< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2017-08-07 13:30:33 (213 ヒット)

出エジプト記20章13節            
 沖縄に「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」、人の生命こそ何よりも大切な宝物という意味の言葉があります。第六戒の「殺してはならない」との命令には、人間の生命を奪ってはならない。なぜなら、神が人間に、動植物全てにも命を与えられた前提があるからです。ここで呼びかけられる「殺すな」は、人類最初の殺人、カインの弟アベルへの行為に始まる、罪ある人間同士に対して向けられた戒めです。しかしA.シュバイツァーの提唱した「生命への畏敬」、動植物に至るまで被造物全ての命を“治める”務めが託されたことをも忘れてはなりません。更に「人を殺すな」は、故意の殺人が対象で、不作為殺人や戦争への防御、刑罰による死刑などの死は含まれないとの立場に立つ人もいます。しかし、その許される範囲、境界線を誰が引き、判断するのでしょうか。今日、科学技術の進歩により、様々な生命倫理観の解釈の違いによって引き起こされる医療や司法の現場での混乱に、バプテストのキリスト者はどのように応答し生きることが求められているのでしょうか。
 旧約に記された殺戮や、復讐を正当化する当時の社会通念に対し、イエス・キリストは神の御子としてこう語りかけられました。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい (マタイ5:38-39)」。何度読んでも主イエスの倫理観に従うことは難しく、その通りに生きるなら自らの身が持たないと感じてしまいます。多くの弟子たちにとって、この主の教えの意味を受けとめることが出来たのは、主の十字架の死と復活の後となりました。主はこの“地上の命”を尊び、地上の病や苦悩を解放し癒す働きに多くの時を用いられました。しかし何よりも、愛する人間一人一人が“永遠の命”を神によって与えられるため、ご自分の命を惜しまず献げられた姿に弟子達も、そして今、私たちも神の御心を悟るに至ったのです。初代教会のキリスト者は、ローマ帝国に国教と定められ、世の政治権力と信仰が取り込まれるまで非戦・非暴力を貫いてきました。主の御心に従って命を生かすことを優先する決断には難しい課題が投げかけられますが、個々の決断に聖霊が働くことを信じましょう。
 命の誕生の危機(人工妊娠中絶など)に始まり、命の終わりの危機(安楽死など)まで生涯、神から与えられた命を生かす働きへと教会は招かれています。けれども決して忘れてはならないこと、それは、主が大切にされた “<生>命(いのち)”とは、身体だけではなく、心も、魂も含まれているからです。なぜなら、命を助けられず、様々な事情で失わざるをえなかった全人的<霊的>苦痛の只中に置かれている人々に、主イエスの十字架の上より流された血潮にある赦し、そして永遠の命に至る救いの泉は、全ての人々に慰めと希望となって流れ出ているのですから。昔も、今も、永久に(ヘブ13:8)。アーメン。
 


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-07-31 14:18:15 (199 ヒット)

出エジプト記20章12節           
 四戒までは神との関係性が、残り六つは私たち人間の関係性が豊かにされるために神より与えられた愛の戒めです。しかし、親子関係に深い痛みを抱える現代社会に生きる者にとって、「あなたの父母を敬え」(出エジ20:12)との戒めに反発を覚えることがあります。にもかかわらず、神の言葉を不変の福音として私たちはどう伝えていけば良いのでしょうか。
 エフェソの初代教会へこう語られます。「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。『父と母を敬いなさい』。これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です」(6:1-3)。前半の言葉は今日(出エジ20:12)の解説ですが、後半にはこう続きます。「 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」(6:4)と。つまり、子の立場にある者だけでなく、親に対する責任にまで言及されるのです。これは、第五戒が単に子に対して親に無条件で敬うことを押し付けるものでなく、まず親にその自覚と責任が問われ、両者に良き関係性(和解)を保つチャレンジを聖書は問い続けるのです。なぜなら豊かな隣人との関係性は、まず幼少期の親と子との関係から生じることは、今も揺るがない真理ですから。
 主なる神は、最初の男と女に対し「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世1:28)と命を生み出す祝福を語ります。何よりも神が命を人に与えられるお方ですが、命を生み出される関係性は男と女とに託され、その誕生に対し、夫婦関係と新たな親子関係に、責任と役割が託されたのです。聖書の親子関係は決して血肉だけによらないことが、ナオミとルツ(ルツ1:16)たち、そして主イエスにより明示されました。イエスは十字架の上で死を目の前にされ、母マリアに「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」、愛弟子ヨハネに「見なさい、あなたの母です」と語られ、ヨハネはイエスの母を彼の家に引き取った(ヨハネ19:26-27)のです。ここにも旧約の律法(十戒)は、愛の行動によって完成されることが示されました。
 イエスは天地創造の神を「父:アッバ」と呼ばれ、私たちにもそのように祈れと教えられました。それは罪ある人間と、義なる神との関係性が修復されるための突破口となるためでした。何よりも神ご自身が、私たちから「父」と呼ばれることを願われ、愛する『わが子』として、「肉(親)の父」以上に、「霊の父」として鍛えてくださるお方だ(ヘブライ12:5-11)と知った時には驚きます。しかしその愛に基づく神の目的を理解した時より、私たちの人生の悲しみが喜びと希望に変えられ、心より神の戒めに喜び従う者へとされるのです。
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、
後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです(ヘブ12:11)」


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-07-24 16:05:30 (174 ヒット)

ルカによる福音書17章20〜33節 
***申し訳ありませんが、聖歌隊賛美、メッセージの終わりの部分は録音メッセージにてお聞きください***        
 イエスは聖書の中で、神の国について多くの箇所で語られました。特にルカ福音書には34回、神の国という言葉が出て参ります。次に多いのがマルコ福音書、そしてマタイ福音書、ヨハネ福音書と続き、この4つの福音書だけで80%以上出て参ります。イエスは言われました。何よりもまず神の国と神の義とを求めなさい。それは何を食べるか、何を着るかよりも大切なことなのだ。そして特にこの世で富を追い求める人々に対して、神の国に入るにはラクダが針の穴を通り抜ける方がまだ易しい。あなたがたは神と富とに同時に仕えることは決してできない。なぜなら神と富は相容れないから。財産のある者が神の国に入るのは何と難しいことか。そして弟子たちはこの言葉を聞いて驚いたのです。
 私たちは、生きて行くためには、お金が必要です。でもまず神の国を求めなさいということは、神の国よりも私たちの心は富やお金に惹かれてしまうので、それが偶像礼拝となる危険があります。現実にはお金が欲しい。それがすべてを解決すると信じてしまうことがサタンの罠です。しかしイエスがそのサタンの誘惑に「神にのみ仕えよ」と御言葉を通して勝利したように、もし私たちが最も大切な神の国を求めるならば、私たちに必要なものはみな与えられるとイエスは約束されました。
 ヨハネの手紙の1には「世も世にあるものを愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父からでないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続け」とあります。
 今の時代に私たちは、多くの人々に対して何を宣べ伝えて行くべきでしょうか。イエスはこう言われました「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。一体、ここで神の国とはどういう国のことを言うのでしょうか。ユダヤ人にとって神の国は、当時ローマ帝国の属国、奴隷状態になっていたので、自分たちの国を復興して、ダビテ王の時代のように、政治的にも経済的にも宗教的にも、自由を勝ち取り立派な王国を築くことでした。しかし世界の歴史の中で、目に見える王国で永遠に続いた王国などありません。
イエスは本日の聖書の中で、本当の意味の神の国を語られたのです。つまり、「神の国は見える形で来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」と。あなたがたの間とは、人と人との間、家族や友達との間、社会や日本人との間、世界の人々との間にあるということです。しかしその神の国は、何をもって私たちは神の国と呼ぶことができるのでしょうか。ここが今日の課題です。   


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-07-18 14:15:26 (187 ヒット)

出エジプト記20章8〜11節          
「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、…この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(創世2:2-3)。全知全能なる「神が休息された」との記事を読むと驚きを覚えます。なぜなら主なる神は「まどろむことなく、眠ることもないお方(詩121:4)」だからです。しかし神が天地を創造された中で人間だけは「神にかたどって<似せて>創造され(創1:27)」、愛する者を思い、率先して神ご自身が「安息する」重要性を示されたと知った時、戸惑いは感謝へと変えられました。
 神がモーセを通し与えられたこの戒めは、「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない(出エ20:9-10)」と、人のためではなく、神ご自身の為にこの日を「心に留め、聖別(他の日と区別)せよ(20:8)」と命令されたのです。人間は法規によって拘束される以上に、本来は法により自由とされることを、歴史を振り返る時(特に人権問題や労働時間等)、私たちは実感することがあります。イスラエルの民が荒れ野にて神からマナを授かった時、安息日の前日、二日分を採取しても腐ることなく、ただ礼拝と休息に徹することが出来ました(出エ16:29-30)。この時以来、安息日を聖なる日として人間自らも身体を休め、歴史の中でイスラエルの民は厳密に守り続けたのです。ところがイエスの時代になると、「人のためにあるはずの安息日が、安息日のために人がある」かのように、神の真意が歪曲されていました。そこで主イエスは「人の子は安息日の主でもある(マルコ2:28)」と宣言され、「人生で何を選び取るべきか」をご自身の愛に基づく生き方によって示されたのです。
今、私たちにとって“安息日”とはどのような意味があるのでしょう。まず、第一に安息日とは主なる神を礼拝する日です。かつて土曜がユダヤの安息日でしたが、イエスが十字架の死より復活なされた日を礼拝の日として初代教会から今日に至るまで守り続けています。しかし礼拝は日曜日と限らず、6日精一杯働き、その人にとって週のどこか一日、礼拝の日として聖別すべき意味を心に留めましょう。
第二に安息日とは、神に与えられた「私自身」を全人的に休ませる日です。つまり身体と心の休息だけでなく、神に与えられた魂や霊を休ませる日です。魂と霊を休ませるとは、身体を休ませる以上の意味があります。なぜなら、どんなに身心が疲れていても、神と出会い真理を知る礼拝によって、魂が自由とされ(救われ)、身心も回復するからです。礼拝には、日々のディボーション(聖書を読み、神のために時間を割いて祈る静思の時)や賛美も含まれます。主イエスが示してくださった愛に基づき、どのような状況においても対処する秘訣を授かり(フィリ4:11-13)、神と自らのために「安息日」を守り、生かされている喜びを深めて参りましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-07-10 13:52:17 (187 ヒット)

出エジプト記20章7節
 名前というのは、私たちにとって「わたし」という存在を表す大切なものです。聖書の世界においては特に、名前はその存在そのものを表すものだとして、「神の名」もまた、神さまの全存在を表す大切なものでした。十戒の第3戒は、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エ20:7) つまり、神さまの名前――神さまご自身を、「みだりに」軽々しく扱わないようにと教えています。第1第2の戒めは、「唯一の真の神さま」を知り信じる信仰が、私たちにとって何より大切なことだと教えていました。その上で、この第3の戒めで教えられていることは、私たちがそれを、まるで自分の所有物のように扱わないということでしょう。
信仰による確信は、私たちを強くします。しかし時に「私は神を知っている」「救いを知っている」という、傲慢で独善的な態度に繋がることもあります。その態度と、ヨハネ福音書20章でキリストの復活を、「○○してみなければ信じない」と言ったトマスの態度とには、何ら違いはありません。どちらも、自分自身の認識や判断、確信を基準にして、神を信じているに過ぎないからです。キリストが「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのは、まさに十戒の第2戒のように、私たちが目に見える自分自身の確信(それが一見強い「信仰」のようであっても)を作り上げ、それを握り締めることがないようにとの勧めです。もしかすると私は、信仰と言いつつ、「神の名」を「みだりに」軽々しく借りて、自分の正当性や存在意義を主張しているに過ぎないのかもしれない…。そんな視点をもちながら、私たちはいつも、自分自身の内にある無意識の「偶像礼拝」に気をつけていきたいと思います。
 神さまを信じる―信仰をもつ―「神の名」を呼ぶとは、どういう態度を言うのでしょう。神さまは、私たちにはとらえきれない大いなるお方です。私たちはその神さまの前に、畏敬の念をもち、同時に自分自身の小ささ、不確かさを思わされます。しかし神さまは、モーセを通して(出エ3-4章)、またイエス・キリストを通して(聖書全体)、ご自身の名、存在を私たちに明らかにしてくださいました。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エゼ37:27)と言ってくださった神さま…私が「わたしの神さま」を選んだのではなく、神さまが「わたしの神さま」になってくださった。(ヨハネ15:16) この態度こそ、十戒が教える、私たちに与えられた「神の名」を畏れをもって呼ぶ、謙虚な信仰です。


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