< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2017-10-12 10:26:29 (121 ヒット)

ルカによる福音書6章17〜20節
「キリスト教は上から目線だ」 そのように言われたことが何度もあります。そんなつもりはないにもかかわらず、そのような印象をもたれてしまうことがあるとするならば、私たちはその声に真摯に耳を傾けなければなりません。
イエス・キリストは「貧しい人々は、幸いである」(20節)と言われました。本当に貧しさの中にいる人、苦しみの中にいる(それこそ旧約「ヨブ記」のヨブのような)人に対して、「幸いである」と語るキリスト…この言葉を耳にする時、私たちは驚きを隠せません。しかしこれは、新約の時代にあって、本当に貧しい人々、病に苦しむ人々のもとに行き、「教え…すべての人の病気をいやしていた」(18-19節)イエス・キリストだからこそ語ることのできた言葉なのでしょう。そこには彼の、クリスマスに家畜小屋の飼い葉桶に生まれたという生い立ちから始まる、徹底して社会の底辺に下りていくリアリティがあります。そこに人々は、「なにかある」「救いがある」と思い、集まってきたのです。
もう一つ注目すべきは、キリストが「貧しい人々は…」の言葉を、弟子たちに向かって語られたということです。「あなたがた(のもの)」と語りかけるその言葉は、弟子たちにもまた、「社会で貧しくさせられている人々」のところに下りていき、上から目線で救いを語るのではなく、「平らなところに立って」(17節)世界を見つめるように、との教えだったのではないでしょうか。キリストは、この世界で「貧しい人々」のひとりとして生きることを、この私にも語っておられるのです。
しかし実際には、「貧しさ」に始まる私たちの間にある格差、違いは、そんなに甘いものではありません。どんなに親切に、善意によって相手の立場に立とうとしても、近づくこともできないほどの深い溝が、私たちの間にはあるのです。それはキリストが、人々に理解されず、最後には十字架につけられてしまったということにも表れている、残酷な現実でしょう。それでもなお、同じ地平に立って苦しむ中で、共にもがく中で、そこに黙って共に座り続ける中で(ヨブ2:13)、生まれてくる言葉がある、嘆きがある、祈りがある…「神の国はあなたがたのものである」(20節)と言われたキリストの言葉が心に響きます。
十字架につけられてもなお、神の愛を語り続けたイエス・キリストの生涯。それは、社会で貧しく、小さくされている人々に寄り添いながら、神さまが私たちを誰ひとり分け隔てすることなく愛しておられること、その中で一人ひとりがこの世界に生きること、「共に生きる」ということを、身をもって教えられた生涯でした。私たちは、このイエス・キリストの姿に倣って、「共に生きる喜び」を求め続けていきたいと思います。
「この旅路は険しいけれど…共に行こう、主イェスと共に」(新生讃美歌568番)


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-10-02 13:42:31 (128 ヒット)

ガラテヤの信徒への手紙2章19〜21節
使徒パウロの書簡を読むと、彼の宣教活動最大の願いは、全ての人々に、父なる神と主イエスによって与えられる「恵み」と「平和」を伝えることでした。十字架につけられたイエスによって注がれた神の恵み(恩寵)を知ったパウロ。かつてパリサイ派として熱心にキリスト者を迫害し、ステファノを殺害し(殉教させ)た過ちさえも赦し、今は伝道者として用いて下さる驚くばかりの主の愛と恵みへの応答として、苦難を受け入れ、喜んで福音を宣べ伝えていったのです(ローマ8:18-39)。
旧約を通して語られた神の「恵み」とは、神の民・イスラエルの人々と、更にその中でも神に従う信仰深い者にだけ救いは与えられるのだと、多くの人々は考えていました。ところが、イエス・キリストによってもたらされた神の恵みとは、アブラハムの子孫かどうかという血肉によらず、また人間の努力や善行によらず、ただイエスを救い主と信じる者すべてに与えられると、聖霊の働きによって示されていったのです(ローマ5章6章、他)。更にパウロはガラテヤの手紙において、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に住んでおられるのです(ガラ2:19−20)」と証しします。ここでは、イエスをキリスト・救い主と信じる者は、神の目から見ると、罪ある身体は既に死んでおり、キリスト・イエスによる救いが与えられ、キリストご自身が私たちの中に生きておられるのだと、驚くべきことを告げました。つまり、人間に与えられる救いとは、人間の努力や行いは一切関わりなく、神から一方的に与えられる恵み(恩寵)以外の何ものでもないことを宣言し続けたのです。マルチン・ルターは、絶大な権力によって当時のカトリック教会の聖書解釈以外を認めようとしない姿勢にも、恐れず立ち向かっていけた力の源は、「わたしは、神の恵みを無にはしません(2:23)」と告白した、パウロの信仰姿勢に励まされたからです。
かつて、過酷な迫害を受けた日本人の切支丹たちと自分の命を救うため棄教した司祭(ロドリゴ)ジュゼッペ・キアラたちに対する評価は、遠藤周作「沈黙」が発表された50年前から賛否が分かれます。しかし、聖書が語る神の「恵み」とは、私たちが神を信じ続け、最後まで信仰を手放さないという人間の行為によるのではなく、救いに入れられた<キリストのものとなった>私たちを、決して神が手放されないという驚くべき神の愛なのです。
「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです(コリ二12:9-10)」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-09-25 16:31:18 (117 ヒット)

ガラテヤの信徒への手紙2章15〜16節信仰の父と呼ばれるアブラハムは、「“信仰によって”…出て行くように召し出されると、これに服従して、行き先も知らずに出発した(ヘブライ11:8)」と語られます。又、使徒パウロは、ローマ書(3:28他)と共にガラテヤ書でも、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる (2:16)」と宣言しました。宗教改革当時の教会(カトリック)が、余りにも「行い・善行」を積むことを人々に強要し、修道僧として難行苦行を強いられたマルチン・ルターには、聖書の御言葉より、人が神に「義」とされ、救われるのは、「信仰による」(のみ)だと、太陽が差し込むように、彼の魂に真理の光が与えられたのです。宗教改革五百年を経た今、「救いはどのようにして与えられるのか」と問われるなら、一方的な「神の恵み(恩寵)のみ」、そして個々人が神を信じる「信仰(による)のみ」ですと、明確に告白できる喜びに至りました。
 “信仰のみ:Sola Fide”との言葉が改革運動で叫ばれた理由の一つは、当時、キリストが成し遂げられた十字架の贖い(義)によって、人が救われることへの解釈、特に救いの受け取り方が不明瞭だったからです。聖書的信仰に立つ時、信じる者一人一人へ神が直接与えてくださると信じます。しかし当時、救いは、まず教会と教皇(初代教皇は使徒ペトロとされる)に与えられたのであり、民衆はその組織や権威者から授けられなければ、その祝福に預かれないと教えていました(「天国の鍵」の解釈への相違:マタイ16:13−20)。今日、バプテスト教会が行う礼典は、「バプテスマ」と「主の晩餐」の二つです。しかし、カトリックでは七つの聖礼典(秘跡)を教会だけが与えられると解釈しました。
 ルターは当時、「教会」と「教皇」に権威はなく、聖書のみだと、恐れずに語ったため、迫害を受けます。彼はヴォルムスの帝国議会に召喚され、当時の教会の信仰解釈に対する疑問を「95か条の提題」として書いたことを訂正するように迫られた時、居並ぶ政治と宗教の権力者を前にして、こう語りました。「私の誤りが、聖書によって証明され、聖書から間違っていることが告げられ、私の良心が神の言葉によってとらえられない限り、私は何事も取り消すことはできない。私は確固としてここに立つ。神よ、私を助けたまえ。アーメン。」
讃美歌に「信仰こそ旅路を導く杖」と歌われます。杖は道なき道を切り開く時に役立ち、又、疲れを覚えた時に支えとなる具象的な譬えであり、主なる神が力強く守り支えてくださる信仰告白が様々な賛美へとなっています(詩編23篇4節)。聖書の真理、またそれを示して下さる聖霊なる神を信じる時、私たち自身の力によるのではなく、主なる神への信仰によってのみ与えられる救いの喜びと平安が、ルターのみならず、私たちの日々の歩みにも注がれることを体験して参りましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-09-17 22:42:18 (152 ヒット)

テモテへの手紙二3章12〜17節
 500年前の1517年10月31日、ドイツ・ヴィッテンベルク城教会の門に「95か条の提題」が張り出されました。修道僧・マルチン・ルターが、唯一の教会・カトリックに対し、聖書をどう読んでも、当時の教会の教え(煉獄など)が書かれていないことに対する疑問への返答を求めたのです。悲しいかな当時の教会は、聖書に基づく教え以上に、1500年近く続く教会の伝統や人為的な教えが優先され、教会が変化・改革されることを恐れ、ルターを破門するに至りました。それまでもチェコのヤン・フス(1411年破門)や英国のジョン・ウイクリフ(1415年破門)らも聖書こそ、キリスト者の生活基盤となると訴えましたが、処刑され、その教えはもみ消されていました。しかし遂にルターの時代、グーテンベルグの活版印刷技術の助けもあり、95の提題はドイツ国中に配布され、多くの民衆が賛同の声を上げ、それまでのように教会と国家の癒着(政教一致)により権力で押さえつけることが困難となり、ヨーロッパ中に宗教改革のうねりが広がったのです。
 宗教改革においてラテン語で「ソラ=のみ」が聖書から語られ、正に主イエスの御言葉、「真理はあなたがたを自由にする(ヨハネ8:32)」との通り、心と魂が解放される喜びを人々は体験したのです。当時は「5つのソラ」、聖書のみ<ソラ・スクリプトゥラ>、信仰のみ、恵みのみ、キリストのみ、そして神の栄光のみでした。しかし、ルターの宗教改革以降、更なる改革が進み、「神の選び」を語るジャン・カルバンなど今のバプテスト教会の信仰の基盤になる教理が聖書から明示されますが、政教一致など聖書的でない教えがまだ含まれ、幼児洗礼の否定、非暴力を訴えるメノー・シモンズ(1542年逃亡者宣言)たち<後に、アナ・バプテスト(再洗礼派)と呼ばれる>によって、「信仰者のバプテスマのみ」など更なる改革が続きます。そして1612年、イギリス国教会より分離した群れ、私たちバプテスト教会の源流が誕生するに至った (1631年に生じた独立派に吸収された)のです。しかし、今のバプテストの教えが完全だとは信じません。なぜなら今なお宗教改革、いや自らを改革し続けること<新生>を主が求めておられるからです。
    <今回のシリーズは、聖書に基づく5つ以外の
              「ソラ」も分かち合います>
 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です(テモテ3:16)」とあり、宗教改革当時は「教会」や「教皇」に与えられていた権威を否定し、キリスト者は「聖書のみ」に聞き従うこととなりました。こうして、主イエスがニコデモに言われた、「人は、(水と霊とによって)新たに生まれなければ、神の国を見ること(入ること)はできない(ヨハネ3:3-5)」と語られた意味への理解が深まったのです。
 私たちは一度限りの水による新生と共に、日々、生ける神の御言葉<聖書>に触れ、聖霊によって常に“新生”し続ける者として生かされていることを信じ、感謝しましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-09-11 13:47:29 (189 ヒット)

出エジプト記20章17節
「本当に欲しいものは」と問われたら、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。それをじっと見つめながらもう一度、「いや、『本当に』欲しいものは」と問われたら、目の前のそれがまた別のものに変わってはいかないでしょうか。私たちはよく、「自分のことしか考えられない」生き物だと言われることがありますが、本当にそうでしょうか。私たちは、本気で「自分のこと」を考えたことがあるでしょうか。「本当に欲しいもの」はなんですか。
 哲学者キルケゴールの言った「死に至る病」という言葉――その意味するところは、私たちが本気で「自分のこと」を考えてしまったならば、「絶望」に突き当たるということです。栄華を極めた王ソロモンでさえ、「すべては空しい」(コヘレト1章)と述べました。私たちには、また私たちの生きる世界には、限界がある…それに気づいてしまった時、私たちは絶望してしまう…それでは生きていくことができないので、私たちはその絶望を忘れ、満たされないその思いを埋めてくれる何かを求め、自分のところにないならば、と「隣人のものを欲して」(出エ20:17)しまうことさえある。「ここにはない、でもあそこにはあるのではないか」、そうやって他者との境界線を越えて、世界を思い通りにしようとする。そのために時に他者の持ち物を奪い、関係性を奪い(姦淫)、命をも奪っていく。私たちは、「空しい」「ない」ということ、「絶望」を見つめることが恐ろしいのです。
 しかし聖書は十戒を通して、私たちには神さまの「ほかに神があってはならない」(出エ20:3)と語ります。ほかに「ある」ということ自体があり得ない。「わたしはある」(出エ3:14)という神さま以外には何も「ない」のだということ、そのことを認めるようにと語りかけるのです。
 サマリアの女性(ヨハネ4章)は、心に深い「渇き=絶望」を抱え、それを何とかして埋めようとして生きていました。彼女はキリストに、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)と言いました。その時彼女が出会った神さまからの語りかけが、今日私たちにも語られています。神さまが「礼拝する者を求めておられる」(23節)ということ、私が神を(あるいは宗教や信仰を)必要とする以前に、神さまが私を求めておられるということです。私を造られた神さまが、私の存在を、命を、無条件に必要としてくださっているというのです。そのことを私に伝えるために、神さまは何度も語りかけてくださっていたのです。あの「ぶどう園の主人」(ルカ20:9-19)のように。
 私の「本当に欲しいもの」はここに「ある」のです。


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