< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2017-06-05 14:13:04 (164 ヒット)

コリントの信徒への手紙一13章4〜13節       
「信仰、希望、愛は、いつまでも残る(とどまる・存続する)」と語られるギリシャ語“メノー”は、主なる神の愛の偉大さと永遠性を表現する言葉の一つです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ(ヨハネ福音15:5)」と主の愛に留まる平安と喜びが語られるこの箇所も同じ言葉です。更に「神は愛です」と、聖書の真理を的確に言い尽くした御言葉の続きに、「愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださる」と三回繰り返されます。直前にも「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります(4:15)」と、イエスを主と告白する信仰告白こそが実は神の愛につながり留まることだと明言されます。
不正に税金を取り立てていた取税人ザアカイに、主は木の上にいる彼を見上げながらこう語りかけました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい(ルカ19:5)」と。この“泊まる”という言葉は、単に彼の家に宿泊するとう意味だけでなく、人生の方向転換を願っていたザアカイの人生に主イエスご自身がとどまり続けたいとの祈りも含まれています。この愛に触れたザアカイは、それまでの歩みを悔い改め、隣人に愛を示す決意をしたのです。こうして主は「今日、救いがこの家を訪れた」と喜びます。この出来事は「世と世の欲は滅び去ります。しかし神の御心を行う人は永遠に生き《とどまり》続けます(ヨハネ手 一2:17)」とあるように、ザアカイの人生とも重なる御言葉です。
イエスを救い主と告白し、バプテスマを受け、弟子とされた者への“救いの有効期限”はありません。神の救い・神の愛にも賞味期限はないと聖書は教え(ヨハネ福3:16)るからです。主イエスは「私の記念としてこのように行いなさい」と、主の晩餐を守る弟子としてとどまり続ける重要性を語られていました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり《とどまり》、わたしもまたいつもその人の内にいる(ヨハ福6:56)」と。
いつまでも存在される主イエスを信じる≪信仰≫と、永遠に変わらない御言葉と救いの≪希望≫にとどまり、神に与えられた永遠の≪愛≫に生かされることを感謝する者へと変えられる。この新生の日を迎えた時こそ、一人一人にとってのペンテコステ(聖霊降臨日)となります。なぜなら、「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる(ヨハ福14:17)」と、昔も今も、そして永遠に神の愛は溢れ出ているからです。あなたにも。
  


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-29 15:04:58 (170 ヒット)

コリントの信徒への手紙一13章7節            
  愛は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える(コリント一13:7)」とパウロは語りかけます。しかし、この言葉を聞くと、“こんなにも「すべて」のことを受け留め、耐え忍ぶことは無理です!”と、心の叫びが大合唱となって聞こえてくるようです。ギリシャ語で「すべて」は、英語のAll、Everythingと共にWholeやEachを含むとても広い意味を持つ言葉です。Allとは、とにかく何もかも全てを指す言葉ですが、Wholeは個々人一人一人に神から与えられた全てという意味で、その人に与えられた出来る限り全てのことです。ですからパウロは同じ書でこう語ります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます(同10:13)。」しかし、この御言葉の意味を心から理解し受け止める者となるには、それぞれに時間も、経験を重ねることも、また何よりも聖霊なる神の働きなければ難しいことを知って、大切な人たちと分かち合う必要があります。なぜなら、神の真理の御言葉に、受け止められない反発と怒りを感じてしまう自分の姿があるからです。この私たちが、心を尽くして神を愛し、人を愛し、いや自分自身のことを愛する、この完全な愛の極みに到達することを、神が信じ、忍耐を持って待ち続けておられることを、旧新約の全書を通して私たちに語られています。
 「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい(ヤコブ5:10)」とあるように、エリヤをはじめ旧約時代の預言者たちも、真の神の忍耐強い愛に驚きつつ、遂にはその主を信じて従う者へと変えられていきました。また新約の時代には、母マリアの忍耐強い信仰に育まれたイエスも神と人とに愛されて成長し(ルカ2:41-52)、カルバリへの道を最後まで忍耐強く歩まれる者とされ、全人類への救いの道が開かれました。
 百人隊長の僕(しもべ)が病に倒れた時、彼は地位や名誉、人の目に左右されることなく、イエスの元へと彼自らが出向き、イエスこそ癒し主であると信仰の告白をする姿に、主イエスは彼の信仰を称賛しました。このような信仰の先達者達に囲まれて、キリストの教会は世界中へと真実の愛(アガペー)を分かち合っていく群れとされ、全世界へと広がっていったのです。
 皆さんは聖書が語るこの辛抱する愛によって歩む者となりたいと願っておられるでしょうか。自らの姿に失望するのでなく、何よりも神が私たちが変わることを信じ待ってくださり、神の愛と計画を悟る日が来ることを待ち望んで参りましょう。なぜなら、愛するということは、人間の努力によって頑張るのではなく、主の愛に触れる時に、神の時を《信じ》、待ち《望む》む思いが湧き溢れ、いつの間にか《耐え》《忍ぶ》者へと変えられていくのですから。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-22 16:09:29 (198 ヒット)

コリントの信徒への手紙一13章1〜13節、詩編51篇3〜14節         
「みんな本当の私を知らない」そんな風に感じてしまう、若者の声を耳にします。「本当の私」とは何でしょうか。少なくともこの叫びには、みんなの中で自分が受け入れられていないと感じている、そんな心が投影されています。
 本当の私を「真実に生きる」、そのことはいかに難しいことでしょう。聖書が「愛の賛歌」(コリント13章)の中で語っている「真実」(6節)という言葉は、「隠されていないこと」「正直であること」「信頼すること」を意味します。真実に生きることができない、そのことの背景には、様々な種類の「恐れ」があるように思います。人の評価や反応を恐れる。それによって自分の在り方が揺るがされることを恐れる。その相手との関係性の喪失を恐れる。そしてそれを時に、自分の存在意義の喪失のように感じて恐れる。「正直者が馬鹿を見る」そんな現実の中に、私たちは「本当の私」を隠して生きている。自分の正直さの向こう側に、誰も信頼することができない。「不義」(6節)とは、そんな風に「隠れていること」「偽っていること」「信頼できないこと」を表しています。
 イスラエルの王ダビデは、部下であるウリヤを殺し、その妻バト・シェバを自分のものにしてしまうという大きな罪を、王の権力を使ってひそかに行いました。しかし、全てをご存知である神さまは、預言者を通してその罪を明らかにされました。(サムエル下11-12章)その時ダビデは、自らの罪を正直に認め、詩編51篇の詩を歌いました。ダビデの正直さの背景には、自分を憐れんでくださる神さまへの信頼がありました。神さまは、私が正直になるより先に、私のことをすべて知っていてくださる。誰にも見せられず隠している、そんな私の心をも知った上で、それでもなお、私を憐れんでくださる。「(愛は)不義を喜ばず、真実を喜ぶ」(コリント13:6)とは、神さまが私を決してあきらめないこと、隠れている私を、決してそのままにはしておかれないということを表した言葉なのです。この愛にさえ信頼できない、そんな私たちの心をも神さまは知っておられる。この愛に今、帰りたい。
 そして私たちもまた、互いとの関係性の中で「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」者でありたい。誰かが隠れて生きなければいけない、自分を偽って生きなければいけない、そのような現実を喜ばず、「真実」を喜びたい。誰にも理解されないと感じ、誰かを信頼することを忘れ、隠れて生きているかもしれない、そんな誰かの「本当の私」に、寄り沿い歩む者となりたいと思うのです。「本当の私」を見つけ、すべてを知った上でなお、優しく寄り添ってくださっている、神さまの愛(アガペー)を感じながら。私自身がその愛に生きる「真実に生きる」者として歩めますように。     


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-18 13:18:20 (182 ヒット)

コリントの信徒への手紙一13章1〜13節、マタイによる福音書6章33節              
 母の日に「愛の賛歌」、特に今日の箇所(コリント一13:5)を分かち合えることは幸いです。母親の存在の大きさを知る時、主なる神の示された無条件の愛(アガペー)を思い起させて頂けるからです。パウロは、真の愛より流れ出す行動として4つの事柄をこの節に込めました。これらを一言で表すなら、「礼を尽くす」ことです。日本語で「礼節」とは、礼儀と節度を持って人と関わる道徳的徳目として使われます。しかし聖書の語る愛に基づく「礼節」とは、私たちの努力と心がけの前に、まず真なる神を知り、信じ、感謝する関係性(我と汝)が土台となり、そこから生じる礼節こそ真の愛だと、パウロは彼の手紙の各所で証ししました(コリント一14章他)。
 「バベルの塔」の物語(創世記11:1-9)は、時代を超え、多くの示唆を人類に与え続けています。ここには人間の傲慢さ、つまり天地を創造された唯一の神に対して礼節を欠く行為の結果が如実に描かれました。このテーマで有名な絵(1580年代)を描いたブリューゲルは、宗教改革後にヨーロッパ社会を襲う分断の嵐の中、信頼すべき教会までもが同じ過ちを繰り返す姿に心を痛めます。そこでM.ルターのように、言葉による主張でなく、絵画を通して大切な問題提起を投げかけました。それは、神に対する礼節を欠く人間の姿勢が、社会をバラル(混乱)し、誤った方向へ向かっていく姿に気づかせ、悔改めに導く預言者的な役目を担いました。そして今も、私たち現代に生きる者へも語りかけています。
 創造主なる神との関係性を回復し、人間同士が抱える関係性の混乱、言語の違いさえも越えて一つにして下さるお方が、キリスト・イエスです。パウロはそのことを次のように感謝し、信仰の告白をしました。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、…双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。…それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(エフェソ2:14-18)。
ペトロはイエスを師(ラビ)、また救い主として礼節を尽くしてイエスに従おうとしていました(ヨハネ13:36-37)。ところがそのペトロでさえ、十字架の苦難を前にして、イエスを否認します。自らの姿に絶望して、仲間の弟子たちから離れ去ろうとする彼に、主イエスは現れ、アガペーの愛を注がれました。そしてそのペトロに、全世界に広がりゆく主の教会を一つの主の群れとして牧し、ケアする働きを託したのです。
主は今も、この混乱に満ちた世界において、真の神を礼拝し、真の愛 に基づいて共に一つとなって歩み、神の恵みの高い峰へと登りゆく者を、ペトロたちのように求め、関わり、祝福してくださいます(ヨハネ4:23)。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-08 15:59:44 (207 ヒット)

コリントの信徒への手紙一13章1〜13節        英語で「Do’s & Don’ts:べし・べからず集」と題し、様々な専門分野に関わる人向けに作成されたものがあります。「愛の賛歌(13:4-8)」にも、愛とは「〜です」、その一方、愛とは「人に対し〜をしません」と語られ、「十戒」(出エジ20章)もそれに該当するかもしれません。ここでパウロは、教会が成熟したキリスト者<霊の人>の群れとして育まれ、愛に生きることを願いこの手紙を記しました。「ならぬものはならぬのです」と使徒パウロの強い思いが今日の13章4節後半の3つに語られます。
第一に愛とは《ねたまない》ことですと、他者を羨んだり妬むことが多い私たちの心を踏まえ、その感情に支配され、罪の奴隷にならないようにと冒頭で呼びかけます。カインやヤコブたちのみならず、パウロ自身もこの感情と闘い、乗り越えたいと祈っていたからでしょう。アポロという同労者がいることで、コリントの教会内でパウロ派かアポロ派かと、分裂の危機さえ生じさせた<肉の人><ただの人>と呼ばれる人々の課題がありました(コリント一3章)。そこで、「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です(3:5-7)」と、自分の分(役割と使命)をしっかり理解し、周囲の挑発にも動じない信仰を宣言したのです。特にギリシャ語で《ねたむ》とは「熱心さ」を表し、良い方向(12:31a)にも、悪い方向(13:4)にも傾く危うさがあることをパウロも知っていたようです。
 第二に愛は《自慢しない》と、ほら吹かず、相手に劣等感を与えないよう配慮することが語られます。第三の《高ぶらない》とは、のぼせ上がり、高慢な態度をとろうとする自らの弱さに気づき、どの言葉にもパウロ自身の過去を振り返り、なお前進しようとする思いが次の言葉からも目に浮かびます。「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。…だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです(コリ一4:6)」。
 私たちが自らの「分を知る」ことの大切さを、天地創造に始まり、神の最後の審判に至るまで聖書全体から私たちへ語りかけられます。「…人間は何ものなのでしょう。…あなたが顧みてくださるとは。 神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」(詩編8篇)。神の御子イエスが人としてこの地上に降られ、その命を与える程まで私たちを愛してくださる偉大な神の愛。そのお方の愛の御言葉に耳を傾け、信仰と希望を抱きつつ、共に歩ませて頂きましょう。                       


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