< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-14 13:52:08 (115 ヒット)

詩編91篇1〜15節
 発達心理学の中の、特に愛着理論という分野において、私たちが自分という存在を安心して受け入れつつ、自分の外の世界へと勇気をもって出て行くために、「安全基地」というものの重要性が言われます。それは、幼い子どもについて言えば、母親をはじめとする主たる養育者であり、その存在と関係性のもとに、いつでも安心して帰ることができるということがあって初めて、子どもは未知の世界へと自分の身を投じていくことができるというのです。
 詩編の作者は、全能の神という存在への信仰を、神を「避けどころ」「砦」として「依り頼む」ことであると表現しています(1節)。彼は、自らも信頼する「いと高き神のもと」について、人が「身を寄せて隠れ」「宿る」時(1節)、神がその人を「救い」「覆い」「かばってくださる」(3, 4節)ところである...まさに「安全基地」のようなところであると語っています。そして続けて、あなたは「恐れることはない」、病が「あなたを襲うことはない」、災難も疫病も「あなたに触れることがない」、そのように神があなたを守られると宣言するのです(5-12節)。
 しかし、信仰者の人生の実際はどうでしょうか。神を信じているからといって、災いがその身に降りかからなくなるわけではありません。むしろ、信仰を与えられたが故の悩みや苦しみというものもあるでしょう。この詩編の作者の言葉も、決して順風満帆な人生の中で生まれたものではないように思います。彼の目の前にもまた、厳しい現実があったのではないかと想像します。
 彼はその詩の中で、神への信仰を、神との相互の親密な関係として歌い上げています。「彼はわたしを慕うものだから 彼を災いから逃れさせよう」(14節) この中の「慕う」という言葉は特に、詩編に一度しか出てこない「すがりついて離れない」という意味の言葉です。この詩において表された彼の言葉は、神への信頼の告白であると同時に、神にすがりつくような思いでささげられた、彼の祈りの言葉のようにも思います。
 イエス・キリストもまたその生涯を通して、実に十字架の死に至るまで、父なる神に信頼し続けたお方でした。そのキリストが私たちに、「わたしにつながっていなさい」(ヨハネ15:4)と言われた、その言葉を思い起こします。
 私たちは留まることない人生という「道」(11節)を、常に「夜」と「昼」を繰り返しながら(5, 6節)歩き続けていくものです。そのただ中にあって、私たちがいつでも「身を寄せて隠れ」「宿る」ことができるところ、私を愛し「ともにいる」と言ってくださるイエス・キリストという「安全基地」に繋がっていたいと思います。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-07 16:00:48 (133 ヒット)

黙示録2章12〜17節
 紀元96年頃、ローマ帝国のアジア州に存在した7つの教会へ、ヨハネを通して主イエスが宛てた手紙。「あなたの住んでいる所には、サタンの王座がある」と語られたペルガモンの人々は、驚いたのでしょうか。それとも「やはりそうか」と思ったでしょうか。当時そこにはヘビを抱く医神アスクレピオスや皇帝礼拝の神殿群、そして町の中心アクロポリスにそびえるゼウスの神殿があり、アジア州の州都ペルガモンの名を世にとどろかせ、享楽にふけるため人々が押し寄せる、悪に満ちた町の代表でした。
 主はまず、そのような環境にも影響されず、信仰を貫いて殉教したアンティパスの名を呼び、一人一人の苦難と労苦を主が覚え忘れないと伝えます。同時に、パウロがかつて異なった福音と称したように、教会内に、主イエスを信じながら、人々を間違った信仰の道へと導く危険性を指摘し、厳しく警告されました。“バラムの教え”“ニコライ派の教え”とされる具体的な教義内容は分かっていません。しかし民数記22〜24章に同じ名前の人物が登場し、神より人々を引き離そうとしたことから、それは当時、神殿に備えられた食物(肉)や異教の習慣を吟味せず、自ら進んで饗じ、かつ他者にも進める人々の課題(参:コリント一8章)に習うなと語られたのです。
 そのような誘惑や課題に満ちた環境に置かれても、主の御前に勝利する、希望ある人生を選ぶ秘訣を主イエスは教えられました。
 まず第一に「隠されていたマンナ(ヨハ黙2:17)」を与えると語ります。マンナとは、出エジプト後、イスラエルの民が食料の乏しい荒野にて、約束の地に入るまで命をつなぐ、毎朝必要な分だけ備えられる食物でした。何よりも主イエスが「わたしは命のパン(ヨハネ福6:48)」だと宣言され、十字架と復活のイエスを私たちが信じ、その体の象徴なるパンを受け、神の子とさせて頂く道を開かれたのです。第二は「白い小石(2:7)」で、主イエスにある完全なる赦しが与えられると約束されました。当時、裁判官が判決を出す時、有罪の時は黒い石を、無罪であれば白い石を、人々に掲げ示す習慣がありました。つまり主イエスを信じる者にはこれらの祝福が約束され、だからこそ恐れず歩めと語られます。こうしてイエスこそ救い主・「鋭い両刃の剣を持つお方」だと明示されました。鋭い刃は、人を殺すことも、又、人の身体を癒す医術には欠かせない力をも発揮します。主イエスこそ裁き主であると共に、死を招く罪(悪腫瘍)を鋭い刀によって切除できる唯一の救い主です。
このように、他の何ものにも代え難い食物
(霊の糧・マンナ)を先に受けた私たち教会は、喜びと感謝を携えて、いかなる時代や状況においても「この世はみな神の世界」と告白し、霊の糧を分かち合う者として共に歩みましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-04-29 14:34:42 (184 ヒット)

黙示録2章8〜11節“イエスとは何者か”。これが新約聖書全体のテーマで、黙示録はどの書簡よりもイエスこそ、“神であり主。アルファ(最初)でありオメガ(終わり)である”と開示し宣言します。
復活の主イエスは、スミルナの教会に、彼らが苦難と貧しさに置かれながら、信仰を保っていることに慰労の言葉をかけます。他の6つの教会に対するような叱責の言葉がここには、一言もありません。しかし、彼らが、この世の現状のみに目を向けることなく、天の国の視点で生きることを勧めこう語ります。「だが、本当はあなたは豊かなのだ(2:9)」と。“豊かさ”とは、金銭物質的に裕福な状態よりも、信仰に富み、御国を相続する者とされている(ヤコブ2:5)状態を指し、その人の人生(命)、いや永遠のいのちを大きく左右すると語ります。主イエスはこの視点に立って生きるようにと、公生涯で繰り返し語られ、教えられました(ルカ16:19ラザロと金持ち、19:1ザアカイ等)。当時、スミルナや諸教会が直面している時代状況はローマ帝国による迫害の只中に置かれていました。「受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない(2:10)」と、当時の異教の教えや倫理観に妥協し、追従することなく、福音に固く立ち、恐れず宣べ伝え続けるように語りかけられたのです。なぜなら、この悪の時代と間違った人生観や価値観は長続きしないことを主イエスは知っておられたからでした。しかし同時に「死に至るまで忠実であれ、そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」と今も、また死を越えた先にある“いのち”が、いかに素晴らしい祝福であるかを示されたのです。
最後に、「勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない(2:11)」と力強く宣言されました。第一の死とは、地上の肉体の死を意味しますが、“第二の死”とは、イエスが再び来られ、全ての悪を裁き滅ぼされる永遠の滅び(21:8他)のことです。主イエスがなぜ、黙示録の著者に現れ、諸教会に語りかけられたのか、その目的がここにも示されます。それは、正に「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため(ヨハ福3:16)」との言葉を実現するためでした。
この世で称される“人生の勝利者”と、神の国での呼び方には大きな違いがあります。「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか(ヨハ手一5:5)」とある通り、真の勝利者とは、主イエスが共におられるから、自分の力で頑張る必要がないことを信じ、平安を得て歩む人のことです。「忠実」であるとは、自分が頑張って努力する信仰ではなく、いかなる時においてもイエスが私たちを守りお支えくださることを信じることです。十字架の上で真の愛と信仰を示し、死と悪に勝利された主イエスに全幅の信頼を託し、最後まで共に歩み続ける教会とされて参りましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-04-23 14:32:44 (190 ヒット)

黙示録2章1〜7節
「ヨハネの黙示録」は、当時アジア州に存在した7つの教会への復活の主イエスからのメッセージとして書き留められました。これら主からの語りかけは、場所、時代を越え、これから世界中に存在しようとしている諸教会で抱える同じ課題をどう乗り越えるか、解決の秘訣がちりばめられています。著者ヨハネは、主イエスがそれぞれの教会に対し三つのポイントに分け、「励まし・賛辞の言葉」、次に「叱咤激励」、最後には「希望」を語りかけたことを記しました。7回シリーズ最初は、エフェソ教会宛ての主の言葉です。当時、この町では皇帝と共に女神アルテミスを礼拝する有名な神殿のある環境において、主に喜ばれる信仰を貫いた教会の群れに対し、励ましと賛辞が語られます。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており…、私の名のために我慢し、疲れ果てることがなかった(黙2:2-3)」と。詩編には主こそ「…すべてを知っておられる(139:2)」と告白されている通りのお方が主イエスだからです。
 けれども次に主イエスは、「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻り、悔い改めよ(2:4-6)」と厳しい言葉で諭されました。グサリと心に刺さる言葉ですが、神に愛される人々が本来の姿に立ち返って生きることができると主が信じて語られたのです。主もかつて繰り返し「はっきり言っておく」と語り、真理と救いの確かさを伝えられたように、神に立ち返り、全てが空しく無駄とならないようにと、臆せずに語られたのです。
 最後に、エフェソ教会に「耳ある者は、“(聖)霊”が諸教会に告げることを聞け。勝利を得る者には、神の楽園にある命の実を食べさせよう(4:7)」と語られました。創世記にアダムとエバが、神の掟に背き、罪を犯し、全てが備えられたエデンの園より追い出され、「命の木に至る道」から遠ざけられたと記されています(3:22-24)。しかし、神の御子イエスがこの世に来られ、ご自分の命をもって人間の罪を担い赦し、永遠の命に至る道を開かれたのです。主イエスが「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる…(ヨハネ11:25)」と宣言された通りです。この主の愛を再び思い起こし、その愛に立ち返って生きる教会とされるため、主イエスはヨハネを通して再び語られたのです。なぜなら私たちの「いのち」が、この地上で、また天の御国においても、本当の意味で輝く者とされるために。ここまでして、課題多き地上の教会が「世の光」として輝き続けるために天に帰られた主イエスの愛がこの「黙示録」に溢れています。聖書の御言葉でさえ悪用(乱用・誤用)する時代にあっても、私たちが恐れず神の愛を輝かせる教会、そして幼稚園とされますように共に祈りましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-04-16 13:58:42 (160 ヒット)

ルカよる福音書5章17〜26節
今、日本では多くの人が人生の救いを求めています。心の渇望を求めています。孤独を感じて、寂しい気持ちで生活している人が大勢おります。本当は心から救いを叫んでいるのですが、それがどこにあるのか見出せません。いつも心の中で真実のまことの救いを求めて探しております。ある日本人牧師が、言いました。「私の説教は、常に「潮干狩り説教」になるように努めています」。それは初めて教会に来た人が、説教の中で一つでもその人の心に残るような御言葉を語りたい。そうでないと、その人は教会に失望してそのまま帰ることになる。もし家族が潮干狩りに出かけ、一生懸命、一日中、貝を探しても、何も見つからないで帰るとしたら、泥んこにまみれ、くたびれ果てて、家に帰っても夕食のおかずさえない。だから、あさりでも、しじみでも、ハマグリでも、小さな貝でも、カニでも、何でもいいから、来た人全員がそれを一つでも採って家に帰れるように「潮干狩り説教」を心がけているということです。今日は、この説教の中にはたくさんの聖書の御言葉がありますので、是非、一つでも自分のものにして、家に帰られることをお勧めします。生きた神様があなたに一番大事なイエスからの救い、神からの恵みの奇跡を与えてくれるでしょう。
なぜなら聖書の御言葉は2000年間、「救いを与えます」と語り続け、この御言葉によってどれだけ多くの人々に救いをもたらしましたでしょうか。また多くの人々の奇跡を起こしたでしょうか。イエスに出会った人々の人生が変えられたのです。

今朝のルカ福音書5章に記されている「中風の人がイエスの御言葉によって癒される」というお話は、マタイ、マルコにも、3つの共観福音書に書かれておりますが、とても印象的なイエスの癒しの業であったに違いありません。この中風の男の人にはまず救いが必要でした。そしてイエスには病を癒す力があったので多くの人々がその評判を聞きイエスの所へ「救いを求めて」来ました。場所はガリラヤ湖のカファルナウムという町でした。しかもユダヤ、ガリラヤ、エルサレムからイスラエル全土からファリサイ派の人々、律法学者まで押し寄せて来ました。でも彼らは「救いを求めて来た」のではなく、一体、このイエスの成している奇跡の業を見たいと思ったのです。そこに四人の男たちが中風の病人を床ごと運んでイエスの所に駆けつけました。家の周り中は人々に囲まれ、その狭い入口から家に入ることができません。しかしこの四人の男の人たちはこの状況をみて諦めませんでした。家の屋根に上り、その屋根に穴をあけ、そこからその中風の男の人をつり降ろそうとしたのです。この四人の男には、中風の男の人の病が癒されるためにこの病人を運ぶ使命がありました。そしてその中風の人もイエス様には私の病を癒してくれるという信仰がありました。ここに万難を排して、「イエスに救いを求める」姿勢が貫かれています。 


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