< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2017-11-07 14:22:34 (135 ヒット)

マタイによる福音書3章13〜17節、ネヘミヤ記8章10節 カトリックは7つの礼典(サクラメント)、結婚・〈司祭の〉叙階・終油・堅信・告解(俊海)・ミサ(聖体拝領)・洗礼を定めていました。しかしルターたち改革者は、キリストによって「行うように」と聖書に記されれたもの以外、最初の5つを廃止し、バプテストも「バプテスマと主の晩餐の『二つの礼典』」として守り続けいます。 まず『バプテスマ』はルター派、カルバン派では幼児洗礼が継続し行われましたが、メノー派などは「信仰者の告白」に基づく、再洗礼(幼児洗礼をかつて受けた人々が再び信仰を明確に告白し受洗する)を聖書から解釈し、同じ新教諸派からも迫害を受けました。その後、英国国教会より分離・独立したバプテストの群れは「水によるバプテスマ」を聖書より主張します。主イエスがバプテスマをヨルダン川で受けようとされた時、ヨハネは思い止まらせようとしました。しかし主は「今は、とめないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです(マタイ3:15)」と、主イエスご自身の父なる神へ御心を貫く信仰告白を行い水の浸礼を受けます。その時、神の霊が鳩のように主イエスに降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天よりの声を受けました。ここに神の御言葉と祝福を受ける、神と人との関係性が、今日の礼拝を守る基本姿勢・原型として示されたのです。特にルターにより、礼典が二つとされた礼拝改革で特筆する3点は、[蘿劼琉嫐が、人から神への奉仕(司祭が神へ犠牲を奉げるミサ祭儀:パンと杯を司祭だけが受ける)ではなく、神からの祝福を共に預かる共同体(万人祭司)となり、▲薀謄鷂譴竜啓庵羶瓦ら、自国語による神の言葉(説教)中心の礼拝へ。司祭だけが唱詠する神への賛美が、会衆が共に歌う賛美(コラール) を含む礼拝へと変えられていきました。バプテスト教会は、その後、説教壇を会衆席と同じ位置に近くし、神への賛美も訓練された聖歌隊のみならず、感謝の応答として会衆の全て(幼児から高齢者に至るまで)が奉仕することを喜ぶ群れへとされたのです。 『主の晩餐』は、今もカトリックが「仮体説(聖変化説)」〈司祭が祈った時、パンと葡萄酒がイエスの体と血それ自体となる〉と教え、ルター派は「共在説」〈パンなどは物質だが、その中に主イエスが共におられる〉とします。しかしツイングリ、そしてバプテストは「象徴説」〈パンと杯はイエスの体と血潮の犠牲の象徴〉とし、受ける者自身が神の前に悔い改め、聖霊の働きによって私たち自身が日々、新生し、変えられることこそが主の願いであったと解釈するのです。 カトリックかプロテスタントか、伝統か改革かの違いを問わず、聖書全体に基づき、今も生きて働かれる主なる神の御心をこれからも探り続け、静寂なでも、喜び祝う元気な礼拝であっても、同じ主にある十字架の犠牲と愛とを喜んで礼拝する群れを主なる神が喜んでおられることを感謝しましょう。 「主を喜び祝うことこそ、《私たち》の     力の源(ネヘミヤ8:10より)」だからです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-10-30 13:34:46 (254 ヒット)

コリントの信徒への手紙一6章19〜20節
「天は神の栄光を物語り、大空は神の御手の業を示す(詩19:2)」。“栄光”とはヘブル語もギリシャ語も「重い」という意味があります。神の存在も、神がなされた全ての事柄の重み(素晴らしさ・偉大さ)を聖書はあらゆる個所で証します。「神は言われた。『光あれ』こうして、光があった(創世1:3)」と天地創造とは、神の語られた言葉によって成ったと驚きつつ語られます。
神の栄光は神にのみ帰すべきであると、その歴史と聖書を通して人々は実感していきました。ルターから約200年後、J.S.バッハは音楽を通して神の栄光を現すことを願い、実に多くの聖書に基づく作品を残しました。彼の多くの作品の最後には“SDG”(Soli Deo Gloria:ソリ・デオ・グロリア)と記しました。なぜならその曲は神によって与えられ、又その曲が作られた目的は神の栄光を現すためであり、更にその曲を通して人々の心に喜びが与えられるなら、バッハにではなく人々が神に栄光を帰す者になって欲しいとの彼の祈りと信仰告白であったからです。
主イエスは、ラザロが病で死にかけていることを聞いた時、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである(ヨハネ11:4)」と語られ、ラザロが死より蘇る驚くべき奇跡を表されました。その一方、著者ヨハネは、十字架の死より復活なされた主イエスが、主を三度否認したペトロに赦しと使命を託され、「…年をとると…行きたくないところへ連れていかれる」と語られ、その後「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるか@示された(21:19)」と証言します。なぜなら、奇跡が起きても起きなくても、生きることも死ぬことも、全ては神の御手の中にあり、人の思いを超えた神のご計画があるからです。この真理(奥義)を知り、信じる力を聖霊なる神に注がれる時、私たちにも揺るがない平安が与えられます。
主イエスの十字架の死と、驚くべき復活による神の力を経験した弟子や初代教会の信仰告白が使徒パウロのこの言葉に集約されています。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださった(コリント二4:6)」と。また、神の言・光としてこの世にお生まれ下さった主イエス(ヨハネ1:1〜)にある罪の赦しと救いの意味の《重さ》を聖霊の働きで悟ったパウロは更にこうも証します。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい(コリント一6:19‐20)」。
バッハのようではない私たちでも、それぞれに与えられた時と方法で、今ここに生かされ、救われている喜びを表して、神にのみ栄光を帰して歩む者とされましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-10-23 15:05:44 (239 ヒット)

ヘブライ人への手紙一11章1〜16節
今月2週間ほどヨーロッパにおりましたが、まだ行ったことのない場所に訪れる時は必ず地図やガイドブックを頼りにして行きます。そうするとその目的地に確実に到達します。そのようにまだ見たことのない神の国に信仰によって歩むにも、神の御言葉を蓄え、信じ、祈りをもって進むことが大切でしょう。
 聖書にはこう書かれています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められた」。旧約聖書の人物、アベルは目に見えない神によき捧げものをし、祝福され、エノクは神が共にいるかのように歩みましたので、死ぬ前に神がエノクを天に移された。このように、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神が自分たちに報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」
 またノアは、目に見えない神から御言葉を受けた時、山の上に箱舟を造りました。船は通常、海に浮かべるものですが、ノアは神の言葉を信じ、山の上に箱舟を造りました。そして神がノアに御言葉で告げたように、洪水が山の上まで怒涛のように押し寄せた時、家族8人だけが箱舟によって救われたのです。
私も、仕事で行き詰まることが多々あります。新しいことを始めると四面楚歌ではなく十面楚歌ぐらいあって、人生の時間が24時間では足らない。しかし箴言には「戦いに馬を備える。しかし勝利は主による。」とあります。 どんなに人間的に苦労して準備をしても、勝利は主によるのである。主の力によらない限り、解決できないのです。だから人生を信仰によって歩む時は、聖書を読み、神に祈るのです。寝ていても祈る。夢の中で祈るのです。
そうすると不思議に、私よりも神様の方がもっともっと私を助けてようと一生懸命してくださることが段々、判るようになります。これがキリスト教信仰の一番、大切な転換点です。
つまり神様は愛の方であり、恵み深い深い神様で、私たちの足りなさや、失敗も承知の上、全部、そのマイナスを無きものにしてくださって、ただ神の力に頼みよる時、神様は働かれ、神の力が発揮されるのです。なぜなら、神様は、私たちが主を賛美し、称えるために、神の栄光を顕されることをご自身が望んでおられるからです。 


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-10-16 13:45:10 (196 ヒット)

コリントの信徒への手紙一1章18〜25節 
五百年前、宗教改革の烽火が上り、後に続くキリストの教会に与えられた信仰の結実(「5つのソラ」)の一つが、「キリストのみ」(ソルス・クリストゥス:Solus Christus)です。それまでの教会は、いつの間にか、聖書に基づかない風習や言い伝えが、福音と同等に扱われるようになっていました。その中に「マリア崇拝」「聖人崇拝」があります。主イエスの母マリアの信仰は尊敬に値することを私たちも同意します。しかし、神に祈りが届くためには、まず聖人や母マリアに祈って(ロザリオの祈祷)、イエスに取り次いでもらい、それからやっと父なる神に届くと教えられていた当時(今もなお)、このカトリックの教えに改革者たちは大きな疑問を投げかけました。旧約まで、聖なる神と罪ある人間の間には大きな溝がありましたが、主イエスによって、恐れずに神を「父」と呼び、祈れ、と教えられたことが宗教改革の原点とも言えます。こうして、主イエスが神と人との仲保者(間に立たれるお方)となってくださった喜びと感謝が、新約各書で証しされます(テモテ一2:5他)。今、私たちが祈る時に呼びかけるお方とは、「父と御子イエスと聖霊(マタイ28:19他)」なる神、唯一の主に祈りが届いている平安が与えられています。何よりも、私たちと同じ人となってこの地上を歩まれた主イエスが教えて下さったように、「父なる神さま」と祈る時、三位一体なる主なる神に願いと執り成しの祈りが届いているからです。
 これまでカトリックを含め、歴史の中で尊敬すべき多くの信仰の先達者が主に用いられてきました。しかし、私たちプロテスタントの教会はその方々を「聖人」として崇めたり、死者に祈り、その像を刻み拝するなどの行為は決して行わないと、聖書(十戒)に基づき、宗教改革以来、声を大にして語り続けています。なぜなら、「キリストのみ」が、人間に赦しを与え、救いを与え、永遠の命を与える力と権威を持っておられるお方だからです。主が十字架につけられた理由、それは、イエスが人々の病を癒すだけでなく、罪の赦しを宣言し、「自らを神と等しいものとされた(ヨハネ5:18)」からでした。又、十字架の苦難と死とを目前にされても、主イエスが父に与えられた業を担っていかれたのは、神の御子であるイエスご自身「のみ(だけ)」にしか成し得ない働きであることを知っておられたからです(イザヤ53章)。こうしてパウロは感謝をこめて告白します。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です(コリント一1:18)」と。
 この救いに先に預かった者として、ただキリストにより救われたことに満足するのではなく、「この私(たち)にのみ(だけ)に、託されている宣教の働きと使命とは何でしょうか」と 祈り求めて歩むとき、日々、新たにされる(新生する)喜びと恵みに預かるのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-10-12 10:26:29 (266 ヒット)

ルカによる福音書6章17〜20節
「キリスト教は上から目線だ」 そのように言われたことが何度もあります。そんなつもりはないにもかかわらず、そのような印象をもたれてしまうことがあるとするならば、私たちはその声に真摯に耳を傾けなければなりません。
イエス・キリストは「貧しい人々は、幸いである」(20節)と言われました。本当に貧しさの中にいる人、苦しみの中にいる(それこそ旧約「ヨブ記」のヨブのような)人に対して、「幸いである」と語るキリスト…この言葉を耳にする時、私たちは驚きを隠せません。しかしこれは、新約の時代にあって、本当に貧しい人々、病に苦しむ人々のもとに行き、「教え…すべての人の病気をいやしていた」(18-19節)イエス・キリストだからこそ語ることのできた言葉なのでしょう。そこには彼の、クリスマスに家畜小屋の飼い葉桶に生まれたという生い立ちから始まる、徹底して社会の底辺に下りていくリアリティがあります。そこに人々は、「なにかある」「救いがある」と思い、集まってきたのです。
もう一つ注目すべきは、キリストが「貧しい人々は…」の言葉を、弟子たちに向かって語られたということです。「あなたがた(のもの)」と語りかけるその言葉は、弟子たちにもまた、「社会で貧しくさせられている人々」のところに下りていき、上から目線で救いを語るのではなく、「平らなところに立って」(17節)世界を見つめるように、との教えだったのではないでしょうか。キリストは、この世界で「貧しい人々」のひとりとして生きることを、この私にも語っておられるのです。
しかし実際には、「貧しさ」に始まる私たちの間にある格差、違いは、そんなに甘いものではありません。どんなに親切に、善意によって相手の立場に立とうとしても、近づくこともできないほどの深い溝が、私たちの間にはあるのです。それはキリストが、人々に理解されず、最後には十字架につけられてしまったということにも表れている、残酷な現実でしょう。それでもなお、同じ地平に立って苦しむ中で、共にもがく中で、そこに黙って共に座り続ける中で(ヨブ2:13)、生まれてくる言葉がある、嘆きがある、祈りがある…「神の国はあなたがたのものである」(20節)と言われたキリストの言葉が心に響きます。
十字架につけられてもなお、神の愛を語り続けたイエス・キリストの生涯。それは、社会で貧しく、小さくされている人々に寄り添いながら、神さまが私たちを誰ひとり分け隔てすることなく愛しておられること、その中で一人ひとりがこの世界に生きること、「共に生きる」ということを、身をもって教えられた生涯でした。私たちは、このイエス・キリストの姿に倣って、「共に生きる喜び」を求め続けていきたいと思います。
「この旅路は険しいけれど…共に行こう、主イェスと共に」(新生讃美歌568番)


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