< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-07-21 14:06:44 (1887 ヒット)

7.22主暦2007No.2997
コリントの信徒への手紙一 1章18〜31節
教会主事 林健一


「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリント機1:18)
 教会は、十字架の言葉を2000年間変わることなく語ってきました。なぜなら十字架こそが、神様そのものを語っているからです。宗教改革者マルチン・ルターは次のような言葉を残しました。「十字架だけが私たちの神学」であると十字架をとおしてでなければ神様を見ることはできないということです。
 2000年間、人々は神様はどこにいるのかという問いをし続けています。神様がいるならば、どうしてこの世界には戦争や飢饉や災害があるのか。どうして何の罪もない人々が苦しまなければならないのか。旧約聖書に登場してくる人物、ヨブやハバククなど神様はどこにおられるのかいう問いをしています。
 神様は一体どこにおられるのでしょうか?聖書は私たちに語ります。十字架にはりつけにされたイエス・キリストこそが神様であり、十字架で苦しまれたこの御方こそが、神様であると聖書は私たちに答えているのです。苦しみにあるイエス・キリストが神様であることを私たちに示されたのです。
 十字架は私たちに救いのメッセージを語ります。十字架につけられたイエス・キリストは死に渡されましたが父なる神様はこの御方を甦らされました。この御方を信じることによって私たちの罪は贖われ救われるのです。
 十字架につけられたイエス・キリストをとおして神様の力、知恵を見ることができるとパウロはコリント教会の人々に向けて語りました。
 この世の知恵によって神を知ることはできないし、救われる道を見い出すこともできないのです。私はさまざまな道、知恵
哲学をとおして自分の救いを得ようとしましたが、どれも私を救うことはできませんでした。
 十字架につけられたイエス・キリストだけが私を救いに導き、新しい人生の扉を開いてくれたのです。
 
 


 


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-07-14 16:45:36 (1747 ヒット)

7.15主暦2007No.2996
マルコによる福音書4章35〜41節
佐野 芳朗

「しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」。私たちの生涯の三分の一は眠っている。では、眠りとはどういう意味があるか。これを中心に考えてみたい。
 イエスさまの生涯は大変でした。日々群集に囲まれ、一寸の暇、休みもない生活。病める者の病を癒し、悪霊を追い出す。群衆はますます増え、押し寄せてくる。こういう生活を想像しますと、イエスさまも人間としてこの世に来られた。私たちと違わない、渇きもされ、疲れもされ、われわれ人間が持つ弱さをそのまま持っておられた。ですから群集を残して向こう岸へ行かれたとあるのは、憩いの時を与えられると、舟に乗り込まれた。群集は他の舟を用意して追いかけてくる。ところが、イエス自身は艫の方で枕をし、眠っておられる。
 イエスさまの寝姿、想像しただけでもたまらないものがあります。疲れがどれほどか。
 神に選ばれたイエスさまでも肉体を持っておられる。肉体は弱いもの、心も霊も疲れる。

 この疲れるということが、私たちの生活にとって考えさせられる事柄です。
「主は愛する者に眠りをお与えになる」(詩篇127篇2節)。
 私たちは何のために働くのですか。食べるためか。確かにそうです。「働かざる者食べるべからず」。働くことによって食べられる。
 しかし、よく考えてみますと、自分の働きによって得た衣食住に養われているのか。
 それとも、私たちを養う方が別にあるのか。
私たちを本当に生かし養われるのは主ご自身です。主ご自身が食べるもの、着る物、住まうところを私たちに与えて下さる。しかし、私たちがこの父なる神を忘れたならば、どうなるでしょうか。嵐の中の舟の中で、イエスさまと一緒にいた弟子たちに一つのことが起こりました。弟子たちの不信仰であります。
 この時、イエスさまが共にいてくださるから、大丈夫だという最初から持っていたはずの信仰が、そのまま進んで行ったかと言うと、そうではない。弟子たちは「先生わたしたちがおぼれてもかまわないですか」と言ったと、あります。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-07-06 18:15:53 (1726 ヒット)

7.8主暦2007No.2995
ルカによる福音書15章11〜32節
児玉振作 協力牧師


 ルカによる福音書15章には、自ら犯した罪のために、神のもとから追放された人間に対して、神様が如何に心を尽くして呼び求め、帰ってくることを願い、その努力を惜しまれないばかりか、再び身もとに帰ってきたときの神様の喜びが、3つのたとえ話によって記されています。
 この3つのたとえ話の中で、最後の「放蕩息子」の物語は、神様の私たちへの愛が、そのまま示されているようで、大きな感動を覚えます。神様のもとを離れた人間の惨めさ、其れはまともの人間ではありません。そんな人間に対する神様の愛は、この父親の姿の中に示されます。そして自らを悔い改めて神のもとに帰らなければならない私たち達の姿をも示されます。
 もう一人の息子は、父のもとに何不自由なく生活していました。神様の愛をいっぱい受けて生活していたのです。ですから、この愛になれてしまい、自分がどんなに大きな愛を受けて今の生活があるかを忘れてしまっていたのです。何か私たちの頃の信仰生活を見るような思いに駆られるのです。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-06-29 09:59:53 (1825 ヒット)

7.1主暦2007No.2994
創世記15:1〜21
渡部信 協力牧師


聖書によると神様は創造された人間、私たちに対して祝福の約束をされました。私たち一人びとりが祝福されることにより、神様がそれを喜び、私たちも神様の栄光をほめたたえるために他なりません。そしてまず、アダムとエバを祝福されました。エデンの園では何の不自由もない生活がありました。しかし、その祝福の源である神様との関係を、アダムとエバが損ねたので、ついにエデンの園を追われ、彼らの人生は呪われたものとなりました。そして、罪が全人類に及び、神様は義人、ノアとその家族、そして箱舟に入った動物以外の生き物を滅ぼすことを決心されて大洪水を起こされました。けれども人間は生まれながら罪を犯すものであることを知って、2度と大洪水で滅ぼすことをしないことを虹のしるしをもって救いを約束されました。そして偶像礼拝をしている民の中から信仰の人、アブラハムを選び出し、彼の子孫から神様の民を選ぶことをアブラハムに約束するのです。
 アブラハムはその祝福の約束を信じて行き先の分からない旅にでました。何回も何回もその祝福の約束を確認しながら旅を続けたのですが、80歳になっても子供が与えられず、ついに子孫を持つことは不可能に思えたのです。
 そこで人間的な思いで、側めを通して子供を得ます。しかし神様は信仰によってアブラハムとサラの間に子供が与えられることを告げます。彼らは、神様の約束を「笑いました」「ご冗談でしょう。そのようなことは不可能ですよ」。アブラハムは神様を信じても、その約束ごとはもはや冗談としか思えなかったのです。
 けれどもアブラハムが100歳になった時イサクが生まれ、その冗談が本当に成就したのです。こうして彼はユダヤ人の祖先となりました。しかし、側めから生まれた子からはアラブ人の祖先となり、今日まで2つの民族の間でその争いは続いています。
 神様は更に、アブラハムの信仰を試すためにそのイサクを神様に捧げるように命じられました。こんな矛盾した命令はありません。彼の祝福の約束を奪い取る命令です。アブラハムの信仰は「主が与え、主が取られる、主の御名はほむべきかな」(ヨブ記)のように神様をまったく信頼し服従した時に、代わりの雄羊(イエス様)が用意され、アブラハムは豊かに祝福を得たのです。私たちは、アブラハムの信仰の歩みを学ぶとき、信仰の奥は深く、どんなに歳をとっても、不可能に思えても最後の最後まで、神様がその約束を成就されようとしていることを知るのです。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-06-21 19:47:43 (2312 ヒット)

6.23主暦2007No.2993
フィリピの信徒への手紙3:4〜11
朴 思郁牧師(茗荷谷キリスト教会)

  
 黒沢明監督の「生きる」という映画があります。その映画の主人公は、市役所の市民課長として、30年間無欠勤で勤め上げていた人です。彼は、書類の山に囲まれ、判子を押すだけの日々を30年も過ごしてきたのです。しかし、ある日、自ら胃ガンに冒され、余命の少ないことを悟ったとき、彼は、初めて“生きる”とは何かを掴んでいくという物語です。彼にとっては、市役所の課長としての30年間の人生より、余命の6ヵ月間、信念を貫いて住民のために公園を作るという行動を通して“生きた”のです。
 使徒パウロは、自分の人生を二つに分けて紹介しています。ダマスコの途上にて復活されたキリストに出会うまでの人生と、キリストに出会ってからの人生です。彼のキリストに出会うまでの人生は、出身、学問、社会的な地位、宗教的な熱心さなど、あらゆる面で、皆に認められる、いわゆる出世街道をまっしぐらに進む人生でした。
 しかし、彼の人生において、劇的な転機が訪れます。クリスチャンを迫害するために、ダマスコへ行く途中で、復活されたキリストに出会うのです。この出来事によって彼の人生は180度、変えられたのです。
 使徒パウロは、キリストとの出会いによって、自分の人生に起きた変化について、「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに、損失と見なすようになった」(フィリピ3:7)といいます。ここで、見なすというのは、実は、何も変わっていないという意味です。つまり、使徒パウロがキリストに出会ってからも、客観的な状況は何の変わりもない。しかし、それらを受け止める見方が変わったという意味なのです。パウロは、その見直す基準を、「キリストのゆえに」といいます。見なすというのは、キリストのゆえに、あらゆるものを相対的に見ることができるということなのです。
 キリストを中心とした生き方で、自分の人生を見つめ直すとき、私たちは、今までの人生とは違う「豊かな人生を生きる」ことができるのです。


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