< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2017-07-10 13:52:17 (117 ヒット)

出エジプト記20章7節
 名前というのは、私たちにとって「わたし」という存在を表す大切なものです。聖書の世界においては特に、名前はその存在そのものを表すものだとして、「神の名」もまた、神さまの全存在を表す大切なものでした。十戒の第3戒は、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エ20:7) つまり、神さまの名前――神さまご自身を、「みだりに」軽々しく扱わないようにと教えています。第1第2の戒めは、「唯一の真の神さま」を知り信じる信仰が、私たちにとって何より大切なことだと教えていました。その上で、この第3の戒めで教えられていることは、私たちがそれを、まるで自分の所有物のように扱わないということでしょう。
信仰による確信は、私たちを強くします。しかし時に「私は神を知っている」「救いを知っている」という、傲慢で独善的な態度に繋がることもあります。その態度と、ヨハネ福音書20章でキリストの復活を、「○○してみなければ信じない」と言ったトマスの態度とには、何ら違いはありません。どちらも、自分自身の認識や判断、確信を基準にして、神を信じているに過ぎないからです。キリストが「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのは、まさに十戒の第2戒のように、私たちが目に見える自分自身の確信(それが一見強い「信仰」のようであっても)を作り上げ、それを握り締めることがないようにとの勧めです。もしかすると私は、信仰と言いつつ、「神の名」を「みだりに」軽々しく借りて、自分の正当性や存在意義を主張しているに過ぎないのかもしれない…。そんな視点をもちながら、私たちはいつも、自分自身の内にある無意識の「偶像礼拝」に気をつけていきたいと思います。
 神さまを信じる―信仰をもつ―「神の名」を呼ぶとは、どういう態度を言うのでしょう。神さまは、私たちにはとらえきれない大いなるお方です。私たちはその神さまの前に、畏敬の念をもち、同時に自分自身の小ささ、不確かさを思わされます。しかし神さまは、モーセを通して(出エ3-4章)、またイエス・キリストを通して(聖書全体)、ご自身の名、存在を私たちに明らかにしてくださいました。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エゼ37:27)と言ってくださった神さま…私が「わたしの神さま」を選んだのではなく、神さまが「わたしの神さま」になってくださった。(ヨハネ15:16) この態度こそ、十戒が教える、私たちに与えられた「神の名」を畏れをもって呼ぶ、謙虚な信仰です。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-07-03 13:44:26 (127 ヒット)

聖書:出エジプト記20章4〜6節           
「あなたはいかなる像も造って、それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたり・してはならない≪するだろうか。いや、するはずがない≫。わたしは主、あなたの神」(出エジ20:4-5)。天地万物を創造された偉大な神や聖霊なる神を、形や像に刻んで表すことはできません。また、この地上に人として来られた神の御子イエスも、ご自分を人間の姿として刻んだり、拝むことを願われませんでした。この神が、人と同じ姿となって私たちと共に生き、罪の身代わりとなって十字架で死に復活され、今も共に歩んでくださる神の愛の本質を知った時、聖霊なる神に悟らせて頂くのです。“このお方(主なる神)を形にしたり、神殿(祠)に閉じ込めたり、像に刻んで拝むことなどできない”と。しかし、偉大な神の御業を目の当たりにしていたイスラエルの民でさえも、指導者モーセの姿が一時的に見えず不安を覚えた時、エジプトの民が拝んでいた金の子牛の像を造り、拝する行為に陥りました(出エジ32章)。また、神の知恵と富を授かり信仰深かったあのソロモン王でさえ、異教に触れ、偶像礼拝に陥った(列王上11:1-6)と証言されています。つまり、私たち人間は何か目に見え、触って確かな何かを求め、頼りたい欲望があるのです。
『ハイデルベルク信仰告白』の信仰問答第95項に、「偶像崇拝とは何でしょうか」との問いにこう答えられています。「御言葉において御自身を掲示された、唯一まことの神に代えて、またはこの方と並べて、人が自分の信頼を置く何か他のものを考え出したり、所有したりすることです」と。歴史を振り返ると多くのキリスト者にも偶像崇拝の危機が訪れました。第二次世界大戦中、日本においては天皇が神に代わり、いや神と並べられ、又ヨーロッパではナチス政権とヒトラーが神に並ぶものとされ、多くのキリスト者さえも目くらましに遭ったのです。しかし、そのような時代においても神の戒めに頑なに従い続け、迫害されたキリスト者を、今も闇に輝く光として見出すことが出来ます。〔映画『ハクソー・リッジ』デズモンド・ドス〕
様々な宗教が溢れる日本で、偶像崇拝禁止の戒めを語る時、他者を攻撃するかのような誤解が生じます。しかしそうではなく、天地万物を造られた本当の神なるお方を、人間が刻むことなどできないこと、又神に造られた一人の人間が死んで神になり得ないとの事実を謙虚に語り続けることは可能です。主イエスがサマリアの女性に語られた御言葉が今も私たちに響きます。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。 (ヨハネ福4:23-24)」。“主なる神よ。世界中の全ての国であなたを礼拝し続けることができますように私たちを導き、勇気をお与え下さい”と共に祈りましょう。   


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-06-26 15:02:20 (129 ヒット)

出エジプト記20章1〜3節          
 「あなたには、わたしをおいてほかに神があるだろうか。いや、あるはずがない(出エジ20:3)」と、神の愛の叫びに始まる十の戒め。モーセに神がシナイ山で授けられた「十戒」と呼ばれる神の「教え」と「戒め」とは、エジプトの奴隷生活から解放してくださった主なる神より人間に授けられた祝福です(24:12)。なぜなら、車が道路を安全に走行するためは交通ルールが不可欠なように、私たち人間が神との関係性〈1〜4戒〉も、隣人との関係性〈5-10戒〉も豊かなものとされることを神が願い、授けてくださったものだからです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と日本語訳された言葉からは、上からの冷たい命令調に感じられるかもしれません。しかし冒頭の3節のように、人間を創造された神が、無条件の神の愛によって生かされている人間に対し、その神の愛を忘れて離れ去ることは到底あり得ない…とまで語る、神の人間に対する徹底した信頼が原語(ヘブル語)に込められています。私たちが本当の生みの母親と父親以外の人から「私があなたの親だ」と言われても動揺しないように、天地の造り主で、唯一なる神の愛を知った私たちが神から離れるはずがない…と、神の揺るぎない信頼が込められています。
ある日、イエスのもとに金持ちの青年が永遠の命を得ることを求めて来ました(マタイ19:16-26)。その時、主イエスは十戒を含めた神の掟を守ることを伝えると、彼は「そういうことはみな守ってきました。まだ何がかけているでしょうか」と答えます。この大いなる誤解の中に生きる青年へ主イエスは彼の持てる物を売り払い貧しい人々に施すこと、何よりも「わたしに従いなさい」と語りかけられました。残念ながらこの青年は、神のことも、彼自身のことも本当の意味で理解できず、全ての関係性で孤立した人生を生きていたからです。だからこそ主イエスは、その青年に主に従って共に生きる人生、つまり永遠の命へと招いてくださいました。私たちは神の戒めを守ろうとすると、それが出来ない私たちの弱さと愚かさに失望することがあります。だからこそ今も主は「わたしのもとに来なさい」・「共に歩もう」と語りかけておられるのです。
主イエスが与えられた新しい掟とは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネ福13:34)」でした。神に愛されていることを知ったからこそ、その応答として、神に授けられた戒めを喜んで、神と共に守る者とされる。そのために私たちも主イエスと共に歩み、隣り人と共に祈り祈られながら、豊かな人生を歩んで参りましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-06-19 15:19:46 (154 ヒット)

マタイによる福音書6章1〜9節
「父なる神さま」という言葉に、どんな印象をもつでしょうか。「父」という言葉自体にアレルギーのような感覚をもつ方もおられるかもしれません。当時の父系社会の中において聖書は、この世界を造られた愛なる神さまのことを「父」という言葉で示し、私たちはその言葉から、目に見えない神さまがどんなお方であるかを想像します。神さまは「父」という言葉で表されますが、私たちの父は神さまのようではないという現実…。「父」という言葉は、私たちの「神さま理解」を、時に助け、また時に妨げているかもしれません。私たちは聖書から、神さまがどのような方なのかをまっすぐに見つめたいと思います。
聖書の中でイエス・キリストが示されている神さまの姿は、厳格な父でありながら、時に親しい友(ヨハネ15:15)であり、私たちを「兄弟、姉妹」と呼ぶ(マタイ12:50)、そんな近しい存在です。今日のマタイ福音書では、「隠れておられる天の父」(4,6,18節)という言葉が繰り返されていますが、そこからは隠れて私たちを見張っているというよりは、私たちに見つからないようにそっと見守っている、さながらかくれんぼのような印象を受けます。私たちはそんな隠れている「おとうさん」を、見つけることができているでしょうか。
聖書の神さまは目に見えないという、それこそかくれんぼのプロですが、ご自分を私たちに対して隠したままにせず、聖書を、またイエス・キリストを通して示してくださいました。その姿を表す言葉は、「信仰、希望、愛」(コリント13:13)です。私たちを信頼して、隠れたところから見守っていてくださり、愛の眼差しで見つめ、その祈りを聞き入れてくださる(6-7節)。そして、私たちが「呼ぶより先(せん)に」、私たちの必要、私たちが求めるべき希望を知っていてくださる(8節)、そんな「おとうさん」が、私たちの神さまなのです。
それに対して私たちは、自分の都合の悪い部分は隠し、良いところだけを人に見てもらおうとします。親に対しても、神さまに対しても、見てほしいけれど恐ろしい、そんな思いをもちながら、自分を善く見せようと偽っている者――「偽善者」(2,5節)とは、まさに私のことです。しかし神さまは、「あなたがたの光を、人々の前に輝かしなさい」(マタイ5:16)、要するに「隠すな」と言われます。私たちは、私たちの光である神さまを見つけたならば、隠すことなくその神さまを、自慢の「おとうさん」こそを、人に見てもらいたいと思うでしょう。それがそのまま、「御名が崇められますように」(9節)の祈りに繋がっていくのです。この「父の日」に、「おとうさん」と呼ぶ先におられる私たちの神さまを、まっすぐに呼び求めたいと思うのです。おとうさん!


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-06-12 15:20:36 (232 ヒット)

ルカによる福音書17章11〜19節 
 1.人間を一つにするもの
 イエス様がエルサレムに向かう途中である村に入りました。するとそこに重い皮膚病を患っている10人がいてイエス様を出迎えたのです。この内の一人はサマリア人で、他の九人はユダヤ人でした。当時、ユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲でしたが、しかし、ここにはユダヤ人もサマリア人も一緒に生活をするコミュニティーのようなものが存在したのです。なぜなら、律法において「重い皮膚病」にかかっている人々は「汚れた者」とされ、他の人々と接触することが禁じられていたからです(レビ記13:45,46、民数記5:2)。それ故、彼らは社会から隔離された一つの共同体が出来ていたのです。
2.叫びを聞いてくださるイエス様
 彼らは「遠くの方に立ち止まったまま」、大きな声で叫びました。「イエス様、どうか、わたしたちを憐れんでください」と。この遠くにいてイエス様に近づくことのできない彼らの姿はどこか私たちの姿と重なります。重い皮膚病の故にイエス様に近づくことができない。私たちもまた、罪の故に神様に近づくことができないのです。また、彼らの「憐れんでください」という叫びは、私たちにとっては祈りです。遥か遠くにいる主に向かって祈る、叫ぶ、その私たちの祈りをイエス様はしっかりと聞いてくださり、イエス様の方から私たちの傍らにまで来てくださるのです。
3.感謝を忘れる人
 イエス様から「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた彼らは、その言葉を信じて一目散に祭司のところに向かいました。すると、その途中で彼らの体は癒されました。しかし、感謝を表しに戻ってきたのはたった一人でした。その人は大声で神を賛美しながらイエス様のところに戻ってきて足元にひれ伏しました。彼はサマリア人(異邦人)だったのです。彼は自分が癒されたことの喜びと感謝に満ち溢れて、祭司のところに行くよりもまず自分を癒してくれた方のところに戻って来たのです。他の9人は早く祭司に認められ社会復帰がしたい一心で感謝することなど忘れてしまったのかも知れません。
結語. イエスのもとに帰ろう
 イエス様はサマリア人に言いました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(19節)と。彼はここで真の癒し(救い)を受けたのです。重い皮膚病を患っていた10人全員が癒されました。しかし、救われたのはたった1人でした。しかも、その人は重い皮膚病だけでなく人種的にも差別を受け二重の苦しみにあったサマリア人です。私たちもこのサマリア人のようでありたいと思います。


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