< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2018-01-25 11:18:48 (108 ヒット)

ルカによる福音書11章1〜4節
 「祈り」はどう定義されるでしょう。一般に、「人間の願いを神(超越者)へ伝えること」とです。しかし聖書は私たちへまず「神に聴くこと」、そして「神との対話」だと教えます。主が少年サムエルを呼ばれた時、サムエルは初めそれが主だと分からず、祭司エリの元へ行きました。すると三度目にエリは、主がサムエルを呼ばれたと悟り、伝えました。「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております』と」(サムエル上3:9)。こうしてサムエルは主からの語りかけを聞き、エリに主の言葉を伝えました。果たして私たちも、主からの語りかけに耳を傾け、対話ができているでしょうか。
 主イエスご自身が「神の言」として、この地上へ来られ、語りかけられたとき、多くの人々はそのことに気づきませんでした。その中で弟子たちはイエスに「祈りを教えてください」と尋ねると主は、「祈るときには、こう言いなさい」と今日私たちが祈る「主の祈り」を教えられました(ルカ11:2-4)。主の祈りは大きく二つに分けられます。前半は神を「父」と呼び、御心を知るために「耳を傾ける祈り」です。後半は、私たち自身に必要な人生の糧を、臆せず「神に求める祈り」です。やはりここでも、まず神に聴くことが出発点となります。日本語翻訳は「神に“聞く”」が使われていますが、「聴く」がより意味を表し(「聞く」は自然と耳に入り、「聴く」は自ら積極的に耳を傾けること)、そのためには『黙想(沈黙)の祈り』が求められます。
 パウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる(ローマ10:17)」と語りました。初めは心から耳を傾けていなくても、自然と入ってきた神の言葉が、私たちの内面、魂に届き、その後、自ら「傾聴」する者へと変えられていくことを思う時、自分の言葉で祈るよりも、『御言葉による祈り』をする者へと導かれていきます。「人前で祈ることは苦手です」と言われる方は、自らの言葉で祈る限界を知っている方でもあります。ですから、主イエスが教えられた、「主の祈り」を自らの祈りとして、かつ聖書の御言葉を引用し、恐れずに祈って良いのです。
 私たちの内面にある、恐れや不安、感謝と希望などどのような感情や願望さえも神の前に祈りとして言語化することが許されているのは大きな祝福です(創世24:15)。まだ同時に、神は私たちの言葉に出来ない祈りさえも聞いてくださる(詩編139:4)、お方であることに驚きと感動を覚えます。
 全ての人が神に祈り求める欲求がある(詩42:2)からこそ、主イエスが語られた「わたしの家は、すべての国の人の“祈りの家”と呼ばれる(マルコ11:17)」と御言葉は語りかけます。と当時に、それぞれの場所で祈れる恵み(マタイ18:20、コリ一3:16)をも私たちは知らされていることは大いなる祝福です。共に聴き、共に祈りましょう。

「呼ばれています いつも。聞こえていますか
  いつも。遥かな遠い声だから。良い耳を、
   良い耳を 持たなければ。」             
     (カトリック礼典聖歌409)


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-01-22 15:14:14 (101 ヒット)

箴言16章1〜7節
 年頭にあたり、誰もがこの一年をどう歩むかを思い描きます。聖書は私たちの長い人生そのものに夢とビジョン(幻)を描くことを祝福します。「幻なき民は滅ぶ(文語:箴言29:18)」と語られる、その真意はなんでしょうか。
 まず聖書が語る『夢』と『幻』の違いを確認します。『夢』には就寝時、無意識に見るもの、神が働いて見せられる夢などに加え、意識しつつ将来叶って欲しいと願う夢があります。『幻』には、実在しないものが蜃気楼のような自然現象によって見え、はかなく消え去る幻とは別に、神の御心に沿って、神ご自身が立てられる計画と信じ、教会で共有する事柄を“ビジョン”と呼び、使い分けます。夢とビジョンとの違い。それは、夢は私たちが自分自身のため、また隣人のために実現させたいと願う良きもので、かつてキング牧師が差別に対し非暴力で打ち勝ち、平和が実現することを願って「私には夢がある…」と語った出来事は有名です。ビジョンとは、自分のために願うのではなく、神が私たちに求めておられることを聖書や聖霊の働きによって示され、個人ではなく、共同体で共有し、祈り、関わっていくものです。ですから、神の民として生かされている私たちは、主なる神(父・子・聖霊)が与えられる『ビジョン』とは何かを、常に確認し、歩むことが求められます。最たる神のビジョンが表わされているのが「主の祈り」で、「願わくは…み国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように」との言葉に全てが集約されています。
 「あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ(16:3)」とは、私たちがこの人生で願い行うこと全てを、まず主に委ねる、つまり“私が”ではなく、“神が”何を求めておられるかを第一として生きようとするなら、主なる神が最善へと導いて下さると宣言されます。ですから更に9節にある「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる(口語:しかし、その歩みを導く者は主である)」との御言葉が私たちに生きる力と平安を与える力強い神のメッセージとして響くのです。
 今、常盤台教会は主より与えられたビジョンを共有しています。それは、“「主なる神を礼拝し」、「主なる神を深く知り」、「それぞれの賜物を活かして主に仕える」とき、キリスト者が喜びと平安に満ち溢れ、この教会へと神が更に人々をお送り下さり、救いの喜びに預かり、全世界に仕えるキリストの弟子として派遣される”と。だからこそ私たちは、これまでの働き(年間の活動・プログラム)とキリストの体(執事会・各会など教会組織)を省み、生きて働く主のご計画に相応しい道を歩むため、「変える勇気と、変えられないものを受け入れる平安を与えてください」と祈るのです。私の夢は、「この東武東上線で命を絶つ方が一人もでないためにこの教会を用いて下さい」と、特に祈り求める年頭となりました。皆さんと共に主が与えられるビジョンと夢とを分かち合える教会を、ここ常盤台に立てられた主に心から感謝します。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-12-31 10:26:02 (200 ヒット)

詩編9章2節 
聖書には繰り返し「神への感謝」が語られます。9篇は詩編の中に記された「感謝の詩編」と呼ばれる最初のもので、10篇と合わせて書かれました。ここで「心を尽くして主に感謝をささげ(よう)」、との呼びかけは、神への感謝を覚えながら、感謝を表明すことの少ない私たちにとって、見えない手で肩をポンと叩かれ、前に押し出されるような御言葉です。特に「心を尽くして」の『心(レーブ)』とは、人の心の移ろいやすい感情的側面ではなく、決断や悟りを基として人間の自主的、行動的な心の動きを表したヘブル語が用いられています。つまり、感謝できることだけを感謝するのでなく、感謝できないことさえ、神にあって祝福に変えられると信じる信仰に基づいて「感謝をささげよう」と勧められます。
 更に、続く「(神の)驚くべき御業をすべて語り伝えよう」との御言葉は、時を越え、神のして下さったことへの感謝を自分の中だけに留めず、隣人と分かち合うことが勧められます。特に旧約における神の民が語り伝えた出来事、奴隷の苦役から解放された出エジプトの出来事を覚える「過越しの祭り」で、その日がユダヤの民とって新年として今も祝われ続けています。
新約聖書に目を向けると、主イエスが、五つのパンと二匹の魚を、多くの人々と分かち合う奇跡が行われる直前(マタイ15:36)、そして弟子たちと過越しの食事の最中(最後の晩餐)に杯(赦しの象徴)を分かち合う直前(マタイ26:27)、共に「感謝の祈りを唱えた」と証しされます。ここにも主イエスが、祝福を受けたから感謝するのでなく、まず神を信頼し、感謝を奉げる信仰姿勢が神の祝福を引き出すと証しされています。
 新しい年を迎えるあたり、今年最後の日に、今年の恵みを主に感謝する礼拝を奉げつつ、更に先取りして、来年の感謝を主に奉げられるこの時は実に祝福されています。「私もこのように生きたい」と願う、パウロにある御言葉をどのような時にも思い起こしたいと願います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケ一5:16-18)。
 日々、主に感謝を奉げると共に、隣人、家族、そして教会の兄弟姉妹にも感謝を分かち合う時、それぞれの関係性は間違いなく祝福に満ちたものへと変えられます。これからも、主なる神がして下さった全ての恵みの業に対して、心を尽くして感謝し、分かち合って参りましょう。感謝する人の周りには、感謝が尽きることがないからです。
 今年一年の常盤台教会に連なる皆さんお一人お一人の信仰にある貴い福音宣教の業に心より感謝致します。

「不思議です 不思議です 今なお生かされて
   いることが 悲しみや 苦しみを耐えてこられた
    ことが 主の信仰をたもちこられたことが 
     天のお父様に ただ感謝するのみです」
   
        (水野源三「瞬きの詩人」)


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-12-25 15:32:28 (152 ヒット)

マタイによる福音書2章13〜23節
 「悲嘆(グリーフ)」とは、死別、離別、転居などによって引き起こされる、全人的苦痛、深い悲しみを表す言葉です。救い主イエスの誕生を心から喜び祝う東方から来た占星術の学者たちと対照的に、後に続くマタイの記事には、命を狙われ、故郷を追われてエジプトへ逃避行せざるを得なかった幼子イエスの両親の悲嘆。更に王に逆らい、黙って自分たちの国へと帰っていった学者たちに怒りを覚えたヘロデ王により、ベツレヘムとその一帯に住む二歳以下の男児たちが殺害され、悲嘆にくれる家族の姿が描かれています。
 「悲嘆」を二つに区分すると、一つは、自然災害など、人間の手に及ばない出来事を通し、また戦争のように人間の罪や愚かさによって起こされ、二度と経験したくないと感じる悲嘆です。避けられるなら避けられる方法を生み出したいと願い、これらの体験を通して私たちは悲しみを忘れることなく、安全と平和を構築する使命を新たにさせられます。そうして、神にしか与えられない慰めを祈り求めていくことに人は目覚めるのです。悪に満ちたヘロデによる幼児殺害の悲嘆はこれに属します。
もう一つの悲嘆とは、確かにその時には辛く大きな痛みを伴いますが、その先に神の祝福が備えられていると信じ、乗り越える希望を伴うものです。つまり、たとえ人間によって引き起こされた悲しみでさえも含め、神は、災いではなく、将来と希望を与えてくださるお方だと信仰によって受け止められる悲嘆です。
東方の学者たちが携えていた三つの宝物には様々な議論があります。通常は救い主に献げるために故郷から携えてきたと解釈されます。しかし一説では、旅路を共にする大勢の人々に必要とされた彼らの自身の財産を、救い主・幼子イエスとの出会いによって、喜びに満たされ、神に突き動かされて、計画にはなかった財宝をイエスに献げたとするものです。実はこれが後に貧しき主イエスの家族が、エジプトへ逃れる旅路と滞在の生活の糧として用いられ、守られていったからです。主に従い、歩もうとする時、辛い別れや痛みを伴うことがあります。しかし、「主の山に備えあり(創世22:14)」との御言葉が真実であったように、悲嘆を通り抜けなければ体験し得ないこともあるからです。
後にヨセフらが、エジプト逃避行を思い起した時、主の天使が前もって夢に現れ、語りかけられた体験(マタイ1:20‐21)があったからこそ、その後、様々な悲嘆を受けとめ、イエスを通して用意された救いの計画と祝福に目を留め、乗り越える力とされたのです。十字架と死を担い、復活による永遠の命を与える計画を担うためにお生まれ下さった主イエスの誕生を感謝し、私たちの持つ宝物を主に奉げて参りましょう。


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