< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-09-07 10:19:32 (2409 ヒット)

9.9主暦2007No.3004
ヨハネによる福音書 18章1〜27節
平野一男

敬老の祝い 
 ヨハネによる福音書の第18章は「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、ギドロンの谷の向こうへ出て行かれた。」と始まります。イエス様を捕らえるため、ユダは一隊の兵士と、祭司長やファリサイ派の遣わした下役たちを引き連れてやってきました。イエス様は御自分の身に起ることを何もかも知っておられました。「だれを捜しているのか。」「ナザレのイエスだ」「わたしである」イエス様は自ら進み出ていかれるのです。捕らえられ大祭司アンナスのもと連れて行かれるイエス様ですが、イエス様の方に主導権があるのです。イエス様は「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と言われました。ここには、わたしたち人間を罪から救おうとして先立つ神様の愛が示されているのです。
大祭司アンナスはイエス様に弟子のことや教えについて尋ねました。イエス様は「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつもユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜわたしを尋問するのか。」と堂々とお答えになりました。ペトロはイエス様の後を追ってきて、大祭司の中庭に入り審問の様子を伺っていました。彼は「あなたもあの人の弟子ではないか」と問われますが「違う」と三度否認してしまいます。かつてペトロは“わたしはあなたについて行きます、あなたのためなら命を捨てます”といったのですが、主は「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われました。その予告どおりになってしまったのです。
ペトロはイエス様を愛していました。しかし彼はイエス様を裏切ってしまう。そんな深い罪を犯したペトロに対しても、復活したイエス様は、あなたはわたしを愛しているか、と近づいてくださったのです。どんなに深い罪を犯してもイエス様はわたしたちを愛してくださっているのです。どこまで深く広く高い愛でしょうか。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-09-01 15:52:11 (1776 ヒット)

9.2主暦2007No.3003
ヨハネによる福音書 13章1〜11節
渡部信協力牧師

 

イエス様は最後の晩餐の席上で、これが最後の食事となることを思い弟子たちをこよなく愛されました。そして席から立ち上がり、手ぬぐいを腰にまき、弟子たちの足を洗いはじめたのです。家に入る時、はきものを脱ぎ、足を洗うのは通常、僕の仕事でした。恐らく、そこには誰も僕たるものがなく、足を洗うことなく食事の席についたのでしょう。この直前までは、弟子たちは誰が一番偉いのかということを論争していたので、そこまで気をつかう弟子はおりませんでした。
そこでイエス様は一人ひとりの弟子の足を洗い、一番弟子のペテロの番になりますと、ペテロは恐縮のあまり、「私の足を決して洗わないでください」と申し出ました。そうするとイエス様は「もしわたしが、あなたの足を洗わないと私と何のかかわりもなくなる」と仰いました。これを聞いたペテロはそれは大変と思い、「それでは足のほかに頭や手も洗ってください」と言ったのです。ペテロはイエス様の語る意味を本当に理解していませんでした。彼は自分の「分からずにある罪」の存在が分からなかったのです。
私たちは自分の罪が見えないために、分からずにある罪の存在に気がつかないのです。ペテロは自分は他のものが逃げ去ろうとも、死までイエス様に従うことを誓いました。しかしイエス様は、ペテロに、あなたの信仰がなくならないように祈ってあげようと言われたのです。ペテロは自分が思っていたほどの人間でないことを後で悟り、イエス様の十字架の死の後、その分からずにある罪を知ったのです。
私たちは気づく罪と、気づかない罪があります。そして気づかない罪ほどやっかいなものはありません。だから、常に自分には分からずにある罪があることを自覚して、「イエス様、どうぞ私の足を洗ってください」と喜んで神様の差し出す申し出を信じて受け入れるのです。私には足を洗ってもらうことは恐縮だ、足を洗ってもらわなくとも大丈夫だと思う人ほど、イエス様からの恵みを台無しにしているのです。
バプテスマを受ける水はたくさんあります。わたしたちに注がれる聖霊も無限にあります。神様はどんなに祈っても応えるのに無限な恵みを持っています。この話はイエス様の謙虚さの話ではなく、私たちがその差し出された愛に、もっと謙虚になれるかという教えなのです。

今日のひとこま

今日はバプテスマが与えられ、
祝福と喜びに包まれた礼拝となりました。
礼拝後、小羊会への入会式が行われました。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-08-24 19:22:11 (2306 ヒット)

8.26主暦2007No.3002
出エジプト記 13章21〜22節
谷本久美子

旧約聖書の最初の書の「創世記」に続いて「出エジプト記」というモーセという偉大な指導者が登場する書があります。
 紀元前14世紀から13世紀頃になりますがその「出エジプト記」には当時のエジプトの王が,自分の領土内に寄留しているイスラエルの人々が増え続ける事を怖れて、迫害をしていたことが記されています。モーセは生まれると直ぐこの王の命令で命を落とす所だったのですが、モーセはレビ人の母親の手によってパピルスで編んだ籠に入れられ,ナイル川の葦の茂みみの中に置かれました。そして様子を見ていると丁度そこで水浴びをしようとして来たエジプトの王女によって助け出され、育てられる事になりました。
 けれども成長する間に自分がイスラエル人である事を知り、エジプト人に打たれている同胞の民を見て、そのエジプト人を殺してしまいます。彼は追求を怖れてアラビア半島へ逃れ、そこで羊を飼っていました。
 ある日、シナイ半島へ羊を追いながら行った時「神の山」といわれるシナイ山で、燃えているのに燃え尽きない柴を不思議に思って近寄って見ているときに、神からのみ声を聞きます。
 それは「エジプトからイスラエルの民を連れ出しなさい」というみ言葉でした。あまりの大役にモーセは拒みますが、「私が先に立って導く」という神のみ言葉を信じて,エジプトから女、子供を数に入れずに約60万人のイスラエルの人々を率いて脱出をいたします。エジプトからシナイ半島へ渡るとき「葦の海」を通らねばなりませんでしたが、神は夜もすがら強い東風をもって海を押し返されたので海は乾き、エジプトの軍勢から逃れ、民は渡り切ることが出来ました。それからも荒野に導かれた彼らの前には幾多の困難が待ち受けていましたが、神が常に先立たれ「昼は雲の柱,夜は火の柱」となって、まどろまれる事無く民を守り導かれました。
 人生にはこの渡らなければならない「葦の海」があったり、「荒野」にさまよう事がありますが、神は常にモーセのように神を信じて歩む者を守られます。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-08-17 07:35:14 (1946 ヒット)

8.19主暦2007No.3001
コリントの信徒への手紙一 13章1〜13節
教会主事 林健一


『小さいことは自由、大きいことは一致して、すべてに愛をもって』
この言葉は、私たちキリスト教会が求める姿であり忘れてはならない言葉です。
 私たちは罪から救われて神の家族となり常盤台バプテスト教会に導かれました。私たちはそれぞれの人生の歩みのなかで、共に神さまを礼拝する者として呼び集められました。私たちはお互いに違いはありますが神さまを礼拝する者として一つにされたのであります。
 『すべてに愛をもって』これはキリスト者としてとても大切なことです。伝道するとき、奉仕をするときあるいはお互いの交わりのなかにおいて愛をもつことが大切であるということです。けれどもこの愛は私たち人間のもつ愛ではありません。愛という言葉を聞いたときに私たちは躊躇します。それは私たちの中には愛がないことをよく知っているからでしょう。それゆえに私たちは
すべてに愛をもつことが不可能であると考えるのです。
 しかし、ここでパウロが言っている愛は人間の愛ではありません。主イエス・キリストの愛であります。神さまの愛であります。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:9)
主イエス・キリストの愛をもつことによって、私たちのなかに初めて『すべてに愛をもって』が実現されていくのです。主イエス・キリストの愛をとおして私たちは愛することの喜び、すばらしさを知っていくのです。
 忘れてはいけないのは、主イエス・キリストの愛によって私たちは新しく生かされる者となりました。カリスマこれは賜物という意味です。私たちを生かす最大のカリスマ・賜物として父なる神さまは主イエス・キリストをお与えくださいました。主イエス・キリストの愛は私たちを生かす最大のカリスマ・賜物なのです。この賜物によって私たちは生かされていくのです。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-08-12 12:56:38 (2127 ヒット)

8.12主暦2007No.3000
コロサイの信徒への手紙 3章18〜24節
渡部信協力牧師


 私たちは1週間に1度、教会に集まり礼拝の時を持ち、交わります。しかし、それ以外の6日間はどのように過ごしているでしょうか。また過ごすべきなのでしょうか。
 信仰とはまず、神様と私の関係なのですが、私たちは1週間の生活の中で、一緒に住む周囲の人々との関係も無視できません。それぞれが、違った立場を持って過ごしています。子供の立場、親の立場、夫の立場、妻の立場、嫁、婿の立場、上司や部下の立場、友達との関係などです。そこで今日の聖書のメッセージは「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。そのことが、あなたがたは、キリストに仕えているのである」といみ言葉に注目したいと思います。
 私たちは肉の思いの生活をしていますから、相手を肉の人としてみています。わがままな夫、口答えする妻、頑固な父、口やかましい母、言うことを聞かない子供、いじわるなしゅうめ、ひねくれた嫁、けちん坊な親戚、身勝手な友達・・・・などなど。そう思うと時に、イエス・キリストを主として信じている私たちには、その相手を肉の人としてではなく、主イエス様だと思って使えることができるなら、そこに神の国が訪れるのです。
 使徒パウロは具体的に、親はどのように、子供はどのように、妻はどのように、夫はどうのように振舞うべきかを聖書の中で語りました。その根幹には、家庭の中心にそれぞれが主イエス様に仕えるように振舞うように教えているのです。またそれは友達関係に、仕事の上司や部下との関係にも応用できます。この主イエス様に仕えるように仕えることは、
そこに真の和解と平安、平和と喜びをお互いの関係の中に築くことになります。そしてそこに主の御名が賛美され証されるのです。


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