< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2007-04-08 20:21:03 (2084 ヒット)

音声メッセージ、大変おまたせいたしました。

  • 讃美 おおイエスよみがえりて グレースアンサンブル

  • 讃美 もしもキリストがこられたら 有銘千津子

  • 讃美 墓の中にいと低く 聖歌隊

  • メッセージ 死の力を打ち破る 渡部 信


  • 今週の週報巻頭言はありません。


    投稿者 : admin 投稿日時: 2007-04-01 10:02:31 (1973 ヒット)

    4.1主暦2007No.2981
    マタイ27:45-56
    渡部信

    ※ メッセージの録音はただいま編集中です。しばらくお待ちください。 :haha:

     キリストは今から2000年前に、今のイスラエルのエルサレム郊外で十字架にかかり、私たちのために死んでくださいました。それは何故でしょうか。聖書の中から3つの意味を考えてみたいと思います。第1に、それは罪への裁きでした。十字架刑は罪人に対するこらしめの刑です。だからイエス様の他に2人の強盗人が一緒に十字架にかけられました。何故、イエス様は罪が無いのに罪人と一緒にされたのでしょうか。それは目に見えないところで働く罪の力を完全に断罪するためでした。私たちも聖なる神様の前には、罪ある者です。犯罪人だけではなく、私たちの内にある罪をも断罪するために罪の無い方が罪の裁きを受けて下さったのです。そして神の正義が全うされたのです。
     第2に、それは罪に対する赦しの十字架でした。イエス様が代わりに罪の裁きを受けられるので、「天の父なる神様よ、どうぞ彼らの罪をお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からないのです」と十字架上で祈られました。私がみな罪の裁きを受けますので、知らずに罪を犯している彼らの罪をお赦し下さい、こう祈られたのです。もしこのとりなしがなかったら、私たちも同じように全ての罪が赦されるために十字架にかからなければならなかったでしょう。
     第3に、それは神様の愛が示された十字架でした。イエス様が罪の裁きを受けられ、私たちの罪の赦しを祈られたことの中に、神様の愛が示されています。罪ある私たちをどうにかして救われようとしている神様の愛です。イエス様が十字架にかけられ死んでくださった愛の出来事の中には、罪によって死ぬべき私たちが新しく生きるという全く反対の出来事が起こっているのです。それゆえ、イエス様の十字架は救いの十字架、新しい命の十字架、天国への十字架なのです。しかし愚かな人にはこの十字架の意味が隠されてしまいました。そして現代にもこの十字架の贖いを否定する人がいます。それは人の知識ではなく、聖霊によらなければ理解されることのない福音のミステリーなのです。


    投稿者 : admin 投稿日時: 2007-03-25 07:39:00 (2021 ヒット)

    3.25主暦2006No.2980 
    フィリピの信徒への手紙4章4節〜7節
    谷本久美子

     
    今日の聖書のみ言葉の箇所はパウロというイエス・キリストの弟子が、三度に亘って伝道旅行をした間に建てたマケドニア、現在のギリシャのフイリピの教会の信徒へ宛てた「獄中書簡」といわれる手紙の中の箇所です。迫害の中、捕われの身にも拘わらず彼は「喜び」に満ちた言葉で綴っています。
     パウロは嘗てユダヤ教徒でした。しかも厳しい掟の学びをした優秀な律法学者でした。使徒言行録の9章1節にはキリスト教徒を厳しく迫害していた様子が伺えます。口語訳聖書ではこの「意気込んで、」と言う所を「サウロ(当時のパウロの呼び名)は「...なおも迫害の息を弾ませながら」と記しています。そのパウロが復活のイエス・キリストに出会い、これまでキリスト教徒を迫害していたところから一転して、今度はイエス・キリストの教えを大胆に伝える者とされました。この箇所の3節からはその後のパウロの劇的な回心の様子が詳しく書かれています。       
     人の立てた計画は結果が考えていた通りにもなる事もあるし、ならない事もある、つまり確かではありませんが、旧約聖書詩編の記者は「主の企てはとこしえに立ち御心の計らいは代々に続く」(詩篇33篇11節)と謳っています。
     来週は4月1日が2007年度最初の主日になります。社会的にはこの4月1日から新しい年度になり、立てた計画が実現するように歩み始めます。私達の教会でも祈りつつ立てられたマスタープランに沿って歩み始めます。このマスターと言う言葉には、一般的には中心、根幹、と言う意味がありますが、私達常盤台教会のプラン、計画は更にマスターであられる主イエス・キリストのご計画という大切な意味があると考えます。   
     先に立って歩まれるイエス・キリストを信じ、詩篇の作者ダビデが謳い上げたように「命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追って」下さり、「主の家に私は帰り生涯そこにとどまる」ことを信じて新しい年度も神様のご計画に従って歩んで行きたいと祈るものです。


    投稿者 : admin 投稿日時: 2007-03-18 14:21:27 (2027 ヒット)

    3.18主暦2007No.2979
    ルカ22:24〜30
    藤川昌也



    イエスの使徒たちは過越の祝いの食事の時に「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論が始まっていました。「誰がいちばん偉いだろうか」というのは、自分で自分を偉いと決めるのではなくて、誰がこの中で偉く見えるかという問いではないでしょうか。それは何よりも主イエスが自分を偉い者と見てくださっているかどうかということが、第一の関心であったと思います。また使徒たちは相互にどう評価し合っているかということでもあったと思います。いずれにせよ自分が誰よりも偉く見えるか、見えないか。結局そのことが関心をひくことであったのです。自分たちのうちの誰が偉いかと言ったとき、自分は除いておいて、使徒のペテロか、ヨハネか、他の使徒であろうかという議論をしたのではなく、結局は、この自分がどう見られているかを問うていたのです。使徒たちは、それにしか関心がなかったのです。そういう議論が主イエスの使徒の中で最後まで続いていました。
    この「偉い」という言葉には、もともとは「大きい」という意味の言葉だそうです。誰が大きいか。大きさを比べているのです。この、大きさを比べる、あるいは大きさを比べ続けて大きくなろうとするのは、はたからみれば、情けないほど醜いことかもしれません。
    使徒たちは自分を偉く、大きく見てくれるかどうかということでしかなかった。いわば偉さを好む、大きさを好むのが悪魔のつけこむ隙だとイエスは言われます。大切なのは、大きいか大きくないかということ、しかも見てくれのことではなくて、信じているか、信じていないかということだけです。信じて生きているか、信じることができないままで生きているかということです。そのことを、大きさばかりを追い求めて生きるということと、どんな関わりがあるのか、よく考えてみるがよいと。そして、私たちに偉さを好む、大きさを好むのがサタンのつけこむ隙だと言われているのです。
    イエスは、人に力を与えるために今生きているのです。そのために私たちのために祈り続けていてくださるのです。


    投稿者 : admin 投稿日時: 2007-03-11 12:09:59 (2027 ヒット)

    3.11主暦2007No.2978 
    ルカによる福音書12章4節〜5節
    米澤範宣
     


     この世の中には沢山の恐れや不安があります。お金や経済の問題にしても、人間関係の問題にしても、心や病の癒しにしても、一度解決したからといってそれで永久に終りではなく、押し寄せる波のように、次から次へと襲って来ます。いろいろな問題に対して、そのつど立ち向かっていかなければなりません。人生というものは、恐れとの戦いであると言っても過言ではありません。 
     ありとあらゆる恐れが存在する世の中にあって、クリスチャンは恐れるべき方を恐れているなら、他に恐れるものはないとイエスは言われました。本当に恐れなければならないものを恐れていれば、他の全ての恐れはなくなるというのです。 
     私たちの周りには、恐れる必要のないものを恐れて人生を送っている人がなんと多いことでしょう。自分の人生がわからないから手相を見てもらったり、星占いに頼ったりして、迷いながら生きていかなければならないのです。しかし、神を信じ、イエス・キリストを信じている私たちは、聖書にある素晴らしいみ言葉によって、何を恐れなければならないか、何を恐れてはいけないか、はっきりさせて大胆に生きることが出来ます。
     イエス・キリストは、苦しみと痛みと悲しみの生涯を送られました。考えられないような多くの苦しみを背負い、そしてその最後は十字架の上での死でした。私たちは悲嘆や苦しみの中にあるとき、他の人と比較します。しかしどんなに悲観的に見たとしても、その苦しみなどイエスの経験されたことと比べようもありません。だから恐れること、不安がることはないと言われるのです。 
     私たちの人生は、喜びから悲しみまで、誕生から死に至るまで全部ご存知である神様のご計画の中にあります。神様を信じて生きている私たちの人生に、もしどんな苦しみが来たとしても、またそういう問題に会い絶望のふちに立たされることがあっても、私たちの導き手であり、救い主であるイエス・キリストの苦しみを超えることは絶対にありません。そしてイエス・キリストに従い、その支配下にあるとき、私たちをその苦しみから解放されるように助け導いてくださいます。ですからそのみ手の中で生きるクリスチャンは、何も恐れる必要はないのです。


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