< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-05-27 18:26:48 (1972 ヒット)

5.27主暦2007No.2989
ローマの信徒への手紙14:7〜9
藤川昌也


人間は美しいものを見、きれいな衣服を着、美しいものを聞く、またおいしいものを味わうのに、それぞれ感覚を与えられています。すなわち人生を楽しむなど、神の恵みを受けています。従って、見ること、聞くこと、味わうこと、楽しむこと自体が悪いことではありません。
 しかし、ここで少し聖書をとおして考えることがあります。それは、人生は神のものと言う聖書の示す人生観と、唯自分の人生を、自分の為に、エンジョイすることとは果たして矛盾しないだろうか、という問題です。言い換えれば自己中心の人生観か、神中心の人生観かです。
 使徒パウロはこの点について、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14章7〜8節)と言っています。これはまことに徹底した「人生は神のもの」と言うキリスト者の信仰です。この人生観から出発して「食べるにも、食べないにもすべて神の栄光を現すように」する暮らしの立て方が生まれて来るのです。そして人生を設計する人にとっても正しい信仰に基づいた判断ができるようになるのではないでしょうか。
 私たちにとって「主のために」ということは、自分が主のものである。それを感謝し続けているということです。そこで主の恵みは現れるのです。
 旧約聖書の出エジプト記に、モーセは、「どうか主がわたしたちのうちにあって一緒に行ってください」と祈りました。主なる神がいつも一緒にいてくださるという確信に根ざす祈りです。主のために生きるというのは、私たちはいつも主と共に生きるということが言えるでしょう。教会生活、社会生活、また家庭生活を通じて常に神第一が問われています。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-05-20 18:44:39 (1896 ヒット)

5.20主暦2007No.2988
使徒言行録4:1〜14
郷 秀男


 「唯(ただ)一つ(ひとつ)の道」       
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
                 使途言行録 4章12節
これ以上、大胆に語る救いの言葉はありません。
イエス様の十字架と復活の出来事をとおして、ペトロたち弟子たちは復活されたイエス様に出会い、ようやくイエス様がどのような方であったか理解出来たのです。
十字架に架けられたイエス様は「神に呪われた者」ではなくて、その正反対にイエス様こそが神の子キリストであったとの確信は受難と復活を信じる信仰と同時に、預言者によって預言されてすべてのユダヤの人々が待ち望んでいた終末の救いが必ず実現すると言う信仰が与えられたからです。復活後の出来事を弟子たちはつぶさに見つめて、地上で宣教活動されていたイエス様との交わりを想い起こすことにより初めて理解することが出来たのでありましょう。
ペトロはハッキリと大胆に言います。
私たちを本当に救いに導く事の出来る権威のある方は、その方はただひとり、イエス・キリストであると言い切ります。時代を超えて世界を越えて誰であってもイエス・キリストの名による以外に救われる道はなく、イエス・キリストの名によってこそ救いに至る唯一つの道なのです。
私は教えていただきました。
だから教会は幸せな場所なのだと。


投稿者 : admin 投稿日時: 2007-05-13 10:33:44 (2016 ヒット)

5.13主暦2007No.2987
マタイ13:1−13
渡部 信 牧師


 イエス様は弟子たちに「種まき」のたとえを話されました。それは道端にまかれた種、石地にまかれた種、いばらにまかれた種、良い畑にまかれた種です。昔は、今のように畑が区画ごとに耕され、種も順序よくまかれることはありませんでした。手で大雑把に種をつかみ、まくのですから、道端に落ちる種、石地に落ちる種、いばらに落ちる種もあったことでしょう。問題は良く耕された畑に落ちなければ種は何十倍もの実を結ぶことはないということでした。それをイエス様は、私たちが福音のみ言葉を耳にした時に、その態度に照らし合わせてこのたとえ話をされたのです。
 この話を聞いた誰もが、意味を理解したわけではありません。イエス様は弟子たちにその意味を後で説明しました。福音を耳にしてもすぐそのみ言葉がサタンによって取り去られてしまう人、自我が強く福音を素直に聞かず跳ね飛ばしてしまう人、福音聞いても、世の富や、欲、願望が強く、福音の恵みが失われてしまう人、そして、福音を聞き、良く悟り、従うなら、その人はその恵みを何十倍にもするというのです。
 この話を聞くと、私はどれだろうと先ず思います。しかし、これは4種類の人の場合を考えるより、私たちはむしろ最初の3段階を経験した後、最後に「整えられた畑に」になり、何十倍もの恵みを結ぶ祝福が約束されていると理解した方が現実的でしょう。
 あなたがもし、今、何十倍もの豊かな実を結ぶことができないなら、結ぶようになるために、畑を整理しなくてはなりません。先ず、畑の場所を確保し、自我とい
う石を砕き、余計な物事を整理し、そしてみ言葉を聴く時間と心を供えることです。でもこれは実際に実行しようとすると難しいことです。そこで、農夫なる神様、イエス様によって手入れをしてもらい、「整えられた畑」にしてもらうことです。私たちのクリスチャン生活が豊かな実を結ぶ人生へと挑戦してみようではありませんか。


投稿者 : admin 投稿日時: 2007-05-06 10:31:17 (1818 ヒット)

5.6主暦2007No.2986
マタイ7:24−29
児玉振作
 何を土台として生きるか、このことは  人間としては申すまでもないことですが、クリスチャンとしては特に大切なことです。なぜなら教会員一人一人の信仰の基盤が、同時に教会のよって立たすところとなるからです。
 ここでイエス様は、岩を土台とした家を建てた賢い人と、砂を土台として家を建てた愚かな人とを例にしてお話になっています。わかりきった当然なお話ですが、知らず知らずの間に、愚かにも砂の上に家を建てようとする愚かな行動に走ってしまうことはめずらしいことではないのです。それは私たちの内なる罪の結果です。聖書はこの原理について示されています。これから逃れる道も、岩なるイエス・キリストによらねばならないのです。
 岩なるイエス・キリストの上に立つとき、この誘惑からも逃れることができるのです。私たちの信仰はいつもこの岩なる、救い主イエス・キリストのもとに立ち、まったき信仰のもと御言葉に突き進むことです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2007-04-29 11:47:53 (2197 ヒット)

4.29 主暦2007No.2985
詩編16:8−11
篠 松次郎      

 詩篇は主イエスが生まれる前、長い期間を
かけて書かれた信仰の詩です。詩篇には私た
ちの心打たれる詩が多い。神への賛美、恵み
への感謝、あるいは嘆きや訴え等、神へ向け
飾りのない言葉で素直に自分の思いや感情を
ぶつけている。
本日の詩篇16編の聖句もその一つである。           「わたしは絶えず主に相対しています」、口語訳では「わたしは常に主をわたしの前に置く」、英語訳では「I am always aware of the         Lord’s presence」となっている。皆さんは主をどこに置いているでしょうか。「後ろに」置いている人は、いつも自分が先で、自分のために神がいて、神は自分を助けてくださる方に過ぎないという呼びかけだけの信仰になっている。「上に」置いている人は、神を奉って、神を生活の真ん中に迎えず、思いだけ、言葉だけの信仰になっている。「下に」置いている人は、日常生活に埋没して神のことを忘れている。ダビデはここで、神は私を導く方、私の従うべき方として、時々ではなく「絶えず」「常に」「主をわたしの前に置く」信仰の姿勢が大切だと言っています。
そうすれば「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います」。私たちが悩み、苦しみ、八方ふさがりになった時でも、唯一の道と癒しは、神に全き信頼と主権を置き、神に目を向けることである。このような信仰に立つ時、私たちは心の平安、完全な喜びを得ることができるのである。
そしてそうすることによって主は「命の道
を教えてくださいます。わたしは御顔を仰い
で満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜
びをいただきます」。私たちは日々、職場や家
庭で課せられた仕事を精一杯こなしているが、

自分が一体どちらに向かって歩いているかが
わかっていない。神に結ばれ他のどこでもな
く神の内にとどまっている者だけがこの「命
の道」を得ることができるのである。
「主をわたしの前に置く」時、私たちは「命の道」を示される。神の御子であるイエス・キリストに従う信仰を持つとき、私たちには永遠の命が与えられる。



 


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