマスに次のように語られたように、今も語り続けるのです。「(あなたも)、信じない者ではなく、信じる者になりなさい(ヨハネ20:27)」と。
 今日は平和主日です。過去の戦争戦火において命を失った方々を想う時、多くの魂はこう叫びます。「戦争で命を落とした罪のない人々の魂はどこへいったのか?!」と。この問いに対し、イエスが告げられた、終わりの日、神の前に「全ての者が復活し、裁きか、命かに分けられる」(ヨハネ5:29)との約束に大きな希望が与えられます。戦争で死んで終わったとは語らないからです。新約において「復活」という言葉は、主イエスが見える肉体で復活された姿を証しすると共に、もう一つの「復活」、つまりイエスを信じた者が神の御前に与えられる、『霊の体』の復活(コリント一15:42-44)があることを教えます。この地上の身体とは違う、霊の体が一体どのようなものかを言葉やビジュアルで、聖書は多くを語りません。しかし、主イエスの力強いこの約束の言葉に信頼し、委ねる者とされましょう。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる(ヨハネ11:25)」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-08-06 15:26:27 (69 ヒット)

マルコによる福音書15章1〜15節
使徒信条を読んで一番心に引っかかる言葉。私には「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」でした。主イエスの誕生が告げられた後、その偉大な生涯には一切触れられず、十字架の道を歩まれた場面へと一足飛びになっているからです。更に、当時のローマ総督だけが主イエスを十字架につけたかのような告白に違和感を覚えました。確かにピラトはイエスを十字架につける直接的決断を下しましたが、その背後に当時の宗教者や群衆の心の闇を忘れてはなりません。四福音書はピラトの面前に立ち裁かれる主イエスの姿を詳しく記しますが、それぞれを読む時、もしその場に私がいたなら、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆と共に叫んでいたに違いないと示されていきました。こうして、聖霊なる神の取り扱いを受けると「イエスを十字架に架けたのは“この私です”」との告白へ導かれ、ピラトだけが罪を問われるような告白はアンフェア―だと思っていました。
主告白の言葉はそれぞれ、バラエティー豊かで良いのです。私の「助け主」「癒し主」「赦しを与える主」…など。しかし、もしその中より、一つだけを選ぶとするなら、「十字架につけられた主」と告白するものとされることでしょう。つまり神ご自身が苦しみを受けられたことを。その視点よりこの信条を読み直すと、初代教会からの告白を、まず個々人の信仰告白をする基準として学び、吟味し、再告白する (原)文として評価できます。
宗教改革者カルヴァンは「ジュネーヴ教会信仰問答題55」(1541年)にこの箇所をこう記しました。“問い:「なぜ全生涯の歴史を省き、降誕から直ちに死に移るのですか」。答え「ここでは私たちの贖いに固有な、ある意味でその本質を含むことしか論じていないからです」”と。
かつてバプテストの先達者達が固定化した「使徒信条」を告白せず、個々人が聖書からイエスへの主(キリスト)告白を紡ぎ出し、聖霊の働きに委ねる決断をしたことに感謝を覚えます。受浸する際の信仰告白は一度限りです。しかしキリスト者は、その生涯を通して日々、新たな主告白をし続けることが求められているに違いありません。主イエスが受けられた苦しみ。それは、受動態でなく能動態として聖書は語ります。本来、私たちが担うべき十字架を、自ら進んで担われた主イエスの偉大な愛に感謝いたします。「(イエスは)…、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです…(ペトロ一2:21-25)」。
この主イエスの愛の足跡に私たちも続き、それぞれの人生の苦しみさえも祝福へと変えてくださる神の力を体験をさせて頂きましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-30 14:48:10 (86 ヒット)

ローマの信徒への手紙5章12〜21節 すべての人は「罪人(つみびと)」である――「人は皆、罪を犯した」(ローマ3:23)という聖書の言葉に驚く人は少なくありません。ここで言われている「罪」という言葉は、犯罪という意味ではなく、人が聖書の神さまに喜ばれる本来の生き方ではない「的はずれ」な状態に陥っていることを表す、聖書の特別な言葉です。ただそうであっても、「あなたも罪人(つみびと)なのだ」と言われて嬉しい人はいないでしょう。
 しかし、中にはホッとする人がいるかもしれません。自分自身の内にある言いようもない虚しさや、過去の行いについての罪悪感…人生の歩みの中で、ふとそれらが心に重くのしかかってくるように感じられるとき、私たちは「あなたは間違っている」「的はずれな生き方をしている」と、敢えてそのよう指摘してくれるような、そんな言葉をどこかで求めているようにも思います。
 最も有名な賛美歌、“Amazing Grace”の作者ジョン・ニュートンは、22歳の時、航海の最中に嵐に遭い、命の危険を感じる中で自らの人生を振り返りました。そして、沢山の後悔と共に、どうしようもない自らの心の汚れ、醜さに気づかされました。自分は生きている価値の無い存在である、そのように思い、死をも覚悟した彼でしたが、彼は奇跡的に命を救われ、そこに神さまからの「生きよ」という語りかけを聴くのです。彼はこの歌の中で「驚くばかりの恵みなりき/この身の汚れを知れる我に」と歌いました。自らの汚れ「罪」を知ったからこそ、彼は自らの命を救ってくださった神さまの驚くべき恵みに気がつくことができたのでした。
 ローマ書を書いたパウロについてもそうです。彼はもともと、キリストを信じる人たちを捕らえて殺す側の人間でした。そんな彼は、まばゆい光の中でイエス・キリストに出会ったといいます(使徒言行録9章)。その時彼もまた、自らの取り返しのつかない過ちと「罪」に気づかされ、同時に、これからはキリストを伝える者として「生きよ」という神さまからの語りかけを受け、全く新しい人生を歩み始めたのです。
 私たちもまた、神さまの愛と出会い、聖書の御言葉に触れるとき、まるで光に照らし出されるかのようにして、私たちの「罪は罪と認められ」(13節)、時に「増し加わる」(20節)かのように思うでしょう。しかしそのように感じられるときにこそ、それらを覆い尽くしてしまうほどの驚くべき「恵み」に、目を留めるようにと聖書は語ります。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(20節) そこにあるのは、「支配」(17, 21節)という言葉で表現される、満ちあふれる恵みの広がりです。
 クリスチャンは、赦されて「罪人(つみびと)」でなくなるわけではありません。傷跡のようにして未だ残り続ける「罪」を、神さまの驚くばかりの恵みによって覆われながら、それぞれが置かれた場所で、自らの救われた命を日々新たに生きる「赦された罪人(つみびと)」なのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-23 14:09:04 (159 ヒット)

エゼキエル書37章1〜14節、コリントの信徒への手紙5章1〜10節
預言者エゼキエルは、イエス・キリストがお生まれになった年より600年前の人。紀元前622年生まれ。当時、イスラエルという国は、現在の国のイラクで起こったバビロニア帝国によって、征服され、ユダユ人は捕虜として外国の地へと連れ去られ、首都エルサレムは荒野となり、国を失ってしまったのでした。エゼキエルもその捕虜の一人として25歳でバビロニアに連れてこられ、30歳の時、神からの啓示を受け、異国の地で預言者となり、このエゼキエル書を記しました。神殿もない外国の地で、イスラエルの苦難の人生から一つの幻が与えられ預言したのです。
主の霊がエゼキエルをある骸骨の骨で埋め尽くされた谷間へと連れ出しました。そこで彼は不思議な幻を見たのです。その谷間とはだれも住んでいない戦場の谷間、荒廃した首都エルサレムだという解釈もありますが、非常に多くの骨が周囲にあり、それはみな、はなはだしく枯れていました。主の霊が言いました。「これらの骨は生き返ることができるのか」「主よ、あなたがご存知です」それではこの枯れた骨に向かって預言を語れ。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。」「見よ。わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉をつけ皮膚で覆い、霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。そしてお前たちはわたしが主であることを知るようになる。」そうしますとゾンビ映画を
見るように、カタカタと音がして骨と骨が勝手に組み合わされ、次に筋ができ、最後に肉までついて、何千人という人間の体が合体しながら出来上がました。
 しかし、そこには命がありませんでした。そこで「霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺された者の上に吹きつけよ。霊よ、これらの殺された者の上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」と言われるまま預言をすると、彼らは生き返り、自分の足で立ち、非常に大きな集団(軍隊)となったのです。
 これは死人が蘇り、生きることを記したものではありません。生きていても魂が死んで、重荷を負い疲れた人々、生きる目的を失いただ死を待っている人々、誰からも相手にされず愛すること愛されることを知らずに自虐的生活をしている人々、これらの死に等しい人々に、神の命を与え、キリストの復活の力を与え、神の御栄光のために生きる素晴らしい人生が起こりうることを、神の素晴らしい救いが与えられる時が到来することを預言したものなのです。

「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいていますが、それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に呑み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」


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