< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 「共に生きる喜び」牧師 山下真実(2017/10/08) - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 「共に生きる喜び」牧師 山下真実(2017/10/08)
投稿者 : admin 投稿日時: 2017-10-12 10:26:29 (121 ヒット)

ルカによる福音書6章17〜20節
「キリスト教は上から目線だ」 そのように言われたことが何度もあります。そんなつもりはないにもかかわらず、そのような印象をもたれてしまうことがあるとするならば、私たちはその声に真摯に耳を傾けなければなりません。
イエス・キリストは「貧しい人々は、幸いである」(20節)と言われました。本当に貧しさの中にいる人、苦しみの中にいる(それこそ旧約「ヨブ記」のヨブのような)人に対して、「幸いである」と語るキリスト…この言葉を耳にする時、私たちは驚きを隠せません。しかしこれは、新約の時代にあって、本当に貧しい人々、病に苦しむ人々のもとに行き、「教え…すべての人の病気をいやしていた」(18-19節)イエス・キリストだからこそ語ることのできた言葉なのでしょう。そこには彼の、クリスマスに家畜小屋の飼い葉桶に生まれたという生い立ちから始まる、徹底して社会の底辺に下りていくリアリティがあります。そこに人々は、「なにかある」「救いがある」と思い、集まってきたのです。
もう一つ注目すべきは、キリストが「貧しい人々は…」の言葉を、弟子たちに向かって語られたということです。「あなたがた(のもの)」と語りかけるその言葉は、弟子たちにもまた、「社会で貧しくさせられている人々」のところに下りていき、上から目線で救いを語るのではなく、「平らなところに立って」(17節)世界を見つめるように、との教えだったのではないでしょうか。キリストは、この世界で「貧しい人々」のひとりとして生きることを、この私にも語っておられるのです。
しかし実際には、「貧しさ」に始まる私たちの間にある格差、違いは、そんなに甘いものではありません。どんなに親切に、善意によって相手の立場に立とうとしても、近づくこともできないほどの深い溝が、私たちの間にはあるのです。それはキリストが、人々に理解されず、最後には十字架につけられてしまったということにも表れている、残酷な現実でしょう。それでもなお、同じ地平に立って苦しむ中で、共にもがく中で、そこに黙って共に座り続ける中で(ヨブ2:13)、生まれてくる言葉がある、嘆きがある、祈りがある…「神の国はあなたがたのものである」(20節)と言われたキリストの言葉が心に響きます。
十字架につけられてもなお、神の愛を語り続けたイエス・キリストの生涯。それは、社会で貧しく、小さくされている人々に寄り添いながら、神さまが私たちを誰ひとり分け隔てすることなく愛しておられること、その中で一人ひとりがこの世界に生きること、「共に生きる」ということを、身をもって教えられた生涯でした。私たちは、このイエス・キリストの姿に倣って、「共に生きる喜び」を求め続けていきたいと思います。
「この旅路は険しいけれど…共に行こう、主イェスと共に」(新生讃美歌568番)


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