< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
礼拝ビデオをご覧下さい
アクセスカウンタ
今日 : 373
昨日 : 450
総計 : 809381
平均 : 121
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-09 14:52:44 (579 ヒット)

ホセア書6章1〜6節
 「二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」(2節) この言葉は、私たちが信じて仰ぐ聖書の神さまが、私たちをどのような状況からも救い出し、再び生きる力を与え、立ち上がらせてくださる、そんな「復活」の神さまであることを告白する信仰の言葉です。「三日目に」という言葉に、十字架にかかられて死んだ後、三日目に復活されたイエス・キリストの姿が重なります。このイエス・キリストの「復活」こそ、聖書が語る最も重要な希望のメッセージです。それはまるで、夜の暗闇に昇る「曙の光のよう」、また乾ききった「大地を潤す春雨のよう」であると語られています(3節)。暗闇の中で、飢え渇きの中で、待ち望む希望がここにあります。
 しかし、聖書はここで、そんな私たちの信仰や渇望が、本物であるかを鋭く指摘しています。すぐに「困った時の神頼み」になってしまう私たちの信仰について、神さまは「お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ」(4節)と語りかけるのです。そして、「神を知ること」(6節)こそが大切なことであると語られています。
「知る」という言葉は、聖書の中で、人格と人格のつながりや強い結びつき、一体となることを表す重要な言葉です。神を知る生き方、それはイエス・キリストに繋がって生きることであり(ヨハネ15章)、その似姿へと変えられていく生き方です(コリ3:18)。それは、「自分の十字架を背負って」生きる生き方とも言われています(マルコ8:34)。神さまを信じて神さまと生きる、そんな生き方を、私たちは本当に望んでいるのでしょうか。
 「明日(朝)が来る」ということは、本来喜ぶべきこと、待ち望むべきことなのかもしれません。夜が終わり、朝がやってくること。冬が終わり、春がやってくること。命が明日へと続いていくこと。しかし、それらのことを喜べない人たちがいます。先が見えない状況の中で、どうにもならない現実を前に、終わらない苦しみにもがきながら、「明日など来なければいい」「目が覚めなければいい」と思う。イエス・キリストが、「十字架を背負う」という表現まで使われた、「生きる」ということの現実が、そこにあるような気がしています。
 しかしそれでも、そこに「生きよ」と語りかける神さまの言葉があるのです。その声は優しく、かつ力強く、何度でも変わらずに、揺るがずに、聖書の御言葉から響いてきます。暗闇の中で、光はどこにあるのか、そう思うときに、「わたしが光である」と語られるお方がここにおられるのです。私たちは、そんな「あしたの光のように」確かに現れてくださる、復活のイエス・キリストを待ち望みたいと思います。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-02 13:50:49 (122 ヒット)

マルコによる福音書9章2〜13節 
主イエスの呼び名として、“神の独り子”“神の御子”“神の小羊”“キリスト(メシア)・救い主”“いのちのパン”“インマヌエル”等…、聖書は実に多くの告白を記録します。その中より『使徒信条』は「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と、救いに導く最も重要な信仰の告白を選びました。一方、ニカイア(・コンスタンティノポリス)信条と呼ばれる教会公会議(AD381年)で採択されたものは、次のようにイエスを告白します。「我は唯一の主イエス・キリストを信ず。主はよろず世の先に、父より生まれたるひとりの御子、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずして生まれ、父と一体なり。よろずのもの主によりて造られたり」と。これは、使徒信条の文言だけでは言い尽くせていない、イエスへの『主(しゅ)告白』がより詳しくなされたのです。だからこそ、バプテストの先達者たちは、「使徒信条」だけを告白するのではなく、キリスト者一人一人が、聖書を深く読み、各自が心をこめて“主告白”する信仰の道を選び取ったのです。
 聖書の中の聖書と言われるヨハネ福音書3章16節はこう宣言します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。ここで独り子イエスを信じるとは次の意味を明示しています。第一に“神の独り子としてこの世に遣わされたイエスという方の存在を信じる”こと。第二に“神が、神の独り子をこの世に送られるほど、私(たち)のことを愛しておられる”と信じることです。たとえこの一節だけを信じ、告白し、バプテスマを受けるとしても、人は永遠の命を受ける神の救いと恵みとに預かるのです。
 今日の箇所は「主の変容(へんよう)」と呼ばれ、完全な人間としてこの地上で歩まれたイエスでしたが、この時は、神の輝く栄光を現わされたと証しします。父なる神が「これはわたしの愛する子。これに聞け(マルコ9:7)」と語られた場面は、父の御心に従ってバプテスマを受けられイエスに呼びかけられた箇所(1:11)と重なります。神の御子がその姿を低くして、徹底して人となって歩まれる姿に、神が声を再び発して、イエスとは誰かと、その存在を証しされた父としての愛が示されているようです。そしてその御子イエスは、私たちも神の子とされ、神の愛が注がれていると伝えてくださったのです。
 「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光で会って、恵みと真理とに満ちていた。…いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された(ヨハネ1:14、18)」。この御言葉に「アーメン(真実です)」と心から唱え告白する者とされるため、私たちも主イエスが受けた聖霊(なる神)を慕い求めましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-25 15:01:55 (114 ヒット)

ローマの信徒への手紙10章9〜17節
今日から学ぶ「使徒信条」。伝承によると、十二使徒がエルサレムから各地に離散する前に、一般信徒への信仰規範として作られたとの説があります。宗教改革以後、多くのプロテスタント諸教派もこれを継承し、主の祈りに並び、礼拝で唱和されます。それらの教会ではバプテスマ(洗礼)を受ける際、この信条の項目全てを信じるか否かが問われ、それに同意する者のみが教会員として加わることが許可されていました。しかしバプテストの教会は、「信条」としてではなく、個々人が聖書を読み、それそれの言葉で「信仰告白」する自立した信仰者となることを選びとったので、一斉に礼拝で唱和することはありません。ですが、それは「使徒信条」の内容を否定するのでなく、福音のエキスが抽出された価値ある信仰の言葉であると受け入れてきました。
「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表わして救われる(ローマ10:10)」とパウロは告白し、私たちのこの口から発する信仰の言葉と告白が、救いの確信へつながると宣言します。何を信じるかについてパウロは直前の9節で明確しました。「口でイエスは主である公に言い表わし、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と。ここにも信仰告白の原型があります。皆さんは主イエスをどのようなお方だと告白し、救いを受けられたでしょうか。
「使徒信条」の原文は、まず冒頭に「私は信じます(Creed「信条」の原意)」と告白し、「父なる神こそ、天地の造り主、全能なるお方」ですと続きます。とても簡素な文章ですが、その中には新旧聖書に基づく真理と信仰の告白が集約されています。旧約時代、「主(ヤハゥエ)なる神」は、罪を犯した人間とは相容れない、聖なるお方、義なるお方、そして何よりもこの天地全てを無から有を生み出す全能なるお方と告白しました。その同じ「神」、偉大なる存在を「父」と私たちが親しく呼ぶことが今、できるのは、イエスが「こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ』」と主の祈りでも、弟子たちへ語られたこと。何よりも、主イエスが、インマヌエル(「神、我らと共におられる」)なるお方として共に生き、聖霊を注ぎ、私たちを「神の子」(ロマ8:14-15)としてくださったからなのです。
信条は、私たちを間違いなく良き方向へと導く、道標です。しかしそれは通過点にすぎません。今も生きて働かれる主なる神に対する信仰の証しは、信条として固定されることなく、一人一人が日々新たにされる感謝の告白だからです。バプテストの先達者が選び取ったこの道は、ある意味険しくもあり、かつ大いなる喜びの道です。わたしたちバプテストの信仰に立つ常盤台教会が創立時に与えられた「信仰告白」が自らの告白となるため、信仰吟味の旅路を皆さんと共に歩み出して参りましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-18 14:09:14 (167 ヒット)

ヨハネの黙示録3篇14〜22節
復活の主イエスからの手紙の最後はラオディキア教会宛てでした。これまで主がここまで繰り返し、励まし、叱咤激励し、希望を示された理由は一つ。主の教会に集う人々を愛しておられたからです。ヘブライ人への手紙には「主は愛する者を鍛える。…あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか(12:5-11)」と語りかけられていました。これは3章19節にある「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする」と、神のなされること全ては「愛から出ている」と宣言される言葉と重なります。ここで使われる「鍛錬」は、教育、訓練、しつける意味です。人生の最後に「勝利を得、主イエスの座に共に座らせたい…(3:21)」と願う、主の愛ゆえだと、7つの手紙全ての結論だからです。なぜ鍛錬が必要なのか、それはこのローマ人への手紙の有名な御言葉の通り、「…なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達<練られた品性>を生み出し、錬達は希望を生み出す…。そして、希望は失望に終ることはない(口語訳5:3-5)」からです。
 しかし「親の心、子知らず」とあるように、父なる神の偉大なご計画に気づかず、私たちの口からは不平不満が溢れます。そしていつの間にか主なる神への信仰姿勢が次のような状態となるのです。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている(黙示3:15-16)」。冷たいとは、氷や清涼水のように爽やかで、熱いとは、沸騰したお湯のようにメリハリがハッキリしている状態です。ところが、当時のラオディキア教会には、「なまぬるい」信仰。つまり、どっちつかず、中途半端、熱意のない信仰と呼ばれる歩みをする人々がいたのです。ここで主イエスが特に願われたのは、「悔い改め(方向転換)」と「救霊(福音宣教)」への熱意でありました。当時、この教会員が実は表面的生活の裕福さを追い求めながら、実は信仰的には貧しいと叱責されます。神の目に富む者とは、「火で精錬された金」と「白い衣」を持つ者だからです。ここでの「(純)金」とは、人生における不純物(不必要な時間や行動)が、火(人生の試練、苦難など)を通り、取り除かれた信仰。「白い衣」とは、主イエスの前に悔い改め、謙虚に十字架の救いを身にまとわせて頂き、天の御国に入る約束を与えられた豊かな信仰です。お金では買えない神の恵みを頂いていることに心を開き、地上の命(時間と賜物)を主に委ねる時、私たちに与えられる「永遠のいのち」は輝き、常に喜びと希望に燃える歩みがなされます。主が私たちに託された光を輝かせましょう。
 
   「霊に燃えて、主に仕えなさい(ローマ12:11)」 

  アーメン。主イエスよ、来てください<マラナタ>。

 


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-10 15:21:12 (231 ヒット)

詩編23篇、ルカによる福音書23章39〜43節
 「生きるにも死ぬにも、
   あなたのただ一つの慰めは何ですか」
 これは、1563年にドイツで生まれた「ハイデルベルク信仰問答」の第1問です。バプテスト教会として、この信仰問答をことさらに支持するわけではありませんが、この第1問は、いまのこの時代においても、私たちが自らの人生や信仰について考える上で、とても大切な問いであると感じています。問答ではこの問いに次のように答えます。
「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」
 信仰の人ダビデは、自らが羊飼いであった時の経験から、たくさんの豊かな表現に溢れる詩を残しています。その中で、もっとも有名なのは詩編23篇でしょう。彼はそこで自らを羊、神さまを、羊を養い守る羊飼いをたとえ、その神さまに対する信頼の心を歌っています。その中心にあるのは、「あなたがわたしと共にいてくださる」(4節)という信仰です。先が見えない中にあっても、行く手に「わたしを苦しめる者を前にしても」(5節)、たとえ「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(4節)。なぜなら、羊飼いである神さまが、私と共にいてくださるから。
 イエス・キリストと共に十字架につけられた二人の囚人のうちのひとりは、不思議な平安の中で、キリストに次のように言いました。「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節) 彼の言葉に、キリストは次のように応えられました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)。
 キリストと共に十字架にかけられた囚人、彼にとっての「慰め」は、死後の世界、天の御国、「天国」だったのでしょうか。死後、そのような「楽園」において憩うことができる、きっとそのことよりも、「今日わたしと一緒に」と言って、彼と共にいてくださることを約束してくださった救い主の言葉に、彼は慰めを受けたのではないでしょうか。
私たち自身が「天国」ということを考えるときも、そこにある「慰め」とはなんでしょうか。それは、そこがどのようなところかはもちろんですが、何よりも、そこに誰がいるのかということでしょう。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録21:3-4)
 羊飼いなるイエス・キリストが、いまのこの時も、まだ見ぬ将来においても、いつもわたしと共にいてくださる。このことが、生きるにも死ぬにも、私たちの唯一の慰めなのです。


« 1 (2) 3 4 5 ... 114 »