< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-07-29 16:08:00 (2084 ヒット)

7.29主暦2007No.2998
使徒言行録 11章19〜26節
シンガポール宣教師 岡村直子
主の御名を讃美します。日本バプテスト連盟の宣教師としてシンガポールに派遣されて3年たちました。連盟に連なる諸教会の皆さんのお祈りや献金のご支援をいただいて、かの地での福音伝道生活が支えられていることを心より感謝しています。
 連盟は327もの教会・伝道所からなる大所帯ですので、帰国しても全部の教会・伝道所を回ることができませんので、「バプテスト誌」や女性連合の「世の光」などの機関紙に時々、報告を送らせていただいています。なかなか、顔と顔を合わせてということができない状況ですけれども、顔と顔を合わせてということは大きな意味を持っていますね。互いの存在を身近に見て、雰囲気や臭いを感じて、という具体的なことが祈りへとつながっていくと思わされます。
 先月、ある方々が宣教師としての私を歓迎し、ねぎらうために個人的に食事に招いてくださったときのことですが、私は生まれて初めて味噌汁のお椀をひっくり返して味噌汁をひっかぶるという粗相をいたしました。初めて共に食事をする方々だったので、無意識の緊張のうちに手がすべってしまったのでしょう。招いてくださった方々もびっくりし、私も大変恥ずかしい思いをしました。味噌汁が飛び散る被害は他の人には及ばなかったので感謝したことでしたけれども、お互いにやっぱり長く忘れないことだろうと思います。祈るときにあのそそっかしい岡村直子宣教師が守られますようにという祈りへと主は導いて祈りの援護をしてくださるでしょう。
 互いに心をこめて祈りあう、という関係は大変大事だと私たちは知っています。今日の箇所から、パウロの場合を見てまいりたいと思います。シンガポールに3年住み、宣教師として見えてきたこと、思うこと、祈りの課題やこれからのビジョンなど、共有できたら幸いです。主の御名が崇められますように。

岡村直子先生のプロフィール
1950年 東京都出身
1972年 青山学院大学卒
1975年 米テキサス州ヒューストン、サウスメインバプテスト教会にて受洗
1991年 西南学院神学部専攻科卒
1991年4月〜1995年4月
      福岡国際キリスト教会副牧師
1995年4月〜2003年12月31日
      同教会牧師
2004年4月
      シンガポール宣教師としてシンガポール国際日本語教会牧師に就任
      現在に至る。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-07-21 14:06:44 (1805 ヒット)

7.22主暦2007No.2997
コリントの信徒への手紙一 1章18〜31節
教会主事 林健一


「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリント機1:18)
 教会は、十字架の言葉を2000年間変わることなく語ってきました。なぜなら十字架こそが、神様そのものを語っているからです。宗教改革者マルチン・ルターは次のような言葉を残しました。「十字架だけが私たちの神学」であると十字架をとおしてでなければ神様を見ることはできないということです。
 2000年間、人々は神様はどこにいるのかという問いをし続けています。神様がいるならば、どうしてこの世界には戦争や飢饉や災害があるのか。どうして何の罪もない人々が苦しまなければならないのか。旧約聖書に登場してくる人物、ヨブやハバククなど神様はどこにおられるのかいう問いをしています。
 神様は一体どこにおられるのでしょうか?聖書は私たちに語ります。十字架にはりつけにされたイエス・キリストこそが神様であり、十字架で苦しまれたこの御方こそが、神様であると聖書は私たちに答えているのです。苦しみにあるイエス・キリストが神様であることを私たちに示されたのです。
 十字架は私たちに救いのメッセージを語ります。十字架につけられたイエス・キリストは死に渡されましたが父なる神様はこの御方を甦らされました。この御方を信じることによって私たちの罪は贖われ救われるのです。
 十字架につけられたイエス・キリストをとおして神様の力、知恵を見ることができるとパウロはコリント教会の人々に向けて語りました。
 この世の知恵によって神を知ることはできないし、救われる道を見い出すこともできないのです。私はさまざまな道、知恵
哲学をとおして自分の救いを得ようとしましたが、どれも私を救うことはできませんでした。
 十字架につけられたイエス・キリストだけが私を救いに導き、新しい人生の扉を開いてくれたのです。
 
 


 


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-07-14 16:45:36 (1630 ヒット)

7.15主暦2007No.2996
マルコによる福音書4章35〜41節
佐野 芳朗

「しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」。私たちの生涯の三分の一は眠っている。では、眠りとはどういう意味があるか。これを中心に考えてみたい。
 イエスさまの生涯は大変でした。日々群集に囲まれ、一寸の暇、休みもない生活。病める者の病を癒し、悪霊を追い出す。群衆はますます増え、押し寄せてくる。こういう生活を想像しますと、イエスさまも人間としてこの世に来られた。私たちと違わない、渇きもされ、疲れもされ、われわれ人間が持つ弱さをそのまま持っておられた。ですから群集を残して向こう岸へ行かれたとあるのは、憩いの時を与えられると、舟に乗り込まれた。群集は他の舟を用意して追いかけてくる。ところが、イエス自身は艫の方で枕をし、眠っておられる。
 イエスさまの寝姿、想像しただけでもたまらないものがあります。疲れがどれほどか。
 神に選ばれたイエスさまでも肉体を持っておられる。肉体は弱いもの、心も霊も疲れる。

 この疲れるということが、私たちの生活にとって考えさせられる事柄です。
「主は愛する者に眠りをお与えになる」(詩篇127篇2節)。
 私たちは何のために働くのですか。食べるためか。確かにそうです。「働かざる者食べるべからず」。働くことによって食べられる。
 しかし、よく考えてみますと、自分の働きによって得た衣食住に養われているのか。
 それとも、私たちを養う方が別にあるのか。
私たちを本当に生かし養われるのは主ご自身です。主ご自身が食べるもの、着る物、住まうところを私たちに与えて下さる。しかし、私たちがこの父なる神を忘れたならば、どうなるでしょうか。嵐の中の舟の中で、イエスさまと一緒にいた弟子たちに一つのことが起こりました。弟子たちの不信仰であります。
 この時、イエスさまが共にいてくださるから、大丈夫だという最初から持っていたはずの信仰が、そのまま進んで行ったかと言うと、そうではない。弟子たちは「先生わたしたちがおぼれてもかまわないですか」と言ったと、あります。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-07-06 18:15:53 (1652 ヒット)

7.8主暦2007No.2995
ルカによる福音書15章11〜32節
児玉振作 協力牧師


 ルカによる福音書15章には、自ら犯した罪のために、神のもとから追放された人間に対して、神様が如何に心を尽くして呼び求め、帰ってくることを願い、その努力を惜しまれないばかりか、再び身もとに帰ってきたときの神様の喜びが、3つのたとえ話によって記されています。
 この3つのたとえ話の中で、最後の「放蕩息子」の物語は、神様の私たちへの愛が、そのまま示されているようで、大きな感動を覚えます。神様のもとを離れた人間の惨めさ、其れはまともの人間ではありません。そんな人間に対する神様の愛は、この父親の姿の中に示されます。そして自らを悔い改めて神のもとに帰らなければならない私たち達の姿をも示されます。
 もう一人の息子は、父のもとに何不自由なく生活していました。神様の愛をいっぱい受けて生活していたのです。ですから、この愛になれてしまい、自分がどんなに大きな愛を受けて今の生活があるかを忘れてしまっていたのです。何か私たちの頃の信仰生活を見るような思いに駆られるのです。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-06-29 09:59:53 (1709 ヒット)

7.1主暦2007No.2994
創世記15:1〜21
渡部信 協力牧師


聖書によると神様は創造された人間、私たちに対して祝福の約束をされました。私たち一人びとりが祝福されることにより、神様がそれを喜び、私たちも神様の栄光をほめたたえるために他なりません。そしてまず、アダムとエバを祝福されました。エデンの園では何の不自由もない生活がありました。しかし、その祝福の源である神様との関係を、アダムとエバが損ねたので、ついにエデンの園を追われ、彼らの人生は呪われたものとなりました。そして、罪が全人類に及び、神様は義人、ノアとその家族、そして箱舟に入った動物以外の生き物を滅ぼすことを決心されて大洪水を起こされました。けれども人間は生まれながら罪を犯すものであることを知って、2度と大洪水で滅ぼすことをしないことを虹のしるしをもって救いを約束されました。そして偶像礼拝をしている民の中から信仰の人、アブラハムを選び出し、彼の子孫から神様の民を選ぶことをアブラハムに約束するのです。
 アブラハムはその祝福の約束を信じて行き先の分からない旅にでました。何回も何回もその祝福の約束を確認しながら旅を続けたのですが、80歳になっても子供が与えられず、ついに子孫を持つことは不可能に思えたのです。
 そこで人間的な思いで、側めを通して子供を得ます。しかし神様は信仰によってアブラハムとサラの間に子供が与えられることを告げます。彼らは、神様の約束を「笑いました」「ご冗談でしょう。そのようなことは不可能ですよ」。アブラハムは神様を信じても、その約束ごとはもはや冗談としか思えなかったのです。
 けれどもアブラハムが100歳になった時イサクが生まれ、その冗談が本当に成就したのです。こうして彼はユダヤ人の祖先となりました。しかし、側めから生まれた子からはアラブ人の祖先となり、今日まで2つの民族の間でその争いは続いています。
 神様は更に、アブラハムの信仰を試すためにそのイサクを神様に捧げるように命じられました。こんな矛盾した命令はありません。彼の祝福の約束を奪い取る命令です。アブラハムの信仰は「主が与え、主が取られる、主の御名はほむべきかな」(ヨブ記)のように神様をまったく信頼し服従した時に、代わりの雄羊(イエス様)が用意され、アブラハムは豊かに祝福を得たのです。私たちは、アブラハムの信仰の歩みを学ぶとき、信仰の奥は深く、どんなに歳をとっても、不可能に思えても最後の最後まで、神様がその約束を成就されようとしていることを知るのです。


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