< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-18 14:09:14 (37 ヒット)

ヨハネの黙示録3篇14〜22節
復活の主イエスからの手紙の最後はラオディキア教会宛てでした。これまで主がここまで繰り返し、励まし、叱咤激励し、希望を示された理由は一つ。主の教会に集う人々を愛しておられたからです。ヘブライ人への手紙には「主は愛する者を鍛える。…あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか(12:5-11)」と語りかけられていました。これは3章19節にある「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする」と、神のなされること全ては「愛から出ている」と宣言される言葉と重なります。ここで使われる「鍛錬」は、教育、訓練、しつける意味です。人生の最後に「勝利を得、主イエスの座に共に座らせたい…(3:21)」と願う、主の愛ゆえだと、7つの手紙全ての結論だからです。なぜ鍛錬が必要なのか、それはこのローマ人への手紙の有名な御言葉の通り、「…なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達<練られた品性>を生み出し、錬達は希望を生み出す…。そして、希望は失望に終ることはない(口語訳5:3-5)」からです。
 しかし「親の心、子知らず」とあるように、父なる神の偉大なご計画に気づかず、私たちの口からは不平不満が溢れます。そしていつの間にか主なる神への信仰姿勢が次のような状態となるのです。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている(黙示3:15-16)」。冷たいとは、氷や清涼水のように爽やかで、熱いとは、沸騰したお湯のようにメリハリがハッキリしている状態です。ところが、当時のラオディキア教会には、「なまぬるい」信仰。つまり、どっちつかず、中途半端、熱意のない信仰と呼ばれる歩みをする人々がいたのです。ここで主イエスが特に願われたのは、「悔い改め(方向転換)」と「救霊(福音宣教)」への熱意でありました。当時、この教会員が実は表面的生活の裕福さを追い求めながら、実は信仰的には貧しいと叱責されます。神の目に富む者とは、「火で精錬された金」と「白い衣」を持つ者だからです。ここでの「(純)金」とは、人生における不純物(不必要な時間や行動)が、火(人生の試練、苦難など)を通り、取り除かれた信仰。「白い衣」とは、主イエスの前に悔い改め、謙虚に十字架の救いを身にまとわせて頂き、天の御国に入る約束を与えられた豊かな信仰です。お金では買えない神の恵みを頂いていることに心を開き、地上の命(時間と賜物)を主に委ねる時、私たちに与えられる「永遠のいのち」は輝き、常に喜びと希望に燃える歩みがなされます。主が私たちに託された光を輝かせましょう。
 
   「霊に燃えて、主に仕えなさい(ローマ12:11)」 

  アーメン。主イエスよ、来てください<マラナタ>。

 


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-10 15:21:12 (68 ヒット)

詩編23篇、ルカによる福音書23章39〜43節
 「生きるにも死ぬにも、
   あなたのただ一つの慰めは何ですか」
 これは、1563年にドイツで生まれた「ハイデルベルク信仰問答」の第1問です。バプテスト教会として、この信仰問答をことさらに支持するわけではありませんが、この第1問は、いまのこの時代においても、私たちが自らの人生や信仰について考える上で、とても大切な問いであると感じています。問答ではこの問いに次のように答えます。
「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」
 信仰の人ダビデは、自らが羊飼いであった時の経験から、たくさんの豊かな表現に溢れる詩を残しています。その中で、もっとも有名なのは詩編23篇でしょう。彼はそこで自らを羊、神さまを、羊を養い守る羊飼いをたとえ、その神さまに対する信頼の心を歌っています。その中心にあるのは、「あなたがわたしと共にいてくださる」(4節)という信仰です。先が見えない中にあっても、行く手に「わたしを苦しめる者を前にしても」(5節)、たとえ「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(4節)。なぜなら、羊飼いである神さまが、私と共にいてくださるから。
 イエス・キリストと共に十字架につけられた二人の囚人のうちのひとりは、不思議な平安の中で、キリストに次のように言いました。「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節) 彼の言葉に、キリストは次のように応えられました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)。
 キリストと共に十字架にかけられた囚人、彼にとっての「慰め」は、死後の世界、天の御国、「天国」だったのでしょうか。死後、そのような「楽園」において憩うことができる、きっとそのことよりも、「今日わたしと一緒に」と言って、彼と共にいてくださることを約束してくださった救い主の言葉に、彼は慰めを受けたのではないでしょうか。
私たち自身が「天国」ということを考えるときも、そこにある「慰め」とはなんでしょうか。それは、そこがどのようなところかはもちろんですが、何よりも、そこに誰がいるのかということでしょう。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録21:3-4)
 羊飼いなるイエス・キリストが、いまのこの時も、まだ見ぬ将来においても、いつもわたしと共にいてくださる。このことが、生きるにも死ぬにも、私たちの唯一の慰めなのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-04 14:14:33 (170 ヒット)

ヨハネの黙示録3篇7〜13節
主イエスは神の国の奥義を説明される時、『門』というキーワードを繰り返し用いられました。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い (マタイ7:13)」。ここでは救いへ至る道は狭くとも、永遠のいのちに至る門を探して入れと語られました。また直前には、「求めなさい…。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。…門をたたく者には開かれる(7:7,8)」と語られ、主を求める者には誰にでも(ローマ10:13)、救いの道へと通じる門を神が開いておられることを宣言されたのです。
 黙示録の冒頭で、主イエスご自身のことを「世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている(1:18)」お方だと語られたように、フィラデルフィアの教会に対しても、「ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない(黙3:7)」と語られました。このように主イエスこそが真のいのちに通じる道を開く権威が与えられていると明言されたのです。
 フィラデルフィア〈「兄弟姉妹を愛する」の意〉の町に立てられたこの教会の人々に主イエスは繰り返し、あなたがたは「わたしの言葉を守った」、それゆえに、「わたしもあなたがたを守ろう」と、互いに愛し合う関係性の大切さが強調されます。特に、その前後に「あなたは力が弱かった(ギ語:ミクロス)が、…わたしの名を知らないとは言わなかった」と語られ、ペトロのように主イエスを否認することなく、忍耐強く歩み続ける教会の兄弟姉妹に対する喜びと感謝の思いが溢れています。決して主イエスは信仰の強さや弱さで人を評価したり、救いの有無を決められることはなさいません。ペトロの生涯を省みても然りです。しかし同時に、弱さを抱えながらも精一杯主イエスに従おうとした(「イエスの名を知らない」と言わず証し続けた)人々に対しては、その信仰の姿勢に喜びと賛辞を惜しまれませんでした。
 手紙の最後に、「新しいエルサレム」が天より下ってくる(黙3:12)と、主イエスよりこの教会、そして全ての人々への福音として伝えられました(21:1,10)。ここで主は、神の御言葉とこの黙示録、そして神の国の意味を誤って解釈し受けとめている人々(「自分はユダヤ人であるという者たち‹文字通りユダヤ教徒、又今日のキリスト教原理主義者を含む›」)の姿に、時代を越え憂いておられます。主はこの地上で目に見える領土としてのエルサレムを与えるとは約束しておられません。武力や権力による支配(占領)によらず、主イエスが十字架で示された愛と平和の道へ通じる「門」を主イエスは開かれたのです。その門を、この世の価値観とは違う真の幸いを与えられた人々(マタイ5:1-11)のように、私たちも「力の弱い」者であることを恐れず、天の御国(新しいエルサレム)に通じる門を目指して歩み続けましょう。

 「平和を実現する人々は、幸いである。
    その人たちは神の子と呼ばれる(マタイ5:9)」


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-28 13:27:34 (69 ヒット)

ヨハネの黙示録3篇1〜6節
新約を見ると主イエスが公生涯で繰り返し、「目を覚ましていなさい」と語られた箇所と出会います。この主の語りかけには大きく三つの意味を見出すことができます。まず第一に、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないから(マタイ24:42)」と語られます。これは予期できない時に、主イエスが再び来られることを心にとめ、“主イエスの言葉に聞け”との呼びかけです。第二に、ゲッセマネの園において「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい(マタ26:38)」と語られ、“主イエスの感情に聴け”と命じられたのです。もう一つは、“私たち自身に聴く”ことで、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い(マタ26:41)」と、自分の信仰は強そうでも、内実は弱いことを自覚するようにと。
 これまで「目覚めよ」と語られた主イエスの言葉が曲解され、神の裁きへの恐れと不安を感じさせる響きが強く語られていました。確かに罪に対して私たちはその行き着く先への恐怖を覚え、悔い改めへと導かれることも必要です。しかし、主イエスの本来の語りかけは、人を裁くことが目的ではなく、「神は愛である」ことに気づき、日々、私たちが喜びと感動のなかで、主イエスが共におられることを心に留めて歩むことでした。
 黙示録にある5つ目の教会・サルディスに宛てた手紙において、「目を覚ませ。あなたがたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる・・・もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう(黙3:2,1)」と主が語られた理由。それは、彼らに与えられた「人生を大切に生きる」ため、つまり、霊的健康を保ち、与えられた神の時を豊かに用いるためです。なぜなら、地上において、天に入る祝福(永遠のいのち)に預かっていなければ、肉体的には生きていたとしても、実は「(霊的に)死んでいる」ことを主イエスは語りかけ、気づかせようとしてくださったからです。
 サルディスの教会に集う人々に主イエスは、手紙の最後に、「勝利を得る者には、このように白い衣を着せよう(3:4,5)」と語られました。白い衣とは、主イエスによって罪を覆われ、救われ、神の子とされたことを証しする表現です。かつて酒に酔いつぶれ我を忘れ、裸で醜態をさらした父ノアに息子が服をかけて、恥をさらさないように守りました(創世9:20-23)。それ以上に主イエスは、私たちの罪ある身心全てを主イエスの愛と赦しの衣で覆ってくださり、天の御国で神の前に恥じることない者へとしてくださることを約束してくださいました。私たちがこの偉大な愛に気づく時、朝、目覚める時も日々、喜びをもってこの人生を健やかに歩み続けることができるのです。主に感謝。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-21 13:27:40 (89 ヒット)

ヨハネの黙示録2篇18〜19節
 今日はペンテコステ。主イエスの弟子たちに聖霊が注がれ、全世界へ福音を宣べ伝えるために遣わされていく御言葉と信仰の力とが与えられたことを覚える日です。全世界でこの日を教会誕生の時として覚え、又、常盤台教会の創立記念日として感謝を奉げます。
 ヨハネを通して主イエスより送られた四通目の手紙の宛先がティラティアにある教会で、その誕生のきっかけは、この町出身の紫布商人リディアが、フィリピにおいてパウロの説教を聞いたことではなかったかとも考えられます(使徒16:14-15)。この教会へ主イエスはご自身のことを「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子」と宣言されました。これは、神の言葉を伝える使命に燃え(コリ一9:13)、福音を伝えることに倦み疲れることのない足を持つ(イザ40:31)主イエスの姿を開示されたのです。そして、このティラティア教会へ、「あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐」、更に「近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっている」ことなどを主が知っておられ、賛辞と励ましの言葉をかけられました。しかし、この教会の中にイゼベル (列王記でバアル信仰をイスラエル人に強要した悪王ラハブの悪妻) に似た女が教会を混乱させており、それを大目に見て放置してはならないと命じます。主イエスはかつて「毒麦の譬え」において、「刈り入れの時までは良い麦を抜かないために、蒔かれ育った毒麦もそのままにしておき、時が来たら抜いて焼き、良い麦は倉に取り入れよ(マタイ13:24-30)」と語られた時が近づいていたからです。主の教会が、悪の力を排除し、必要のない重荷を負うことなく、「今持っているもの<愛・信仰>を固く守れ」(黙2:24⁻25)と励まされました。
 最後に、主イエスの言葉に聴き従い「勝利を得る者」に、「明けの明星を与える」と約束されました。「明けの明星」とは明け方、太陽が昇る直前、暗闇に輝く光(金星)です。太陽が昇り光り輝く朝となる前の闇<悪が支配しているかのように思えるこの世の闇>において、この星の光は希望を与える力を持っています。更にこの星の役目は、太陽が昇ると消え去るのです。つまり、この地上において主イエスは父なる神の栄光(太陽の光)に人々が従うため、ご自身の持つ神と等しい偉大な力を決してひけらかすことなく(フィリピ2:6-11)、明けの明星のように闇に希望を与え、その姿を消されました。主イエスの謙虚さと父なる神への従順な姿は、私たち教会とキリスト者が見習うべき姿勢、目標です。「真のリーダーシップはその人が死んだ(その場を去った)時に表れる」と言われています。この常盤台教会もその歩みにおいて、そこに集められた私たち一人一人が、キリストに倣い、いかなる時代の闇においても、希望の光なる明けの明星とされて、なお一層その光を輝かせて参りましょう。


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