< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 「 いきづまりの先にあるもの」牧師 山下真実(2018/04/08) - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 「 いきづまりの先にあるもの」牧師 山下真実(2018/04/08)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-04-09 14:37:54 (304 ヒット)

ヨハネよる福音書20章24〜29節
 イースターの朝に復活されたイエス・キリストは、愛する弟子たち500人以上に、その復活の体を現されたと聖書は語ります(福音書, コリ15:3-8など)。しかしそんな中でも、キリストと直接相まみえることのできなかった人々のことも思わされます。トマスはその一人でした。彼は、他の弟子たちが「主を見た」(25節)と言う言葉に対して、「見…(省略)…なければ決して信じない」(同節)と語っています。ただそんな彼が、八日の後も弟子たちと一緒にいたということは、何を意味しているでしょうか。
 イエス・キリストの復活の出来事において、福音書記者のヨハネは「見る」ことと「信じる」こととの関係性を興味深く語っています。マグダラのマリアは、主イエスの体が墓から無くなっていたことを「見」ましたが、主が十字架に架かられる前に繰り返し語られていた復活を「信じ」ませんでした(1-2節)。ペテロともうひとりの弟子(おそらくヨハネ)もまた、墓とそこに残された亜麻布を「見」ましたが、彼らが「信じた」のは復活ではなく「主が墓から取り去られた」というマリアの言葉でした(8節)。愛する師を失ったその喪失感の中で、自らの命と未来への言い知れぬ不安の中で、彼らは目の前に立ち塞がる死を「見」つめながら、その絶対的な絶望を前にいきづまっていました。人々を恐れ、戸を固く閉ざし、息を潜めていた彼ら。その目も心も、固く閉ざされていたのです。
 そんな弟子たちのもとに、その真ん中に、復活のイエス・キリストは現れてくださったのです。彼らの閉ざされた目を、心を開かれるように。そこで初めて彼らは主を「見」、その復活を喜ぶ(信じる)ことができました(20節)。
弟子たちの中で、主に相まみえることができなかったトマス。同じものを「見る」ことができず、「信じる」ことができなかった彼の孤独は、イスカリオテのユダの孤独とも重なります。彼もまた、息の詰まるような思いで、弟子たちの輪の中にいました。そのトマスに、イエス・キリストは個人的に出会ってくださり、「信じない」と言いつつも、弟子たちと共に居続けた彼に、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と語ってくださいました。いきづまりの先に、主に相まみえることを「信じよう」とした、彼に対して、キリストは現れてくださったのです。
私たちも、いきづまりの中で、その先にある希望を「見」たいと切に願うものです。「見えないから信じられない」のか「信じられないから見えない」のか、見ることと信じることとは表裏一体です。しかし私たちは、主の励ましの言葉によって、「信じる者」になりたいと思います。主がこの私にも、直接出会ってくださることを信じて、希望をもって祈り続けたいと思います。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)


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