「あしたの光のように」 牧師 山下真実(2018/07/08)

投稿日時 2018-07-09 14:52:44 | カテゴリ: 週報巻頭言

ホセア書6章1〜6節
 「二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」(2節) この言葉は、私たちが信じて仰ぐ聖書の神さまが、私たちをどのような状況からも救い出し、再び生きる力を与え、立ち上がらせてくださる、そんな「復活」の神さまであることを告白する信仰の言葉です。「三日目に」という言葉に、十字架にかかられて死んだ後、三日目に復活されたイエス・キリストの姿が重なります。このイエス・キリストの「復活」こそ、聖書が語る最も重要な希望のメッセージです。それはまるで、夜の暗闇に昇る「曙の光のよう」、また乾ききった「大地を潤す春雨のよう」であると語られています(3節)。暗闇の中で、飢え渇きの中で、待ち望む希望がここにあります。
 しかし、聖書はここで、そんな私たちの信仰や渇望が、本物であるかを鋭く指摘しています。すぐに「困った時の神頼み」になってしまう私たちの信仰について、神さまは「お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ」(4節)と語りかけるのです。そして、「神を知ること」(6節)こそが大切なことであると語られています。
「知る」という言葉は、聖書の中で、人格と人格のつながりや強い結びつき、一体となることを表す重要な言葉です。神を知る生き方、それはイエス・キリストに繋がって生きることであり(ヨハネ15章)、その似姿へと変えられていく生き方です(コリ3:18)。それは、「自分の十字架を背負って」生きる生き方とも言われています(マルコ8:34)。神さまを信じて神さまと生きる、そんな生き方を、私たちは本当に望んでいるのでしょうか。
 「明日(朝)が来る」ということは、本来喜ぶべきこと、待ち望むべきことなのかもしれません。夜が終わり、朝がやってくること。冬が終わり、春がやってくること。命が明日へと続いていくこと。しかし、それらのことを喜べない人たちがいます。先が見えない状況の中で、どうにもならない現実を前に、終わらない苦しみにもがきながら、「明日など来なければいい」「目が覚めなければいい」と思う。イエス・キリストが、「十字架を背負う」という表現まで使われた、「生きる」ということの現実が、そこにあるような気がしています。
 しかしそれでも、そこに「生きよ」と語りかける神さまの言葉があるのです。その声は優しく、かつ力強く、何度でも変わらずに、揺るがずに、聖書の御言葉から響いてきます。暗闇の中で、光はどこにあるのか、そう思うときに、「わたしが光である」と語られるお方がここにおられるのです。私たちは、そんな「あしたの光のように」確かに現れてくださる、復活のイエス・キリストを待ち望みたいと思います。




日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会ですにて更に多くのニュース記事をよむことができます
http://tokiwadaikyoukai.com

このニュース記事が掲載されているURL:
http://tokiwadaikyoukai.com/modules/kantogen/index.php?page=article&storyid=639