< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2007-02-18 16:45:00 (1882 ヒット)

2.18主暦2007No.2975
使徒言行録5章33節〜42節
松村誠一



 使徒言行録はイエス様の昇天後、聖霊が降り、福音が全世界へと伝えられていくその出来事が記されている書物です。
 ルカによる福音書の最後に復活されたイエス様が弟子たちに現われ「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい。」(ルカ24:49)と命じております。その命令を守って都に留まっていた弟子たちの群れに聖霊が降り、聖霊に押し出され、ペトロを始め弟子たちはまずエルサレムにおいて福音を語りだします。続き
 福音を語る弟子たちに何が起こるかは自明のことであります。それはイエス様を十字架に追いやった人々による迫害であります。弟子たちもイエス様同様に捕らえられ殺害されそうになりますが、律法学者のガマリエルによって難を逃れます。
 しかし、弟子たちは、大変危険な場所エルサレムから離れ去ることなく、福音を語ることを止めませんでした。
 エルサレムで弟子たちが大胆に福音を語ったがゆえに福音はまたたく間に全世界へと伝えられていくことになります。弟子たちの命をかけての証言がなければ、福音は全世界へと宣べ伝えられなかったでしょう。
 証人という言葉はmartusと言うギリシャ語が使われています。英語のmartyr(殉教者)はこの証人、marutus に由来しております。
 ペトロそして弟子たちはまさに殉教を覚悟の上でイエス様の十字架の死と復活、そしてその死は罪ある人間のあがないの死であることの証人として立てられ、証言していきました。
 命(人間の実存、全存在)をかけなければ伝えることができないことがあります。信仰もその類に入ります。信仰は「教えて」伝わるものではありません。  
 私たちキリスト者も弟子たちと同様に、イエス様の十字架と復活の証人として立てられているのです。私たちも、私たちの実存をかけてキリストの証人となっていくことが求められているのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2007-02-11 06:48:00 (2148 ヒット)

週報2.11主暦2007No.2974
エフェソ1:15〜23
佐野芳朗



 本日2月11日は、「建国記念の日」。建国をしのび、国を愛する心を養う、国民の祝日とした、日です。戦前の紀元節をこの日に当てたものです。紀元節は明治5年に天皇国家の正当性を示すもとして、祝日に定めました。
一方、この日を「信教の自由を守る日」として守る教会、学校もあり、問題のある日です。続き
国際的には世界各国において、外交儀礼としても、「国の日」として設けられています。  
アメリカ独立記念日、フランス革命記念日、中国共産党政権の日、などです。
わが国の歴史と深く関わりのある韓国、北朝鮮、アジアの近隣諸国はどうであろうか。  
建国記念日を定めるとなると、多くの問題がおこってきます。隣国との話し合いと平和な関係を大切にしつつ、国民にとっても、隣国にとっても受け入れられる祝日でなければなりません。
私たちは、日本国民であるという現実を踏まえながら、「わが故郷は天にあり」と、キリストを信じる者として、神の国に属して生きるとは、どういうことなのか、その意味を考えたいと思います。
聖書は、エフェソの信徒への手紙1章20節で、まず、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせた」と語っています。死者とは、罪のゆえに死んだ者を意味します。キリストはこの人間の罪を克服された、ということであります。
さらに、「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも、崇められる」と書かれています。
神は、キリストを、これらの力の上において、まことの主として下さる、というのです。
わたしたちの、最もより頼みうるお方になって下さったのであります。
しかも、今の世ばかりでなく、来るべき世でも、崇められるというのです。さらに、神は、すべてを足もとに従わせ、キリストをすべての上の頭として、教会に与えられました。
キリストが、また、すべてのものの上にあり、これを支配するのであります。


投稿者 : admin 投稿日時: 2007-02-04 07:03:00 (2044 ヒット)

2.4主暦2007No.2973
マタイによる福音書18章21節〜35節
渡部信

 今日の日本において、夫が妻を、妻が夫を、親が子供を、子供が親を兄が妹を殺してしまうという身近な周りの人々の中でおかしなことが起こっております。それは学校でも、仕事場でもいじめや、憎しみ、敵意という形で人と人の関係がゆがんでいるからです。「あの人は絶対に赦せない」。こういう人間関係は、むしろ心を許してきた親戚、家族、昔からの友人、仲間、はたまた教会の中で一番起こりやすいのです。それは刑法ではとりしまることができない心の奥底の問題であり、人間の根源的な罪の部分に触れるからです。まさにイエス様はそのような罪のために、犯罪者としてではなく、パリサイ人、祭司たちのしっとと妬み、敵意によって十字架の苦しみを引き受け、それらの罪に対して自ら完全な赦しを告げられたのです。続き
 マタイ18章にはこの問題を一つのたとえ話しを通して語られています。「赦された恵み」は「人々を赦す恵み」に変えられなければならないことをそこで教えています。私たちは一生涯かかっても返せない罪を何度も繰り返し、それでも神様は全て赦してくださいました。その恵みに与った一人の王様の家来は一歩外に出ると、少しの借金をしている友人の首をつかんで、借金の猶予を願う彼を絶対に赦さず、牢屋にぶち込んでしまったのです。それを見た仲間は王様(神様)に告げました。王様はその話を聞いて怒り、その家来を全部、借金を払うまで彼を牢屋に入れるように命じられたのです。つまり、この家来は自分の不寛容によって王様の寛大な「赦しの恵み」を帳消しにしてしまったのです。
 憎しみや復讐心、敵意は相手より以上に、自分自身の人生を損なう力を持っています。それは罪の恐ろしい力であり、サタンの策略であり、そこから救うためにイエス様はご自身を十字架につけてまで、私たちに罪の赦しを宣告され、人々を愛するようにと命じられました。もし、神様の正義が本当に保たれることを願うなら、それは神様に任せるべき問題です。そして善をもって悪に勝つ。私たちはこの問題を一度は真剣に考え、クリアしなければならない問題なのです。


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