< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 「国を”超”えて」牧師 山下真実(2018/02/11) - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 「国を”超”えて」牧師 山下真実(2018/02/11)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-02-13 09:46:40 (346 ヒット)

ルカによる福音書17章11〜21節
 「国」というのは、私自身がこの広い世界においてどこに立つのか、その足場のようなものかもしれません。それは、私たちの寄るところであり、所属するところ、生きる場です。国や国籍は周りと自分を区別する、ひとつのアイデンティティ(帰属意識)ともなって、私たちはそれらを共有する人々と安心して暮らし、そうでない人々を時に排除することさえあります。島国である日本は、物理的国境も精神的国境も、特に強いものがあるように感じることがあります。2月11日「建国記念『の』日」の制定の議論、その背景にある国家観にも、日本「国」という強い意識が表れているように思います。
 イエス・キリストは人々に「神の国」についての教えを語りました。「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(11節)という御言葉は、私たちがもっている「国」の概念とは違う、新しい教えです。キリストがこの言葉を語られる少し前、10人の病人が彼に病の癒しを求めてやってきました。彼らは普段は、宗教的な課題で仲の悪いユダヤ人とサマリア人でしたが、共に「わたしたちを憐れんでください」(13節)と願い、イエス・キリストのもとにやって来ました。そこでは彼らは、「国」や「宗教」というそれぞれのアイデンティティ、違いを超えて、「病を癒してほしい」という願いと祈りによってひとつになっています。このように、私たちが互いの痛みを分かち合い、共に祈るとき、共に平和を願い求めるとき、その祈りは私たちの違いを超えていくのでしょう。
 実際、世界の平和のためには、国も国境も必要でしょう。また、私たちの間にある違いは、必要というよりも必然です。そんな中で、不用意に互いの境界線を越えてしまうことは、互いを傷つけることにも繋がります。しかし、それらの違いを“超”えて、私たちが共に祈りを合わせるとき、「神の国」は、その私たちの間にあるということを、聖書は語っているのです。
 教会は、2月11日を「信教の自由を守る日」として覚えます。イエス・キリストによって病を癒される中、たったひとり神に感謝したサマリア人の姿(18節)は、当時のユダヤ人の閉鎖的な宗教文化の中で、国や信仰が違っても、神と出会い祈る自由があることを、皮肉を込めて物語っています。聖書は、「国」や「宗教」というアイデンティティによって、私たちが互いの間に作り上げてしまう「へだての壁」を、イエス・キリストが取り壊してくださったと語っています(エフェソ2:14)。
 私たちは、「ここでもなく、あそこでもなく、私たちの間に神さまの平和の国が実現し広がっていくように」と、国の違う、信仰の違う人たちとさえも、平和の祈りを合わせていきたいと切に願います。


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