< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2018-03-05 15:32:54 (344 ヒット)

歴代誌下7章11〜15節
 祈る姿勢として聖書には、手を“上げて”“広げて”“置いて”、またある時には“ひざまずいて”祈る姿が記されています。どの姿勢も、神に向かう一人一人の真剣な信仰姿勢の表れであることが分かります。宗教改革を経て存在する私たちの教会は、カトリックの形骸化したものにプロテストし、取り除きましたが、聖書に基づき取り戻す必要もあるようです。
 モーセは神より「戒め」を再度受け取る時、「ひざまずき、ひれ伏し(出エジ34:8)」ます。又、ペルシャの王ダレイオス王に重んじられたダニエルを妬む他の大臣が、彼を陥れる法を定めても彼は「いつものとおり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神の前にささげた(ダニ6:11)」のです。
 そして今日の箇所では、ソロモン王が高慢にならないよう、「わたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす(歴代下7:14)」と神は語られました。私たちは今、どのような姿勢で祈ったら良いのでしょうか。
 詩編95篇に「わたしたちを造られた方、主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。主はわたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊。 (6-7)」とあります。これは文字通りに、ひざまずき、ひれ伏すことを勧める以上に、羊が羊飼いを信頼して地面に伏し、身を低くし、身を投げ出して平安と喜びの中で生かされるようにと譬えを用いて語られました。
 主イエスも捕らえられる直前、オリーブ山でひざまずいて祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください(ルカ22:41-42)」と。この時、完全に人として歩まれた人間イエスの信仰の姿勢を通し、神の救いが私たち人間に与えられたことを使徒パウロは次のように証しします。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです(フィリピ2:6-11)」。
 主イエスのこの姿に感謝し、主を賛美する時、単に身体的に「ひざまずく」ことはなくとも、神は私たちを喜んでくださいます。しかし、もし私たちが神の前にひざまずき祈る心が与えられるなら、人の目を恐れず、ひざまずいて祈りましょう。何よりも神は私たちの心を知っておられるお方ですから。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-02-26 15:22:32 (309 ヒット)

テモテへの手紙一2章1〜15節
 「とりなしの祈り」の最たるものは、主イエスが十字架上で祈られたこの言葉です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカ23:34)」。ご自分を十字架に架けた人々に対し、その罪を問うのでも、報復を願うのでもなく、父なる神に赦し(救い)と祝福を与えてくださいと祈られた主イエス。この時の主の執り成しは、今なお私たち全ての者への罪の赦しへと及ぶのです。  
一般に「執り成し」とは、他者のために代わって誰かが、関係回復を援助する行為です。聖書に執り成す姿は、アブラハムが甥ロトのため、彼の住む邪悪な町ソドムが神に滅ぼされないことを神に執り成す祈りの姿(創世18:16-33)が描かれます。新約では初代教会成立時、使徒たちと共に奉仕した七人の一人ステファノが、信仰ゆえに殉教を遂げる際、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください(使徒7:60)」と大声で叫ぶ姿に証しされました。今日の箇所は、ステファノの死を誘導し、その後復活の主と出会い、劇的回心を体験したパウロが、弟子テモテに牧会書簡として送り、諸教会でも回覧されたものです。ここでパウロは「全ての人々のため」に、願いと祈り、執り成しと感謝を神に献げよと勧めます。「全て」とは、当時の政治を司る邪悪な人々さえも含みました。なぜなら、完全な神であるお方が、完全な人となって地上に来られ、父なる神と人の間に立ち、執り成せる唯一のお方こそ御子イエスであったこと。そしてご自身を人の罪の贖いとして献げてくださったことを感謝し、誰一人として神の救いの計画から除外されてはならないと強調します。これは正に主イエスが語られた「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」との言葉が、イエスにより実践され、その執り成しがステファノへ、更にパウロへと波及し、パウロ自身が執り成され、救われた喜びから語られました。
 正直、8節以降の言葉には驚かされます。現代の視点から読むと、偏見と不信実に満ちた言葉としか思えないからです。「婦人は、静かにし、全き従順を学び、男の上に立ったり、教えたりすることを許さない…。アダムはだまされなかったが、女はだまされて罪を犯した」など。これらのパウロの言葉は、当時の教会における特定の婦人たちの課題を考慮に入れなければ、理解に苦み、普遍的真理として受け留められ難いものです。大切なことは、主なる神が語られた真理の以外、パウロの言葉でさえ、人の言葉として限界があり、神の言葉と同様にしてはならないと知る必要があります。つまりパウロも一人の弱き人間であり、彼のためにも執り成しが必要であったのだと聖書は今日、語りかけているのではないでしょうか。
 現代に生きる私たちも、罪深く不完全な者であり、今もなお主イエスに執り成され、赦され、今ここに生かされています。だからこそ、「主よ、互いに執り成しながら歩ませてください」と祈り合いましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-02-19 15:25:38 (380 ヒット)

コリントの信徒への手紙二4章16〜18節
福岡女学院大学初代学長、岩橋文吉先生は「人の精神的飛躍はより優れた精神との出会いによってなされる」と言われたことを思い起します。私たちの精神的飛躍をもたらす人との出会いも私たちを深く愛しておられる父なる神様によって与えられます。
靖史先生のお父様である友納徳治牧師は高校時代に重い結核を患って入院していた時に、当時西日本新聞の文芸欄担当記者であった叔父、伊藤整さんが徳治さんを見舞って下さり、「君は病気をして何を失ったと思っているの?」と尋ねられて、即座に「青春です」と答えます。すると思いがけない言葉が跳ね返ってきたのです。「それは大変な思い違いだ。君は青春とは、美しい少女に出会い、音楽会、読書会、サークル活動。旅行、誕生パーティ。それにスポーツ、映画、観劇に…と思ってはいないかい。それらはすべて青春らしい生活形式であっても、青春そのものではない。例えて言えば蜃気楼、砂漠の中の幻影のようなものだ。それを追い求めていると、やがて疲れ果てて、人生そのものに幻滅を抱くことになる。…
 形だけの青春が失われることは、真実の青春が失われることではないのに、君は青春を失ったと言う。その喪失感により、君は死を恐れ、不安を抱いている。しかし、その青春の喪失感を君の魂の深みへと導いてゆく鉛糸だと思い、怖れずに自分の内なる声に届かせるといい。」と語るのです。深い言葉です。74歳になられた友納先生がその時を回想しながら自分に語られた伊藤整さんの言葉を思考に思考を重ねて表現した言葉です。
友納少年が「僕は青春を失った」と言い切ったとき、青春時代の見える形、一般の人々が楽しむ青春の様々な形を失っただけであり、自分はどこから来て、どこに行くのか?自分の存在の意味があるとしたら、何をもって意味があると言えるのか?自分の存在が死と共に無となり、それで終わりなのか?等を問いながら生きることも、それは形には現われないけれども、青春の大切な一部なのだと伊藤整氏は諭したのです。
 友納徳治先生は今紹介しました伊藤整氏の言葉を、『生きぬく力』(伊都文庫、2009年)の中で述べているのです。そして、伊藤整さんが語られた青春らしい生活形式を「目にみえるもの」、青春の本質的姿を「目に見えないもの」と言い換え、「この“見えるもの”と“見えないもの”の区別、識別は、その後も自分の基調音として脈打っている」と見事な文章で表現しています。私たちも「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」ことの大切さを聖書から学びましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-02-13 09:46:40 (370 ヒット)

ルカによる福音書17章11〜21節
 「国」というのは、私自身がこの広い世界においてどこに立つのか、その足場のようなものかもしれません。それは、私たちの寄るところであり、所属するところ、生きる場です。国や国籍は周りと自分を区別する、ひとつのアイデンティティ(帰属意識)ともなって、私たちはそれらを共有する人々と安心して暮らし、そうでない人々を時に排除することさえあります。島国である日本は、物理的国境も精神的国境も、特に強いものがあるように感じることがあります。2月11日「建国記念『の』日」の制定の議論、その背景にある国家観にも、日本「国」という強い意識が表れているように思います。
 イエス・キリストは人々に「神の国」についての教えを語りました。「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(11節)という御言葉は、私たちがもっている「国」の概念とは違う、新しい教えです。キリストがこの言葉を語られる少し前、10人の病人が彼に病の癒しを求めてやってきました。彼らは普段は、宗教的な課題で仲の悪いユダヤ人とサマリア人でしたが、共に「わたしたちを憐れんでください」(13節)と願い、イエス・キリストのもとにやって来ました。そこでは彼らは、「国」や「宗教」というそれぞれのアイデンティティ、違いを超えて、「病を癒してほしい」という願いと祈りによってひとつになっています。このように、私たちが互いの痛みを分かち合い、共に祈るとき、共に平和を願い求めるとき、その祈りは私たちの違いを超えていくのでしょう。
 実際、世界の平和のためには、国も国境も必要でしょう。また、私たちの間にある違いは、必要というよりも必然です。そんな中で、不用意に互いの境界線を越えてしまうことは、互いを傷つけることにも繋がります。しかし、それらの違いを“超”えて、私たちが共に祈りを合わせるとき、「神の国」は、その私たちの間にあるということを、聖書は語っているのです。
 教会は、2月11日を「信教の自由を守る日」として覚えます。イエス・キリストによって病を癒される中、たったひとり神に感謝したサマリア人の姿(18節)は、当時のユダヤ人の閉鎖的な宗教文化の中で、国や信仰が違っても、神と出会い祈る自由があることを、皮肉を込めて物語っています。聖書は、「国」や「宗教」というアイデンティティによって、私たちが互いの間に作り上げてしまう「へだての壁」を、イエス・キリストが取り壊してくださったと語っています(エフェソ2:14)。
 私たちは、「ここでもなく、あそこでもなく、私たちの間に神さまの平和の国が実現し広がっていくように」と、国の違う、信仰の違う人たちとさえも、平和の祈りを合わせていきたいと切に願います。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-02-05 16:02:12 (366 ヒット)

詩編5篇2〜4節
 「祈りは適度な声で静かに祈るもの」と日本の教会では教えられたようです。しかし、旧約を読むと「叫ぶ祈り」が何度も登場します。「わたしの王、わたしの神よ。助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります(詩5:3)」。この他にも、繰り返し人々が叫び声をあげて神に祈り、その祈りに神が応えてくださることが証しされます。人生の様々な危機において、叫び声を神に、人にあげる存在として人間は神に造られているようです。韓国の教会を訪ねた時、特に金曜徹夜祈祷会で、会衆が一斉に大きな声を上げて、叫びながら祈る姿に衝撃を受け、また感動したことは忘れられません。
 ある日、弟子たちと主イエスがエリコの町を出た時、道端に座っていた二人の盲人が、主がそこを通られることを知り、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました(マタイ20:30)。すると群衆たちは彼らを叱りつけ、黙らせようとしたのです。ところが二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。そこで主イエスは立ち止まって、彼らの願いを聞き入れ、癒されたのです。私たちは今、主なる神に、大きな叫び声をあげなくても、聞いてくださることを知っています(マタイ6:5〜)が、私たちの人生における状況や心情が叫び声を上げて祈ることを必要とする時、恐れず声を出せる祈りの場も必要なのかもしれません。
実は、主イエスも十字架上で何度も叫ばれました(マタイ27:50)。それは単に苦しみだけの叫び声でなく、父なる神への語りかけ、御言葉による祈りの言葉でもありました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか〈マタイ27:46/詩22:3〉)」。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます(ルカ23:46)」。この主イエスの、「御言葉による祈り」と「執り成しの祈り」の叫びは、父なる神の許に届き、信じる者にも、まだそうでない者にも神の赦しと救いの道が開かれる偉大な力となりました。このように、主イエスは私たちの心と魂(霊)の声なき深き嘆きを、主ご自身が代わって叫けばれ、「恐れず、神に苦しみ痛みを訴えよ」と示されたのです。
 今日、私たちが叫びをあげるのは、どんな時でしょうか。本当に、何かの助けが必要な時は、周りに臆することなく叫び声を上げるべきです。ですから、私たちはそのような祈りを互いに受け入れ、また必要を覚える時、恐れず叫び祈ることも信仰生活の大切な姿勢であると知る必要があります。
 神の民は、神への魂の叫びを祈りのみならず、賛美の歌声へと変えていきました。祈りによって、また賛美によって神に恐れず叫びましょう。なぜなら、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった(詩106:6,13,19,28)」との御言葉は真実だからです。臆せず父に叫ばれた主イエスにならい、心の叫びを、言葉に、また賛美として奉げられるキリスト者は何と幸いなのでしょう。


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