「新生改革ァ愎世留標のみ』」牧師 友納靖史(2017/10/29)

投稿日時 2017-10-30 13:34:46 | カテゴリ: 週報巻頭言

コリントの信徒への手紙一6章19〜20節
「天は神の栄光を物語り、大空は神の御手の業を示す(詩19:2)」。“栄光”とはヘブル語もギリシャ語も「重い」という意味があります。神の存在も、神がなされた全ての事柄の重み(素晴らしさ・偉大さ)を聖書はあらゆる個所で証します。「神は言われた。『光あれ』こうして、光があった(創世1:3)」と天地創造とは、神の語られた言葉によって成ったと驚きつつ語られます。
神の栄光は神にのみ帰すべきであると、その歴史と聖書を通して人々は実感していきました。ルターから約200年後、J.S.バッハは音楽を通して神の栄光を現すことを願い、実に多くの聖書に基づく作品を残しました。彼の多くの作品の最後には“SDG”(Soli Deo Gloria:ソリ・デオ・グロリア)と記しました。なぜならその曲は神によって与えられ、又その曲が作られた目的は神の栄光を現すためであり、更にその曲を通して人々の心に喜びが与えられるなら、バッハにではなく人々が神に栄光を帰す者になって欲しいとの彼の祈りと信仰告白であったからです。
主イエスは、ラザロが病で死にかけていることを聞いた時、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである(ヨハネ11:4)」と語られ、ラザロが死より蘇る驚くべき奇跡を表されました。その一方、著者ヨハネは、十字架の死より復活なされた主イエスが、主を三度否認したペトロに赦しと使命を託され、「…年をとると…行きたくないところへ連れていかれる」と語られ、その後「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるか@示された(21:19)」と証言します。なぜなら、奇跡が起きても起きなくても、生きることも死ぬことも、全ては神の御手の中にあり、人の思いを超えた神のご計画があるからです。この真理(奥義)を知り、信じる力を聖霊なる神に注がれる時、私たちにも揺るがない平安が与えられます。
主イエスの十字架の死と、驚くべき復活による神の力を経験した弟子や初代教会の信仰告白が使徒パウロのこの言葉に集約されています。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださった(コリント二4:6)」と。また、神の言・光としてこの世にお生まれ下さった主イエス(ヨハネ1:1〜)にある罪の赦しと救いの意味の《重さ》を聖霊の働きで悟ったパウロは更にこうも証します。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい(コリント一6:19‐20)」。
バッハのようではない私たちでも、それぞれに与えられた時と方法で、今ここに生かされ、救われている喜びを表して、神にのみ栄光を帰して歩む者とされましょう。




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