< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 十戒シリーズ 愛に生きる  「否偽隣人(正直に生きる)」 牧師 友納靖史(2017/09/03) - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
礼拝ビデオをご覧下さい
アクセスカウンタ
今日 : 31
昨日 : 169
総計 : 742902
平均 : 109
週報巻頭言
週報巻頭言 : 十戒シリーズ 愛に生きる  「否偽隣人(正直に生きる)」 牧師 友納靖史(2017/09/03)
投稿者 : admin 投稿日時: 2017-09-04 14:40:52 (70 ヒット)

出エジプト記20章16節 
海外で裁判、大統領就任式など、聖書の上に手を置いて宣誓する姿を見かけます。しかし、教会では神にも人に対しても極力「誓う」という行為はなされません。なぜなら主イエスがこう言われたからです。「一切誓いを立ててはならない。天にかけて…、地にかけて誓ってはならない。…また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである(マタイ5:34-36)」と。イエスはご存知だったのです。私たち人間が心では誠実に、正直に生きようと願っているにも関わらず、隣人や大切な人を傷つける弱さ、危うさという罪を抱える者であることを。
 「隣人に関して偽証してはならない」と神がモーセに与えられた十戒の第九戒は教えます。この地上で出会い、共に生かされている人々を聖書は“隣人”と呼びます。その人々が不利になるようなこと、悲しませることをしてはいけないと語られてきました。ですが、どうして人類の歴史は繰り返し、この第九戒に反する出来事で満ち溢れているのでしょうか。
イソップ寓話の有名な「おおかみ少年」のように、ウソをつくことは隣人に対してだけではなく、自らに大きなしっぺ返しが及ぶことが語り継がれてきました。頭では分かっているはずなのに、私たちはつい自分自身(の側)を守ることを第一に考えます。この十戒が、人ではなく、神によって語られていることの素晴らしさは、単に人の目があるからという理由で倫理道徳的観点から行動する人となることを教えるものではないこと。何よりも神が創造し、私にとっての他者(神が愛する人)も含めて誰一人として苦しむ姿を神ご自身が願っておられないからこそ語られる愛の叫び声だからです。
 主イエスが十字架にかけられる直前、最高法院と大祭司の庭において(マルコ14:53-72)、また総督ピラトの面前で、様々な不利な証言(偽証)がなされ、遂には神の御子・救い主であるイエスが死へと追いやられていく姿が克明に描かれています。ここに関わった全ての人々、更にはもしそこにいたら同じようにしていたであろう私(たち)の罪*1を、贖う*2ため、主イエスは黙して十字架の死を受けて下さったのです。その三日目に、神はイエスを復活させ、神の右の座へと引き上げて下さいました。そして今も、主イエス・キリストは私たちのために執り成し、不利な証言によって裁かれることがないように見守っておられるお方です(ヘブライ10:12-14)。
 この神の深い愛に触れる時、神の子とされ、少しずつ、少しずつ、相応しい者へと私たちが変えられていく希望が与えられています。こうして大切な隣人と共に心開き、神に、そして人にも正直に生きる喜びを分かち合って参りましょう。

*1[ギ]ハマルティア:的はずれな生きかた *2あがなう・身代わりになって罪という借財を帳消しにする


印刷用ページ このニュースを友達に送る

投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。