< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 十戒シリーズ 愛の応答А嵌殀畉憤Α 牧師 友納靖史(2017/08/20) - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
礼拝ビデオをご覧下さい
アクセスカウンタ
今日 : 18
昨日 : 78
総計 : 751483
平均 : 110
週報巻頭言
週報巻頭言 : 十戒シリーズ 愛の応答А嵌殀畉憤Α 牧師 友納靖史(2017/08/20)
投稿者 : admin 投稿日時: 2017-08-21 06:30:33 (168 ヒット)

出エジプト記20章14節          
 旧約では一夫多妻を容認されているような記事がありますが、本来聖書は創世記より一夫一妻のあり方を尊び、神より結婚する道が備えられる人は、一人の伴侶と命ある限り共に過ごすことが大切にされてきました。聖書はこの清い“結婚”生活を比喩とし、唯一なる神との愛に基づく関係性、またイエスを主と信じ、キリストの花嫁とされ、永遠の命に結ばれる喜びが語られます。
 「姦淫してはならない(出エ20:14)」との戒めは強烈な言葉ですが、別の言葉に言い換えると「愛する伴侶(妻・夫)を悲しませてはならない」でしょう。愛するという行為は、相手の立場に立ち、考え行動することです。にもかかわらず、ダビデ王然り、この悲しみがいつの時代にも絶えないのはなぜでしょうか。
 主イエスが示された倫理観は驚くものでした。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:27-28)と。この言葉を聞く者は、「え?!では誰がこの戒めを守れるのですか?」と驚愕することでしょう。主は更に、「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまえ。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましだ…(同29-30)」と語られました。これは死後、神に裁かれ、永遠の滅びに至らないようにと、あえて不可能と思える(これを実行するためでなく心に刻むための)教えです。これはパウロも告白した「善をなす意思があるのに実行できず、望まない悪を行う(ローマ7:15-20)」“私”、つまり罪人なる弱き人間に対し、それでもなお神に従う信仰を促すためでした。
その一方イエスは、律法や戒めに従うことにより「神が救う」とは一度も教えられていません。宗教改革者M.ルターは、「十戒を学ぶとは、私には“できる”と告白するためでなく、“できない”と神に告白するためである(大教理問答より)」と語り、他者を裁くためでなく、十戒を自らの戒めとして心に刻むことを勧め、日々、「<私の>祈りの言葉」として神に祈り、助けを求めるよう勧めました。
ある日、主イエスのもとへ姦通の現場で捕えられた女性が連れて来られ、裁かれようとしました(ヨハネ福音書8:1-11)。その時、律法学者たちから問われます。「先生、こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。すると主はこう答えられました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい(8:7)」と。何と、神の義と愛、そして知恵に満ちた対応でしょうか。私たちはこのイエスを主として信じ従う者(キリストの花嫁)です。この主イエスの愛に最後まで生かされ続けるため、互いに祈り合いましょう。なぜなら私たちの中にも主のこの御声が響いているからです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない(同8:11)」。
 


印刷用ページ このニュースを友達に送る

投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。