< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 「新生改革◆愎仰によるのみ』」 牧師 友納靖史(2017/09/24) - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 「新生改革◆愎仰によるのみ』」 牧師 友納靖史(2017/09/24)
投稿者 : admin 投稿日時: 2017-09-25 16:31:18 (117 ヒット)

ガラテヤの信徒への手紙2章15〜16節信仰の父と呼ばれるアブラハムは、「“信仰によって”…出て行くように召し出されると、これに服従して、行き先も知らずに出発した(ヘブライ11:8)」と語られます。又、使徒パウロは、ローマ書(3:28他)と共にガラテヤ書でも、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる (2:16)」と宣言しました。宗教改革当時の教会(カトリック)が、余りにも「行い・善行」を積むことを人々に強要し、修道僧として難行苦行を強いられたマルチン・ルターには、聖書の御言葉より、人が神に「義」とされ、救われるのは、「信仰による」(のみ)だと、太陽が差し込むように、彼の魂に真理の光が与えられたのです。宗教改革五百年を経た今、「救いはどのようにして与えられるのか」と問われるなら、一方的な「神の恵み(恩寵)のみ」、そして個々人が神を信じる「信仰(による)のみ」ですと、明確に告白できる喜びに至りました。
 “信仰のみ:Sola Fide”との言葉が改革運動で叫ばれた理由の一つは、当時、キリストが成し遂げられた十字架の贖い(義)によって、人が救われることへの解釈、特に救いの受け取り方が不明瞭だったからです。聖書的信仰に立つ時、信じる者一人一人へ神が直接与えてくださると信じます。しかし当時、救いは、まず教会と教皇(初代教皇は使徒ペトロとされる)に与えられたのであり、民衆はその組織や権威者から授けられなければ、その祝福に預かれないと教えていました(「天国の鍵」の解釈への相違:マタイ16:13−20)。今日、バプテスト教会が行う礼典は、「バプテスマ」と「主の晩餐」の二つです。しかし、カトリックでは七つの聖礼典(秘跡)を教会だけが与えられると解釈しました。
 ルターは当時、「教会」と「教皇」に権威はなく、聖書のみだと、恐れずに語ったため、迫害を受けます。彼はヴォルムスの帝国議会に召喚され、当時の教会の信仰解釈に対する疑問を「95か条の提題」として書いたことを訂正するように迫られた時、居並ぶ政治と宗教の権力者を前にして、こう語りました。「私の誤りが、聖書によって証明され、聖書から間違っていることが告げられ、私の良心が神の言葉によってとらえられない限り、私は何事も取り消すことはできない。私は確固としてここに立つ。神よ、私を助けたまえ。アーメン。」
讃美歌に「信仰こそ旅路を導く杖」と歌われます。杖は道なき道を切り開く時に役立ち、又、疲れを覚えた時に支えとなる具象的な譬えであり、主なる神が力強く守り支えてくださる信仰告白が様々な賛美へとなっています(詩編23篇4節)。聖書の真理、またそれを示して下さる聖霊なる神を信じる時、私たち自身の力によるのではなく、主なる神への信仰によってのみ与えられる救いの喜びと平安が、ルターのみならず、私たちの日々の歩みにも注がれることを体験して参りましょう。


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