< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2018-04-16 13:58:42 (40 ヒット)

ルカよる福音書5章17〜26節
今、日本では多くの人が人生の救いを求めています。心の渇望を求めています。孤独を感じて、寂しい気持ちで生活している人が大勢おります。本当は心から救いを叫んでいるのですが、それがどこにあるのか見出せません。いつも心の中で真実のまことの救いを求めて探しております。ある日本人牧師が、言いました。「私の説教は、常に「潮干狩り説教」になるように努めています」。それは初めて教会に来た人が、説教の中で一つでもその人の心に残るような御言葉を語りたい。そうでないと、その人は教会に失望してそのまま帰ることになる。もし家族が潮干狩りに出かけ、一生懸命、一日中、貝を探しても、何も見つからないで帰るとしたら、泥んこにまみれ、くたびれ果てて、家に帰っても夕食のおかずさえない。だから、あさりでも、しじみでも、ハマグリでも、小さな貝でも、カニでも、何でもいいから、来た人全員がそれを一つでも採って家に帰れるように「潮干狩り説教」を心がけているということです。今日は、この説教の中にはたくさんの聖書の御言葉がありますので、是非、一つでも自分のものにして、家に帰られることをお勧めします。生きた神様があなたに一番大事なイエスからの救い、神からの恵みの奇跡を与えてくれるでしょう。
なぜなら聖書の御言葉は2000年間、「救いを与えます」と語り続け、この御言葉によってどれだけ多くの人々に救いをもたらしましたでしょうか。また多くの人々の奇跡を起こしたでしょうか。イエスに出会った人々の人生が変えられたのです。

今朝のルカ福音書5章に記されている「中風の人がイエスの御言葉によって癒される」というお話は、マタイ、マルコにも、3つの共観福音書に書かれておりますが、とても印象的なイエスの癒しの業であったに違いありません。この中風の男の人にはまず救いが必要でした。そしてイエスには病を癒す力があったので多くの人々がその評判を聞きイエスの所へ「救いを求めて」来ました。場所はガリラヤ湖のカファルナウムという町でした。しかもユダヤ、ガリラヤ、エルサレムからイスラエル全土からファリサイ派の人々、律法学者まで押し寄せて来ました。でも彼らは「救いを求めて来た」のではなく、一体、このイエスの成している奇跡の業を見たいと思ったのです。そこに四人の男たちが中風の病人を床ごと運んでイエスの所に駆けつけました。家の周り中は人々に囲まれ、その狭い入口から家に入ることができません。しかしこの四人の男の人たちはこの状況をみて諦めませんでした。家の屋根に上り、その屋根に穴をあけ、そこからその中風の男の人をつり降ろそうとしたのです。この四人の男には、中風の男の人の病が癒されるためにこの病人を運ぶ使命がありました。そしてその中風の人もイエス様には私の病を癒してくれるという信仰がありました。ここに万難を排して、「イエスに救いを求める」姿勢が貫かれています。 


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-04-09 14:37:54 (123 ヒット)

ヨハネよる福音書20章24〜29節
 イースターの朝に復活されたイエス・キリストは、愛する弟子たち500人以上に、その復活の体を現されたと聖書は語ります(福音書, コリ15:3-8など)。しかしそんな中でも、キリストと直接相まみえることのできなかった人々のことも思わされます。トマスはその一人でした。彼は、他の弟子たちが「主を見た」(25節)と言う言葉に対して、「見…(省略)…なければ決して信じない」(同節)と語っています。ただそんな彼が、八日の後も弟子たちと一緒にいたということは、何を意味しているでしょうか。
 イエス・キリストの復活の出来事において、福音書記者のヨハネは「見る」ことと「信じる」こととの関係性を興味深く語っています。マグダラのマリアは、主イエスの体が墓から無くなっていたことを「見」ましたが、主が十字架に架かられる前に繰り返し語られていた復活を「信じ」ませんでした(1-2節)。ペテロともうひとりの弟子(おそらくヨハネ)もまた、墓とそこに残された亜麻布を「見」ましたが、彼らが「信じた」のは復活ではなく「主が墓から取り去られた」というマリアの言葉でした(8節)。愛する師を失ったその喪失感の中で、自らの命と未来への言い知れぬ不安の中で、彼らは目の前に立ち塞がる死を「見」つめながら、その絶対的な絶望を前にいきづまっていました。人々を恐れ、戸を固く閉ざし、息を潜めていた彼ら。その目も心も、固く閉ざされていたのです。
 そんな弟子たちのもとに、その真ん中に、復活のイエス・キリストは現れてくださったのです。彼らの閉ざされた目を、心を開かれるように。そこで初めて彼らは主を「見」、その復活を喜ぶ(信じる)ことができました(20節)。
弟子たちの中で、主に相まみえることができなかったトマス。同じものを「見る」ことができず、「信じる」ことができなかった彼の孤独は、イスカリオテのユダの孤独とも重なります。彼もまた、息の詰まるような思いで、弟子たちの輪の中にいました。そのトマスに、イエス・キリストは個人的に出会ってくださり、「信じない」と言いつつも、弟子たちと共に居続けた彼に、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と語ってくださいました。いきづまりの先に、主に相まみえることを「信じよう」とした、彼に対して、キリストは現れてくださったのです。
私たちも、いきづまりの中で、その先にある希望を「見」たいと切に願うものです。「見えないから信じられない」のか「信じられないから見えない」のか、見ることと信じることとは表裏一体です。しかし私たちは、主の励ましの言葉によって、「信じる者」になりたいと思います。主がこの私にも、直接出会ってくださることを信じて、希望をもって祈り続けたいと思います。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-04-02 15:48:23 (129 ヒット)

マタイによる福音書28章1〜15節
 去る受難週、聖書通読と祈りを通し、主イエスが歩まれたカルバリへの道(十字架の道行)を共々に辿って参りました。安息日を迎える前、慌てて葬られた主イエスの遺体を、週の初めの日(日曜)の朝早く、数名の婦人たちが確認しに行きました。すると、盗まれないようしっかりと封印され、厳重に見張られていたはず(マタイ27:62-66)の大きく重い墓石がわきへ転がされ、その上に主の天使が座っていたのです。その時、天使は大事なメッセージを婦人たちへ託しました。一つは「恐れるな、十字架につけられたイエスは、ここにはいない。<かねて言われていた通り(26:2)>復活なされた」。もう一つは「(イエスを捨てて逃げた)弟子たちのいる所へ行って告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより<先に>ガリラヤに行かれる。そして(弟子たちと共に主イエスに)そこでお目にかかれる』(28:7)」でした。これを聞いた婦人たちは恐れながらも、喜びを回復し、そのメッセージを伝えるため墓を立ち去ったのです。驚いたことに、復活された主イエスが更に婦人たちと出会って<行く手に立って>くださり、「おはよう【喜ぼう・平安あれ】」と言われ、婦人たちは主イエスの足を抱き、御前にひれ伏しました。その時、主イエスは天使の語った言葉に念を押すようにこう語ります。「恐れることはない。行って<わたしの>兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と。
 これらの記事は、主イエスが全てにおいて<先立って:神の愛によって>導いてくださるお方だとマタイは証ししたのです。確かに、主は <前もって>ご自分の十字架の死と復活を語り、弟子たちに心備えをするように言っておられました。にもかかわらず、弟子たちの心にその言葉は残っておらず、主が捕らえられた時、弟子たちは逃げ去ったのです。その様子を見た婦人たちは心を痛めたに違いありません。しかし主が現れ、「喜べ」と言われたことにより、彼らは主が復活された喜びと共に、散らされた弟子たちに、主は【彼らを見捨てない】【会いたいと願っている】ことを知らされた時、大いなる喜びが彼女たちに与えられたのです。
 主イエスが復活なされるまで、『死』とは全てを引き離す最大の悲嘆・不幸・終了を意味していました。しかし「この神は世々限りなくわたしたちの神、死を越えて、わたしたちを導いて行かれる(詩48:15)」と希望が語られたように、主イエスは正に、死を越えて、その先にある天の御国へと導く道筋を備えてくださったのです。
 今も、神の御言葉と聖霊により、主は全てに先立って私たちを導かれます。ガリラヤで弟子たちに語られた、最後の主の言葉が今も教会を導き続けます。「…だから、あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい。…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(28:18-20)」。
 私たちも、先に救われた喜びを感謝しつつ、人々を救いへ導く主の道であるなら、恐れず半歩先を、謙虚に歩きたいものです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-03-26 10:01:28 (177 ヒット)

ルカによる福音書23章44〜49節、ローマの信徒への手紙8章26〜30節
「主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせ(ゆだね)よ。信頼せよ…(詩編37:4-5)」「あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ(箴言16:3)」…など。聖書には、主なる神は、私たち一人一人との関係性において、信頼と希望に基づき、常に心が平安に満たされる(平常心を保てる)ように整えようと語りかけておられることに気づかされます。
「依存するdependent」と「委ねるentrust/surrender」との違いを知ることは大切です。依存とは、単に誰かに頼る以上に、相手を自分の思いのままにコントロールしようとする力が働きます。しかし、委ねる関係性は、自分の存在も、相手の存在をも正しく認識し、自分の領分(自分が担う責任)を担い、それができない時には恐れず助けを求め得る健全性を現します。ヘブル語で「ゆだねる(ガーラル)」は、(石などを)「転がす」という意味です。神さまを信頼して、自分一人で抱えずに不安や恐れを転がす体験を祈るたびにできるのは、何という恵みでしょうか。「私の全ての心配事を主に委ねます。どうしていいか分からなくても委ねます、あなたに(リビングプレイズ)」など、賛美することも祈りと同じ平安が私たちを包みこみます。
 今週は受難週で、聖金曜日と呼ばれる日に主イエスは十字架上での最後の言葉として、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます(ルカ23:46)」と大声で叫び、ご自身の“霊”を父なる神に帰されました。この姿は「神が人(アダム)に命の息<“霊”>を吹き入れた(創2:7)」ことに対して、また神にその霊をお返しする姿が証しされます。これはヨブ記で「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ(1:21)」との驚く程の徹底した神への信頼の姿と重なります。
 使徒パウロは祈りの素晴らしさ、神への信頼を、「ここまでですか!!」と驚くような言葉で告白しました。「…わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています(ローマ8:27-28)」。“霊”とは人の霊ではなく、神の“霊”が私たちの中に注がれていることをパウロは聖霊によって示されたのです。
「祈りの力」シリーズでは、祈りとは私たちの努力によって奉げること以上に、神が既に私たちのために祈ってくださっている恵み(執り成しの祈り)を分かち合いました。主イエスが示された素晴らしい愛の神への信頼が深められる時、おのずと祈る喜びが与えられ、他者のためにも、自分のためにも恐れず祈る力が溢れてくることを共に体験して参りましょう。
 


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-03-19 15:07:53 (177 ヒット)

ネヘミヤ記12章27節、ルカによる福音書17章11〜19節
 天地の造り主なる神に「感謝する」行為と言葉とが聖書に数多く記されています。アダムが息子たちと共に神へ献げ物をする記述を筆頭に、人生の節目において感謝を奉げ続けます。聖書が語る感謝の表明の方法には三つあります。第一に、献げ物を神に奉げ、第二に賛美を通して。そして第三に、祈りの言葉によってでした。旧約で「感謝の祈り」との記述は、ネヘミヤ記12章27節だけですが、詩編などには数多く、賛美、また祈りの言葉として神に奉げられ、今に至っています。
神への感謝の祈りの言葉は、個々人の信仰姿勢が表れます。第一に、感謝できることに感謝する信仰。第二に、感謝を先取りして、感謝する信仰。第三に、感謝出来ない事柄でさえも、感謝する信仰です。新約には、主イエスが、十字架にかけられる前夜、弟子たちと共に最後の晩餐を行い、その席で、「杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった(マルコ14:23)」と各福音書記者達は共に記します。ここでは主イエスが、これまでの歩みを神に感謝し、祈られたこと。次に、主ご自身が歩まれる十字架の苦しみによって救いが完成することを信じて先取りして感謝されたこと。そして、ゲッセマネにおける祈りのように、本当であればその苦しみを避けたいとの願いながら、受け入れ難い十字架の道さえも感謝し、祈られました。主イエスの信仰から私たちは実に多くを学びます。
ある日、重い皮膚病に苦しむ十人が、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げて助けを求めました。主イエスは彼らの求めに応え、癒しの道を開かれたのです。ところがその後、主イエスのもとへ感謝を表明するために戻ってきた人はたった一人でした。この九名の姿の中に私たちの姿を重ねてしまいます。なぜなら、困難や課題の最中にあるときは必至で助けを求めながら、問題が解消すると、感謝の気持ちさえも直ぐに薄れていくことが多々ある者だからです。人としてこの地上で歩まれた主イエスは、ご自分に感謝を現すことを求められたのではなく、癒しを与えられる父なる神への感謝の大切さを教えられたのです。「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか(ルカ17:18)」と語り、感謝するために帰ってきたこの人に、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と祝福を与えられました。主に感謝するために戻って来た一人の病人は、身体が癒されただけではなく、神と共に生きる魂の癒し(救い)に預かる者とされたのです。
“常に喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝せよ”と勧めたパウロは「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています(テサロニケ一1:2)」とも語りました。私たちも願わくは、主から、また周りの方々より受ける恵みに応答し、日々、感謝の祈りと賛美、そして献げ物を携え共に歩んで参りましょう。


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