< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 「平和を」ルーテル学院大学神学校校長 石居基夫 - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 「平和を」ルーテル学院大学神学校校長 石居基夫
投稿者 : admin 投稿日時: 2017-08-15 14:08:16 (134 ヒット)

エフェソの信徒への手紙2章13〜18節、ヨハネによる福音書15章9〜12節               
1.平和主日
 八月は、特別に平和について考え、また祈るとき。世界を見ると、平和の実現がほど遠く感じられる。そういう中で、私たちが平和を覚え祈る。
2.平和と人間の罪
 「平和」。聖書が記されていく長い歴史に、神様のみこころが「平和」へと向けられていることが繰り返し示されている。もちろん、単に戦争がない、争いがないということではない。神様の祝福によって充たされた状態をいう。
 本当は、神様のみこころに充たされて、助け合う者として生きているはずなのだ。そうして平和が生まれてくるはず。しかし、私たちは神様から離れてしまったために、自分が充たされないものとなっている。それを補おうと欲望し、またそのために他者を利用 
しようとする。自己中心的になって、人に無関心になる。
 強い者が自分たちの都合を優先して生きていけば、弱い者、貧しい人、病気や障がいを負った人たちに、苦しみがまし加わっていく。たとえ、戦争がなくてもそこに平和はない。これが人間の罪の現実。
3. 愛への招き
 だからこそ、今日の聖書にあるように、イエス様は愛に生きることへと私たちを招かれている。それは、徹底して私たちを愛される愛によって私たちを新たにする恵みの招き。
 本来は助け合うべき存在なのに、羨みや憎しみを大きくして、他者に無関心になる。そのような私たちを、それでも、主はもう一度愛を生きられるようにと招いておられる。
 それが私たちの聴いているみことば。 
 けれども、その招きに私たちは自ら応えていく者であるのだろうか。
 私たちは罪に捉えられていて、求められていることが正しいと思っても、いざ自分のこととなると、その招きには応えていかれない。神様に繫がっているつもりが、かえって自分のために神様を求めているだけなのではないか。それが私たちの罪の姿。
4. みことばが働く
 しかし、キリストはそんな私たちを決してあきらめない。見捨てない。今一度愛を生きるようにとご自身を私たちのために差し出される。人間はかたくなです。このかたくなさが打ち砕かれ、主の平和にむけて生かされていく。それは、十字架におかかりになられるキリストが私を捉えていく信仰の出来事。そして、その信仰があのイエス様の宣教の時から今に至るまで人間の罪の現実を動かしてきた。教会の歴史はそれを証ししている。私たち自身、その奇跡の証人。私たちもその出来事に与っている。だから、あの人を守るために一つの声を上げる。この人を助けようと小さな手を差し出す。主に、愛された私が新たに生かされる。その信仰を、みことばの働きをいただき、主の平和へ祈りと働きを合わせていく者でありたい。 


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