< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-04 14:14:33 (253 ヒット)

ヨハネの黙示録3篇7〜13節
主イエスは神の国の奥義を説明される時、『門』というキーワードを繰り返し用いられました。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い (マタイ7:13)」。ここでは救いへ至る道は狭くとも、永遠のいのちに至る門を探して入れと語られました。また直前には、「求めなさい…。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。…門をたたく者には開かれる(7:7,8)」と語られ、主を求める者には誰にでも(ローマ10:13)、救いの道へと通じる門を神が開いておられることを宣言されたのです。
 黙示録の冒頭で、主イエスご自身のことを「世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている(1:18)」お方だと語られたように、フィラデルフィアの教会に対しても、「ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない(黙3:7)」と語られました。このように主イエスこそが真のいのちに通じる道を開く権威が与えられていると明言されたのです。
 フィラデルフィア〈「兄弟姉妹を愛する」の意〉の町に立てられたこの教会の人々に主イエスは繰り返し、あなたがたは「わたしの言葉を守った」、それゆえに、「わたしもあなたがたを守ろう」と、互いに愛し合う関係性の大切さが強調されます。特に、その前後に「あなたは力が弱かった(ギ語:ミクロス)が、…わたしの名を知らないとは言わなかった」と語られ、ペトロのように主イエスを否認することなく、忍耐強く歩み続ける教会の兄弟姉妹に対する喜びと感謝の思いが溢れています。決して主イエスは信仰の強さや弱さで人を評価したり、救いの有無を決められることはなさいません。ペトロの生涯を省みても然りです。しかし同時に、弱さを抱えながらも精一杯主イエスに従おうとした(「イエスの名を知らない」と言わず証し続けた)人々に対しては、その信仰の姿勢に喜びと賛辞を惜しまれませんでした。
 手紙の最後に、「新しいエルサレム」が天より下ってくる(黙3:12)と、主イエスよりこの教会、そして全ての人々への福音として伝えられました(21:1,10)。ここで主は、神の御言葉とこの黙示録、そして神の国の意味を誤って解釈し受けとめている人々(「自分はユダヤ人であるという者たち‹文字通りユダヤ教徒、又今日のキリスト教原理主義者を含む›」)の姿に、時代を越え憂いておられます。主はこの地上で目に見える領土としてのエルサレムを与えるとは約束しておられません。武力や権力による支配(占領)によらず、主イエスが十字架で示された愛と平和の道へ通じる「門」を主イエスは開かれたのです。その門を、この世の価値観とは違う真の幸いを与えられた人々(マタイ5:1-11)のように、私たちも「力の弱い」者であることを恐れず、天の御国(新しいエルサレム)に通じる門を目指して歩み続けましょう。

 「平和を実現する人々は、幸いである。
    その人たちは神の子と呼ばれる(マタイ5:9)」


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-28 13:27:34 (160 ヒット)

ヨハネの黙示録3篇1〜6節
新約を見ると主イエスが公生涯で繰り返し、「目を覚ましていなさい」と語られた箇所と出会います。この主の語りかけには大きく三つの意味を見出すことができます。まず第一に、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないから(マタイ24:42)」と語られます。これは予期できない時に、主イエスが再び来られることを心にとめ、“主イエスの言葉に聞け”との呼びかけです。第二に、ゲッセマネの園において「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい(マタ26:38)」と語られ、“主イエスの感情に聴け”と命じられたのです。もう一つは、“私たち自身に聴く”ことで、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い(マタ26:41)」と、自分の信仰は強そうでも、内実は弱いことを自覚するようにと。
 これまで「目覚めよ」と語られた主イエスの言葉が曲解され、神の裁きへの恐れと不安を感じさせる響きが強く語られていました。確かに罪に対して私たちはその行き着く先への恐怖を覚え、悔い改めへと導かれることも必要です。しかし、主イエスの本来の語りかけは、人を裁くことが目的ではなく、「神は愛である」ことに気づき、日々、私たちが喜びと感動のなかで、主イエスが共におられることを心に留めて歩むことでした。
 黙示録にある5つ目の教会・サルディスに宛てた手紙において、「目を覚ませ。あなたがたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる・・・もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう(黙3:2,1)」と主が語られた理由。それは、彼らに与えられた「人生を大切に生きる」ため、つまり、霊的健康を保ち、与えられた神の時を豊かに用いるためです。なぜなら、地上において、天に入る祝福(永遠のいのち)に預かっていなければ、肉体的には生きていたとしても、実は「(霊的に)死んでいる」ことを主イエスは語りかけ、気づかせようとしてくださったからです。
 サルディスの教会に集う人々に主イエスは、手紙の最後に、「勝利を得る者には、このように白い衣を着せよう(3:4,5)」と語られました。白い衣とは、主イエスによって罪を覆われ、救われ、神の子とされたことを証しする表現です。かつて酒に酔いつぶれ我を忘れ、裸で醜態をさらした父ノアに息子が服をかけて、恥をさらさないように守りました(創世9:20-23)。それ以上に主イエスは、私たちの罪ある身心全てを主イエスの愛と赦しの衣で覆ってくださり、天の御国で神の前に恥じることない者へとしてくださることを約束してくださいました。私たちがこの偉大な愛に気づく時、朝、目覚める時も日々、喜びをもってこの人生を健やかに歩み続けることができるのです。主に感謝。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-21 13:27:40 (182 ヒット)

ヨハネの黙示録2篇18〜19節
 今日はペンテコステ。主イエスの弟子たちに聖霊が注がれ、全世界へ福音を宣べ伝えるために遣わされていく御言葉と信仰の力とが与えられたことを覚える日です。全世界でこの日を教会誕生の時として覚え、又、常盤台教会の創立記念日として感謝を奉げます。
 ヨハネを通して主イエスより送られた四通目の手紙の宛先がティラティアにある教会で、その誕生のきっかけは、この町出身の紫布商人リディアが、フィリピにおいてパウロの説教を聞いたことではなかったかとも考えられます(使徒16:14-15)。この教会へ主イエスはご自身のことを「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子」と宣言されました。これは、神の言葉を伝える使命に燃え(コリ一9:13)、福音を伝えることに倦み疲れることのない足を持つ(イザ40:31)主イエスの姿を開示されたのです。そして、このティラティア教会へ、「あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐」、更に「近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっている」ことなどを主が知っておられ、賛辞と励ましの言葉をかけられました。しかし、この教会の中にイゼベル (列王記でバアル信仰をイスラエル人に強要した悪王ラハブの悪妻) に似た女が教会を混乱させており、それを大目に見て放置してはならないと命じます。主イエスはかつて「毒麦の譬え」において、「刈り入れの時までは良い麦を抜かないために、蒔かれ育った毒麦もそのままにしておき、時が来たら抜いて焼き、良い麦は倉に取り入れよ(マタイ13:24-30)」と語られた時が近づいていたからです。主の教会が、悪の力を排除し、必要のない重荷を負うことなく、「今持っているもの<愛・信仰>を固く守れ」(黙2:24⁻25)と励まされました。
 最後に、主イエスの言葉に聴き従い「勝利を得る者」に、「明けの明星を与える」と約束されました。「明けの明星」とは明け方、太陽が昇る直前、暗闇に輝く光(金星)です。太陽が昇り光り輝く朝となる前の闇<悪が支配しているかのように思えるこの世の闇>において、この星の光は希望を与える力を持っています。更にこの星の役目は、太陽が昇ると消え去るのです。つまり、この地上において主イエスは父なる神の栄光(太陽の光)に人々が従うため、ご自身の持つ神と等しい偉大な力を決してひけらかすことなく(フィリピ2:6-11)、明けの明星のように闇に希望を与え、その姿を消されました。主イエスの謙虚さと父なる神への従順な姿は、私たち教会とキリスト者が見習うべき姿勢、目標です。「真のリーダーシップはその人が死んだ(その場を去った)時に表れる」と言われています。この常盤台教会もその歩みにおいて、そこに集められた私たち一人一人が、キリストに倣い、いかなる時代の闇においても、希望の光なる明けの明星とされて、なお一層その光を輝かせて参りましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-14 13:52:08 (185 ヒット)

詩編91篇1〜15節
 発達心理学の中の、特に愛着理論という分野において、私たちが自分という存在を安心して受け入れつつ、自分の外の世界へと勇気をもって出て行くために、「安全基地」というものの重要性が言われます。それは、幼い子どもについて言えば、母親をはじめとする主たる養育者であり、その存在と関係性のもとに、いつでも安心して帰ることができるということがあって初めて、子どもは未知の世界へと自分の身を投じていくことができるというのです。
 詩編の作者は、全能の神という存在への信仰を、神を「避けどころ」「砦」として「依り頼む」ことであると表現しています(1節)。彼は、自らも信頼する「いと高き神のもと」について、人が「身を寄せて隠れ」「宿る」時(1節)、神がその人を「救い」「覆い」「かばってくださる」(3, 4節)ところである...まさに「安全基地」のようなところであると語っています。そして続けて、あなたは「恐れることはない」、病が「あなたを襲うことはない」、災難も疫病も「あなたに触れることがない」、そのように神があなたを守られると宣言するのです(5-12節)。
 しかし、信仰者の人生の実際はどうでしょうか。神を信じているからといって、災いがその身に降りかからなくなるわけではありません。むしろ、信仰を与えられたが故の悩みや苦しみというものもあるでしょう。この詩編の作者の言葉も、決して順風満帆な人生の中で生まれたものではないように思います。彼の目の前にもまた、厳しい現実があったのではないかと想像します。
 彼はその詩の中で、神への信仰を、神との相互の親密な関係として歌い上げています。「彼はわたしを慕うものだから 彼を災いから逃れさせよう」(14節) この中の「慕う」という言葉は特に、詩編に一度しか出てこない「すがりついて離れない」という意味の言葉です。この詩において表された彼の言葉は、神への信頼の告白であると同時に、神にすがりつくような思いでささげられた、彼の祈りの言葉のようにも思います。
 イエス・キリストもまたその生涯を通して、実に十字架の死に至るまで、父なる神に信頼し続けたお方でした。そのキリストが私たちに、「わたしにつながっていなさい」(ヨハネ15:4)と言われた、その言葉を思い起こします。
 私たちは留まることない人生という「道」(11節)を、常に「夜」と「昼」を繰り返しながら(5, 6節)歩き続けていくものです。そのただ中にあって、私たちがいつでも「身を寄せて隠れ」「宿る」ことができるところ、私を愛し「ともにいる」と言ってくださるイエス・キリストという「安全基地」に繋がっていたいと思います。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-07 16:00:48 (234 ヒット)

黙示録2章12〜17節
 紀元96年頃、ローマ帝国のアジア州に存在した7つの教会へ、ヨハネを通して主イエスが宛てた手紙。「あなたの住んでいる所には、サタンの王座がある」と語られたペルガモンの人々は、驚いたのでしょうか。それとも「やはりそうか」と思ったでしょうか。当時そこにはヘビを抱く医神アスクレピオスや皇帝礼拝の神殿群、そして町の中心アクロポリスにそびえるゼウスの神殿があり、アジア州の州都ペルガモンの名を世にとどろかせ、享楽にふけるため人々が押し寄せる、悪に満ちた町の代表でした。
 主はまず、そのような環境にも影響されず、信仰を貫いて殉教したアンティパスの名を呼び、一人一人の苦難と労苦を主が覚え忘れないと伝えます。同時に、パウロがかつて異なった福音と称したように、教会内に、主イエスを信じながら、人々を間違った信仰の道へと導く危険性を指摘し、厳しく警告されました。“バラムの教え”“ニコライ派の教え”とされる具体的な教義内容は分かっていません。しかし民数記22〜24章に同じ名前の人物が登場し、神より人々を引き離そうとしたことから、それは当時、神殿に備えられた食物(肉)や異教の習慣を吟味せず、自ら進んで饗じ、かつ他者にも進める人々の課題(参:コリント一8章)に習うなと語られたのです。
 そのような誘惑や課題に満ちた環境に置かれても、主の御前に勝利する、希望ある人生を選ぶ秘訣を主イエスは教えられました。
 まず第一に「隠されていたマンナ(ヨハ黙2:17)」を与えると語ります。マンナとは、出エジプト後、イスラエルの民が食料の乏しい荒野にて、約束の地に入るまで命をつなぐ、毎朝必要な分だけ備えられる食物でした。何よりも主イエスが「わたしは命のパン(ヨハネ福6:48)」だと宣言され、十字架と復活のイエスを私たちが信じ、その体の象徴なるパンを受け、神の子とさせて頂く道を開かれたのです。第二は「白い小石(2:7)」で、主イエスにある完全なる赦しが与えられると約束されました。当時、裁判官が判決を出す時、有罪の時は黒い石を、無罪であれば白い石を、人々に掲げ示す習慣がありました。つまり主イエスを信じる者にはこれらの祝福が約束され、だからこそ恐れず歩めと語られます。こうしてイエスこそ救い主・「鋭い両刃の剣を持つお方」だと明示されました。鋭い刃は、人を殺すことも、又、人の身体を癒す医術には欠かせない力をも発揮します。主イエスこそ裁き主であると共に、死を招く罪(悪腫瘍)を鋭い刀によって切除できる唯一の救い主です。
このように、他の何ものにも代え難い食物
(霊の糧・マンナ)を先に受けた私たち教会は、喜びと感謝を携えて、いかなる時代や状況においても「この世はみな神の世界」と告白し、霊の糧を分かち合う者として共に歩みましょう。


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