< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 十戒シリーズ 愛の応答「わたしの神さま」 牧師 山下 真実(2017/07/09) - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 十戒シリーズ 愛の応答「わたしの神さま」 牧師 山下 真実(2017/07/09)
投稿者 : admin 投稿日時: 2017-07-10 13:52:17 (187 ヒット)

出エジプト記20章7節
 名前というのは、私たちにとって「わたし」という存在を表す大切なものです。聖書の世界においては特に、名前はその存在そのものを表すものだとして、「神の名」もまた、神さまの全存在を表す大切なものでした。十戒の第3戒は、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エ20:7) つまり、神さまの名前――神さまご自身を、「みだりに」軽々しく扱わないようにと教えています。第1第2の戒めは、「唯一の真の神さま」を知り信じる信仰が、私たちにとって何より大切なことだと教えていました。その上で、この第3の戒めで教えられていることは、私たちがそれを、まるで自分の所有物のように扱わないということでしょう。
信仰による確信は、私たちを強くします。しかし時に「私は神を知っている」「救いを知っている」という、傲慢で独善的な態度に繋がることもあります。その態度と、ヨハネ福音書20章でキリストの復活を、「○○してみなければ信じない」と言ったトマスの態度とには、何ら違いはありません。どちらも、自分自身の認識や判断、確信を基準にして、神を信じているに過ぎないからです。キリストが「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのは、まさに十戒の第2戒のように、私たちが目に見える自分自身の確信(それが一見強い「信仰」のようであっても)を作り上げ、それを握り締めることがないようにとの勧めです。もしかすると私は、信仰と言いつつ、「神の名」を「みだりに」軽々しく借りて、自分の正当性や存在意義を主張しているに過ぎないのかもしれない…。そんな視点をもちながら、私たちはいつも、自分自身の内にある無意識の「偶像礼拝」に気をつけていきたいと思います。
 神さまを信じる―信仰をもつ―「神の名」を呼ぶとは、どういう態度を言うのでしょう。神さまは、私たちにはとらえきれない大いなるお方です。私たちはその神さまの前に、畏敬の念をもち、同時に自分自身の小ささ、不確かさを思わされます。しかし神さまは、モーセを通して(出エ3-4章)、またイエス・キリストを通して(聖書全体)、ご自身の名、存在を私たちに明らかにしてくださいました。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エゼ37:27)と言ってくださった神さま…私が「わたしの神さま」を選んだのではなく、神さまが「わたしの神さま」になってくださった。(ヨハネ15:16) この態度こそ、十戒が教える、私たちに与えられた「神の名」を畏れをもって呼ぶ、謙虚な信仰です。


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