< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2018-01-15 15:52:43 (76 ヒット)

詩編103篇1〜13節
「歌」というものは、私たちの心の底から生まれてくるものです。あふれる感動、喜び、感謝、時には嘆きや叫びが、言葉となり歌となってほとばしる。そして、それらを忘れず覚え続けるために、私たちは歌を歌い継いでいきます。そうして歌い継がれた歌は、時代を超えて、状況を超えて、私たちの心を再び震わせる歌としてよみがえります。
 賛美歌もまた、様々な時代を生きた信仰者たちの心の歌、信仰の歌であり、それぞれの人生の中で、人々が個人的に、また共に経験した神との出会い、そのあふれる感動が歌となって、歌い継がれているものです。私たちが賛美歌を口ずさむとき、そこに込められた神さまへの感動と信仰に自らの心を重ねる瞬間、その歌は私自身の歌として、私の心を震わせるでしょう。
 詩編に多くの歌を残したダビデもまた、人生の様々な出来事の中でそれらの歌を生み出しました。彼は103篇で、「わたしの魂よ、主をたたえよ」(1, 2節)と、自らの深みに向かって呼びかけるように歌っています。彼の内には、遠い昔、イスラエルの人々がエジプトから救いだされた時に歌われた歌が響いていました(出エジプト記15章)。時代を超えて歌い継がれてきた、その感謝の歌を思いながら(7節)、彼自身もいま、変わることのない神さまの偉大さと忍耐に、畏敬の念と、ふつふつと湧いてくるような感動を覚え、たまらずそれを口ずさんでいるのです。苦しみの中でも、病の中でも、老いの中でも、変わらず「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」(8節)。
「わたしの魂よ」、そんな「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」(2節)。そう歌いかける彼の歌に応えるように、彼の魂から信仰の歌が湧き出ます。「父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(13節)。
 私たちの日常にはそのような、ほとばしるような賛美の「歌」が、感動が、感謝があるでしょうか。私たちの歌う賛美歌は、祈る祈りは、自らの深みから、魂からあふれ出ているものでしょうか。過ぎゆく日常の中で、辛く苦しい出来事の中で、自分の限界を思い知らされる中で、かつて感じたあの溢れるような喜びや感謝を忘れてしまいそうになるときがあるかもしれません。そんなときでも変わることのない、神さまの憐れみと恵みへの感謝を、賛美の「歌」によって私自身の心の深み、魂に刻んでおきたいと思います。魂に刻みこまれたその感謝は、いつの日か再び賛美の「歌」によって呼び覚まされ(復活させられ)、湧き出る泉のようにほとばしるでしょう。ダビデが詩編によって伝えているそのメッセージに励まされながら、私たちも自らの魂に語りかけたい、歌いかけたいと思います。わたしの魂よ!

「主はわたしの力、わたしの歌」
出エジプト記15章2節


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-01-09 13:01:11 (64 ヒット)

箴言16章1〜7節
 年頭にあたり、誰もがこの一年をどう歩むかを思い描きます。聖書は私たちの長い人生そのものに夢とビジョン(幻)を描くことを祝福します。「幻なき民は滅ぶ(文語:箴言29:18)」と語られる、その真意はなんでしょうか。
 まず聖書が語る『夢』と『幻』の違いを確認します。『夢』には就寝時、無意識に見るもの、神が働いて見せられる夢などに加え、意識しつつ将来叶って欲しいと願う夢があります。『幻』には、実在しないものが蜃気楼のような自然現象によって見え、はかなく消え去る幻とは別に、神の御心に沿って、神ご自身が立てられる計画と信じ、教会で共有する事柄を“ビジョン”と呼び、使い分けます。夢とビジョンとの違い。それは、夢は私たちが自分自身のため、また隣人のために実現させたいと願う良きもので、かつてキング牧師が差別に対し非暴力で打ち勝ち、平和が実現することを願って「私には夢がある…」と語った出来事は有名です。ビジョンとは、自分のために願うのではなく、神が私たちに求めておられることを聖書や聖霊の働きによって示され、個人ではなく、共同体で共有し、祈り、関わっていくものです。ですから、神の民として生かされている私たちは、主なる神(父・子・聖霊)が与えられる『ビジョン』とは何かを、常に確認し、歩むことが求められます。最たる神のビジョンが表わされているのが「主の祈り」で、「願わくは…み国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように」との言葉に全てが集約されています。
 「あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ(16:3)」とは、私たちがこの人生で願い行うこと全てを、まず主に委ねる、つまり“私が”ではなく、“神が”何を求めておられるかを第一として生きようとするなら、主なる神が最善へと導いて下さると宣言されます。ですから更に9節にある「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる(口語:しかし、その歩みを導く者は主である)」との御言葉が私たちに生きる力と平安を与える力強い神のメッセージとして響くのです。
 今、常盤台教会は主より与えられたビジョンを共有しています。それは、“「主なる神を礼拝し」、「主なる神を深く知り」、「それぞれの賜物を活かして主に仕える」とき、キリスト者が喜びと平安に満ち溢れ、この教会へと神が更に人々をお送り下さり、救いの喜びに預かり、全世界に仕えるキリストの弟子として派遣される”と。だからこそ私たちは、これまでの働き(年間の活動・プログラム)とキリストの体(執事会・各会など教会組織)を省み、生きて働く主のご計画に相応しい道を歩むため、「変える勇気と、変えられないものを受け入れる平安を与えてください」と祈るのです。私の夢は、「この東武東上線で命を絶つ方が一人もでないためにこの教会を用いて下さい」と、特に祈り求める年頭となりました。皆さんと共に主が与えられるビジョンと夢とを分かち合える教会を、ここ常盤台に立てられた主に心から感謝します。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-12-31 10:26:02 (122 ヒット)

詩編9章2節 
聖書には繰り返し「神への感謝」が語られます。9篇は詩編の中に記された「感謝の詩編」と呼ばれる最初のもので、10篇と合わせて書かれました。ここで「心を尽くして主に感謝をささげ(よう)」、との呼びかけは、神への感謝を覚えながら、感謝を表明すことの少ない私たちにとって、見えない手で肩をポンと叩かれ、前に押し出されるような御言葉です。特に「心を尽くして」の『心(レーブ)』とは、人の心の移ろいやすい感情的側面ではなく、決断や悟りを基として人間の自主的、行動的な心の動きを表したヘブル語が用いられています。つまり、感謝できることだけを感謝するのでなく、感謝できないことさえ、神にあって祝福に変えられると信じる信仰に基づいて「感謝をささげよう」と勧められます。
 更に、続く「(神の)驚くべき御業をすべて語り伝えよう」との御言葉は、時を越え、神のして下さったことへの感謝を自分の中だけに留めず、隣人と分かち合うことが勧められます。特に旧約における神の民が語り伝えた出来事、奴隷の苦役から解放された出エジプトの出来事を覚える「過越しの祭り」で、その日がユダヤの民とって新年として今も祝われ続けています。
新約聖書に目を向けると、主イエスが、五つのパンと二匹の魚を、多くの人々と分かち合う奇跡が行われる直前(マタイ15:36)、そして弟子たちと過越しの食事の最中(最後の晩餐)に杯(赦しの象徴)を分かち合う直前(マタイ26:27)、共に「感謝の祈りを唱えた」と証しされます。ここにも主イエスが、祝福を受けたから感謝するのでなく、まず神を信頼し、感謝を奉げる信仰姿勢が神の祝福を引き出すと証しされています。
 新しい年を迎えるあたり、今年最後の日に、今年の恵みを主に感謝する礼拝を奉げつつ、更に先取りして、来年の感謝を主に奉げられるこの時は実に祝福されています。「私もこのように生きたい」と願う、パウロにある御言葉をどのような時にも思い起こしたいと願います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケ一5:16-18)。
 日々、主に感謝を奉げると共に、隣人、家族、そして教会の兄弟姉妹にも感謝を分かち合う時、それぞれの関係性は間違いなく祝福に満ちたものへと変えられます。これからも、主なる神がして下さった全ての恵みの業に対して、心を尽くして感謝し、分かち合って参りましょう。感謝する人の周りには、感謝が尽きることがないからです。
 今年一年の常盤台教会に連なる皆さんお一人お一人の信仰にある貴い福音宣教の業に心より感謝致します。

「不思議です 不思議です 今なお生かされて
   いることが 悲しみや 苦しみを耐えてこられた
    ことが 主の信仰をたもちこられたことが 
     天のお父様に ただ感謝するのみです」
   
        (水野源三「瞬きの詩人」)


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-12-25 15:32:28 (94 ヒット)

マタイによる福音書2章13〜23節
 「悲嘆(グリーフ)」とは、死別、離別、転居などによって引き起こされる、全人的苦痛、深い悲しみを表す言葉です。救い主イエスの誕生を心から喜び祝う東方から来た占星術の学者たちと対照的に、後に続くマタイの記事には、命を狙われ、故郷を追われてエジプトへ逃避行せざるを得なかった幼子イエスの両親の悲嘆。更に王に逆らい、黙って自分たちの国へと帰っていった学者たちに怒りを覚えたヘロデ王により、ベツレヘムとその一帯に住む二歳以下の男児たちが殺害され、悲嘆にくれる家族の姿が描かれています。
 「悲嘆」を二つに区分すると、一つは、自然災害など、人間の手に及ばない出来事を通し、また戦争のように人間の罪や愚かさによって起こされ、二度と経験したくないと感じる悲嘆です。避けられるなら避けられる方法を生み出したいと願い、これらの体験を通して私たちは悲しみを忘れることなく、安全と平和を構築する使命を新たにさせられます。そうして、神にしか与えられない慰めを祈り求めていくことに人は目覚めるのです。悪に満ちたヘロデによる幼児殺害の悲嘆はこれに属します。
もう一つの悲嘆とは、確かにその時には辛く大きな痛みを伴いますが、その先に神の祝福が備えられていると信じ、乗り越える希望を伴うものです。つまり、たとえ人間によって引き起こされた悲しみでさえも含め、神は、災いではなく、将来と希望を与えてくださるお方だと信仰によって受け止められる悲嘆です。
東方の学者たちが携えていた三つの宝物には様々な議論があります。通常は救い主に献げるために故郷から携えてきたと解釈されます。しかし一説では、旅路を共にする大勢の人々に必要とされた彼らの自身の財産を、救い主・幼子イエスとの出会いによって、喜びに満たされ、神に突き動かされて、計画にはなかった財宝をイエスに献げたとするものです。実はこれが後に貧しき主イエスの家族が、エジプトへ逃れる旅路と滞在の生活の糧として用いられ、守られていったからです。主に従い、歩もうとする時、辛い別れや痛みを伴うことがあります。しかし、「主の山に備えあり(創世22:14)」との御言葉が真実であったように、悲嘆を通り抜けなければ体験し得ないこともあるからです。
後にヨセフらが、エジプト逃避行を思い起した時、主の天使が前もって夢に現れ、語りかけられた体験(マタイ1:20‐21)があったからこそ、その後、様々な悲嘆を受けとめ、イエスを通して用意された救いの計画と祝福に目を留め、乗り越える力とされたのです。十字架と死を担い、復活による永遠の命を与える計画を担うためにお生まれ下さった主イエスの誕生を感謝し、私たちの持つ宝物を主に奉げて参りましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-12-18 13:41:27 (141 ヒット)

ルカによる福音書2章8〜20節クリスマスの出来事、2000年前の遠い昔話、まるでおとぎ話のようなその出来事を聞くとき、私たちはどのようにそれを受け止めるでしょうか。
聖書は、世界で初めのクリスマスの出来事について、その知らせを聞いた人々の姿を鮮やかに描いています。イスラエルの片隅のガリラヤの町ナザレで、まだ結婚していない自分のお腹に「神の子」(ルカ1:35)が宿ると告げられた少女マリア。町の外、人里離れたところで羊の番をしていたところ、天使によって乳飲み子の誕生を告げられた羊飼い。今日の場面では、この二者のコントラストが印象的に語られています。
羊飼いたちは、救い主誕生の知らせを「あなたがたのために」(11節)という言葉で特別に伝えられた時、「急いで行って」(16節)それを確かめました。それだけでなく、その出来事が「民全体に与えられる大きな喜び」(10節)なのだということを、人々に知らせたのです。ところが、それを聞いた人々は、羊飼いたちの話を「不思議に思った」(18節)(驚く/疑う/感嘆の意味)といいます。そして、「マリアの賛歌」(1章46-56節)であれほどはっきりと喜びを表していたあのマリアでさえも、ここでは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(19節)と書かれています。「民全体」「あなたがたのため」と語られる「救い主」が、一体どのような存在なのか、どのような人物として成長していくのか、そしてその生涯で、どのようなことを成し遂げるのか。このちいさなかけがえのない命の意味を、この時はまだ誰も知らなかったのです。その乳飲み子が、すべての人のために十字架の上で命をささげるなどということを、この時「だれが思い巡らしたであろう」(イザヤ53:8)。
ただそれでも、彼らに共通していたのは、「救い主」(ルカでは1:47, 2:11のみ)が生まれる(生まれた)という出来事に遭遇したということでした。闇の中に輝く光、絶望の中にある希望、待ち望んでいた、私の、私たちの「救い主」メシア、イエス・キリスト…。この乳飲み子の存在に、彼らは出会い、あるものはそれを喜び、急いで行った。またあるものはそれを不思議に思い、ただ、思い巡らした。母マリアは人生の中で繰り返し、その愛する子の命の意味について、思い巡らしたことでしょう。自分の子が、「救い主」であり、「民全体に与えられる大きな喜び」である、ということを。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、
   一粒のままである。だが、死ねば、
        多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)
クリスマスの出来事は今年も、その「一粒の麦」の意味を思い巡らすよう、私たちに語りかけています。


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