< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : admin 投稿日時: 2018-03-19 15:07:53 (177 ヒット)

ネヘミヤ記12章27節、ルカによる福音書17章11〜19節
 天地の造り主なる神に「感謝する」行為と言葉とが聖書に数多く記されています。アダムが息子たちと共に神へ献げ物をする記述を筆頭に、人生の節目において感謝を奉げ続けます。聖書が語る感謝の表明の方法には三つあります。第一に、献げ物を神に奉げ、第二に賛美を通して。そして第三に、祈りの言葉によってでした。旧約で「感謝の祈り」との記述は、ネヘミヤ記12章27節だけですが、詩編などには数多く、賛美、また祈りの言葉として神に奉げられ、今に至っています。
神への感謝の祈りの言葉は、個々人の信仰姿勢が表れます。第一に、感謝できることに感謝する信仰。第二に、感謝を先取りして、感謝する信仰。第三に、感謝出来ない事柄でさえも、感謝する信仰です。新約には、主イエスが、十字架にかけられる前夜、弟子たちと共に最後の晩餐を行い、その席で、「杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった(マルコ14:23)」と各福音書記者達は共に記します。ここでは主イエスが、これまでの歩みを神に感謝し、祈られたこと。次に、主ご自身が歩まれる十字架の苦しみによって救いが完成することを信じて先取りして感謝されたこと。そして、ゲッセマネにおける祈りのように、本当であればその苦しみを避けたいとの願いながら、受け入れ難い十字架の道さえも感謝し、祈られました。主イエスの信仰から私たちは実に多くを学びます。
ある日、重い皮膚病に苦しむ十人が、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げて助けを求めました。主イエスは彼らの求めに応え、癒しの道を開かれたのです。ところがその後、主イエスのもとへ感謝を表明するために戻ってきた人はたった一人でした。この九名の姿の中に私たちの姿を重ねてしまいます。なぜなら、困難や課題の最中にあるときは必至で助けを求めながら、問題が解消すると、感謝の気持ちさえも直ぐに薄れていくことが多々ある者だからです。人としてこの地上で歩まれた主イエスは、ご自分に感謝を現すことを求められたのではなく、癒しを与えられる父なる神への感謝の大切さを教えられたのです。「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか(ルカ17:18)」と語り、感謝するために帰ってきたこの人に、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と祝福を与えられました。主に感謝するために戻って来た一人の病人は、身体が癒されただけではなく、神と共に生きる魂の癒し(救い)に預かる者とされたのです。
“常に喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝せよ”と勧めたパウロは「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています(テサロニケ一1:2)」とも語りました。私たちも願わくは、主から、また周りの方々より受ける恵みに応答し、日々、感謝の祈りと賛美、そして献げ物を携え共に歩んで参りましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-03-12 15:01:26 (216 ヒット)

エレミヤ書29章4〜14節
優しさだけじゃ生きられない 別れを選んだ人もいる
再び僕らは出会うだろう この長い旅路のどこかで…
(Tomorrow Never Knows / Mr.Children [1994])

 「出会い」とは不思議なもので、私たちはそれを自分で求めることができるようで、できません。私たちはいつも、お互いと出会っているようで、実はすれ違ってばかり…お互いのことをしっかりと認識することもなく、通り過ぎてばかりであるように思います。自分の人生を振り返るとき、「なぜあの時、あの人にひと声かけることができなかったのか」「なぜしっかりと向き合うことができなかったのか」と思うことがないでしょうか。
 「私たちは出会っているだろうか」という問いは、かけがえのないひとつひとつの命に、私たちが目を留めることができているだろうか、という問いと同じかもしれません。悲しいかな私たちには、出会えない、ということがあるのです。その時は目に留まらず、通り過ぎてしまうということがあります。しかしそれでも、そのすれ違いに終わってしまった出会いが、後に再び訪れる出会いに繋がることがあります。かつての出会い(別れ・すれ違い)が、今の出会いに繋がっているということがあるのです。私たちは与えられた人生の中で、一度は出会うことのできなかったかもしれない命(存在、出来事、言葉、テーマ)と、再び出会っていくそのようなチャンスを、絶えず与えられ続けながら、生かされているのだと思います。
 神さまは、「心を尽くしてわたし(神)を求めるなら、わたし(神)に出会うであろう」(13-14節)と語っています。出会いたくとも出会えずに、通り過ぎてしまう私たちに対して、「求めるなら」と語りかけてくださる神さまは、私たちに先立って、まず私たちに出会ってくださったお方です。私たちが神さまを求めるよりも先に、神さまは「将来と希望を与える」計画(11節)として、私たちのもとにイエス・キリストを送ってくださいました。神さまと出会うことを拒み続ける私たちに対して、神さまは今日も諦めずに、出会い続けてくださっている、語り続けてくださっていると思います。
 私たちは、そのような神さまの語りかけに応えたい。そして恐れずに、お互いとも出会っていくものでありたいと思います。聖書は、70年もの捕囚の生活の中にあった民に対して、その捕囚の地のただ中にあって「その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安がある」(7節)と語っています。それは、状況の違い、痛みの違い、信仰の違いさえも超えて、私たちが隣り人と出会い、共に生きることを願う、神さまからのメッセージです。相手がたとえ、自分たちを「捕囚として送った町」の人々であったとしてもです。
 私たちは、隣にいるお互いと、そのかけがえのない命と、出会っていきたいと思います。そこに、神さまの愛に応える教会の働き、聖書が語る「神の国の平和」が広がっていくのだと信じています。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-03-05 15:32:54 (247 ヒット)

歴代誌下7章11〜15節
 祈る姿勢として聖書には、手を“上げて”“広げて”“置いて”、またある時には“ひざまずいて”祈る姿が記されています。どの姿勢も、神に向かう一人一人の真剣な信仰姿勢の表れであることが分かります。宗教改革を経て存在する私たちの教会は、カトリックの形骸化したものにプロテストし、取り除きましたが、聖書に基づき取り戻す必要もあるようです。
 モーセは神より「戒め」を再度受け取る時、「ひざまずき、ひれ伏し(出エジ34:8)」ます。又、ペルシャの王ダレイオス王に重んじられたダニエルを妬む他の大臣が、彼を陥れる法を定めても彼は「いつものとおり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神の前にささげた(ダニ6:11)」のです。
 そして今日の箇所では、ソロモン王が高慢にならないよう、「わたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす(歴代下7:14)」と神は語られました。私たちは今、どのような姿勢で祈ったら良いのでしょうか。
 詩編95篇に「わたしたちを造られた方、主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。主はわたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊。 (6-7)」とあります。これは文字通りに、ひざまずき、ひれ伏すことを勧める以上に、羊が羊飼いを信頼して地面に伏し、身を低くし、身を投げ出して平安と喜びの中で生かされるようにと譬えを用いて語られました。
 主イエスも捕らえられる直前、オリーブ山でひざまずいて祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください(ルカ22:41-42)」と。この時、完全に人として歩まれた人間イエスの信仰の姿勢を通し、神の救いが私たち人間に与えられたことを使徒パウロは次のように証しします。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです(フィリピ2:6-11)」。
 主イエスのこの姿に感謝し、主を賛美する時、単に身体的に「ひざまずく」ことはなくとも、神は私たちを喜んでくださいます。しかし、もし私たちが神の前にひざまずき祈る心が与えられるなら、人の目を恐れず、ひざまずいて祈りましょう。何よりも神は私たちの心を知っておられるお方ですから。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-02-26 15:22:32 (223 ヒット)

テモテへの手紙一2章1〜15節
 「とりなしの祈り」の最たるものは、主イエスが十字架上で祈られたこの言葉です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカ23:34)」。ご自分を十字架に架けた人々に対し、その罪を問うのでも、報復を願うのでもなく、父なる神に赦し(救い)と祝福を与えてくださいと祈られた主イエス。この時の主の執り成しは、今なお私たち全ての者への罪の赦しへと及ぶのです。  
一般に「執り成し」とは、他者のために代わって誰かが、関係回復を援助する行為です。聖書に執り成す姿は、アブラハムが甥ロトのため、彼の住む邪悪な町ソドムが神に滅ぼされないことを神に執り成す祈りの姿(創世18:16-33)が描かれます。新約では初代教会成立時、使徒たちと共に奉仕した七人の一人ステファノが、信仰ゆえに殉教を遂げる際、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください(使徒7:60)」と大声で叫ぶ姿に証しされました。今日の箇所は、ステファノの死を誘導し、その後復活の主と出会い、劇的回心を体験したパウロが、弟子テモテに牧会書簡として送り、諸教会でも回覧されたものです。ここでパウロは「全ての人々のため」に、願いと祈り、執り成しと感謝を神に献げよと勧めます。「全て」とは、当時の政治を司る邪悪な人々さえも含みました。なぜなら、完全な神であるお方が、完全な人となって地上に来られ、父なる神と人の間に立ち、執り成せる唯一のお方こそ御子イエスであったこと。そしてご自身を人の罪の贖いとして献げてくださったことを感謝し、誰一人として神の救いの計画から除外されてはならないと強調します。これは正に主イエスが語られた「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」との言葉が、イエスにより実践され、その執り成しがステファノへ、更にパウロへと波及し、パウロ自身が執り成され、救われた喜びから語られました。
 正直、8節以降の言葉には驚かされます。現代の視点から読むと、偏見と不信実に満ちた言葉としか思えないからです。「婦人は、静かにし、全き従順を学び、男の上に立ったり、教えたりすることを許さない…。アダムはだまされなかったが、女はだまされて罪を犯した」など。これらのパウロの言葉は、当時の教会における特定の婦人たちの課題を考慮に入れなければ、理解に苦み、普遍的真理として受け留められ難いものです。大切なことは、主なる神が語られた真理の以外、パウロの言葉でさえ、人の言葉として限界があり、神の言葉と同様にしてはならないと知る必要があります。つまりパウロも一人の弱き人間であり、彼のためにも執り成しが必要であったのだと聖書は今日、語りかけているのではないでしょうか。
 現代に生きる私たちも、罪深く不完全な者であり、今もなお主イエスに執り成され、赦され、今ここに生かされています。だからこそ、「主よ、互いに執り成しながら歩ませてください」と祈り合いましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-02-19 15:25:38 (272 ヒット)

コリントの信徒への手紙二4章16〜18節
福岡女学院大学初代学長、岩橋文吉先生は「人の精神的飛躍はより優れた精神との出会いによってなされる」と言われたことを思い起します。私たちの精神的飛躍をもたらす人との出会いも私たちを深く愛しておられる父なる神様によって与えられます。
靖史先生のお父様である友納徳治牧師は高校時代に重い結核を患って入院していた時に、当時西日本新聞の文芸欄担当記者であった叔父、伊藤整さんが徳治さんを見舞って下さり、「君は病気をして何を失ったと思っているの?」と尋ねられて、即座に「青春です」と答えます。すると思いがけない言葉が跳ね返ってきたのです。「それは大変な思い違いだ。君は青春とは、美しい少女に出会い、音楽会、読書会、サークル活動。旅行、誕生パーティ。それにスポーツ、映画、観劇に…と思ってはいないかい。それらはすべて青春らしい生活形式であっても、青春そのものではない。例えて言えば蜃気楼、砂漠の中の幻影のようなものだ。それを追い求めていると、やがて疲れ果てて、人生そのものに幻滅を抱くことになる。…
 形だけの青春が失われることは、真実の青春が失われることではないのに、君は青春を失ったと言う。その喪失感により、君は死を恐れ、不安を抱いている。しかし、その青春の喪失感を君の魂の深みへと導いてゆく鉛糸だと思い、怖れずに自分の内なる声に届かせるといい。」と語るのです。深い言葉です。74歳になられた友納先生がその時を回想しながら自分に語られた伊藤整さんの言葉を思考に思考を重ねて表現した言葉です。
友納少年が「僕は青春を失った」と言い切ったとき、青春時代の見える形、一般の人々が楽しむ青春の様々な形を失っただけであり、自分はどこから来て、どこに行くのか?自分の存在の意味があるとしたら、何をもって意味があると言えるのか?自分の存在が死と共に無となり、それで終わりなのか?等を問いながら生きることも、それは形には現われないけれども、青春の大切な一部なのだと伊藤整氏は諭したのです。
 友納徳治先生は今紹介しました伊藤整氏の言葉を、『生きぬく力』(伊都文庫、2009年)の中で述べているのです。そして、伊藤整さんが語られた青春らしい生活形式を「目にみえるもの」、青春の本質的姿を「目に見えないもの」と言い換え、「この“見えるもの”と“見えないもの”の区別、識別は、その後も自分の基調音として脈打っている」と見事な文章で表現しています。私たちも「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」ことの大切さを聖書から学びましょう。


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