< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
礼拝ビデオをご覧下さい
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投稿者 : admin 投稿日時: 2007-05-06 10:31:17 (1674 ヒット)

5.6主暦2007No.2986
マタイ7:24−29
児玉振作
 何を土台として生きるか、このことは  人間としては申すまでもないことですが、クリスチャンとしては特に大切なことです。なぜなら教会員一人一人の信仰の基盤が、同時に教会のよって立たすところとなるからです。
 ここでイエス様は、岩を土台とした家を建てた賢い人と、砂を土台として家を建てた愚かな人とを例にしてお話になっています。わかりきった当然なお話ですが、知らず知らずの間に、愚かにも砂の上に家を建てようとする愚かな行動に走ってしまうことはめずらしいことではないのです。それは私たちの内なる罪の結果です。聖書はこの原理について示されています。これから逃れる道も、岩なるイエス・キリストによらねばならないのです。
 岩なるイエス・キリストの上に立つとき、この誘惑からも逃れることができるのです。私たちの信仰はいつもこの岩なる、救い主イエス・キリストのもとに立ち、まったき信仰のもと御言葉に突き進むことです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2007-04-29 11:47:53 (2047 ヒット)

4.29 主暦2007No.2985
詩編16:8−11
篠 松次郎      

 詩篇は主イエスが生まれる前、長い期間を
かけて書かれた信仰の詩です。詩篇には私た
ちの心打たれる詩が多い。神への賛美、恵み
への感謝、あるいは嘆きや訴え等、神へ向け
飾りのない言葉で素直に自分の思いや感情を
ぶつけている。
本日の詩篇16編の聖句もその一つである。           「わたしは絶えず主に相対しています」、口語訳では「わたしは常に主をわたしの前に置く」、英語訳では「I am always aware of the         Lord’s presence」となっている。皆さんは主をどこに置いているでしょうか。「後ろに」置いている人は、いつも自分が先で、自分のために神がいて、神は自分を助けてくださる方に過ぎないという呼びかけだけの信仰になっている。「上に」置いている人は、神を奉って、神を生活の真ん中に迎えず、思いだけ、言葉だけの信仰になっている。「下に」置いている人は、日常生活に埋没して神のことを忘れている。ダビデはここで、神は私を導く方、私の従うべき方として、時々ではなく「絶えず」「常に」「主をわたしの前に置く」信仰の姿勢が大切だと言っています。
そうすれば「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います」。私たちが悩み、苦しみ、八方ふさがりになった時でも、唯一の道と癒しは、神に全き信頼と主権を置き、神に目を向けることである。このような信仰に立つ時、私たちは心の平安、完全な喜びを得ることができるのである。
そしてそうすることによって主は「命の道
を教えてくださいます。わたしは御顔を仰い
で満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜
びをいただきます」。私たちは日々、職場や家
庭で課せられた仕事を精一杯こなしているが、

自分が一体どちらに向かって歩いているかが
わかっていない。神に結ばれ他のどこでもな
く神の内にとどまっている者だけがこの「命
の道」を得ることができるのである。
「主をわたしの前に置く」時、私たちは「命の道」を示される。神の御子であるイエス・キリストに従う信仰を持つとき、私たちには永遠の命が与えられる。



 


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-04-23 13:10:45 (1780 ヒット)

4.22主暦2007No.2984
コリントの信徒への手紙二 4:18
工藤渓子

本日、中国のキリスト者の方々を当教会にお迎えしたことは教会にとって大きな喜びであり、心よりの歓迎を申し上げます。
 私の少女時代から青年時代の間は、中国と日本との関係は大変不幸な状態にありまして、戦争によって中国の方々に多大な苦しみや悲しみをもたらしました。そのことを思います時、今も心が痛み、お詫びの言葉を禁じ得ませんけれど、今こうして、キリストによる和解によって共に礼拝を捧げることが出来ますことを深く感謝いたしております。

 福音書を読みますと、イエスさまの周囲には、信仰の自由に生きた個性的な幾人かの女性たちの姿が記されております。それらの女性たちは、イエスさまに出会い、イエスさまのみ言に聴き、そしてイエスさまが示された目に見えない世界を理解したのでありましょう。かくてイエスさまを信じ、イエスさまを愛し、そのことを原動力として、当時の厳しい律法社会にあってなお、自由に勇敢に行動したのだと思います。 聖書は一貫して、目に見える世界から目に見えない世界への価値の転換を説いています。
 当時から2000年を経て、著しく経済が発達し、科学が進歩し、目に見えるものが、強力に渦巻いている現代に生きる私共ですが、もし目に見えるもののみに目を向けて、目に見えない世界、即ちすべての源であって神の生命の働き給う世界を見落すならば、全てのものの根源を見失うことになるでありましょう。
 技術革新はこれからますます急速に進められ、やがて私共の想像を超えた社会が形成されていくと思われます。しかし技術革新がどんなに進み、社会の様相がどのように変化しようとも、イエスさまが語られたみ言が、その力を失うことは決してないと信じます。
そのみ言に希みを託し、み心を求めつづけてゆきたいと願っております。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-04-16 13:10:40 (1867 ヒット)

4.15主暦2007No.2983
出エジプト14:10-18
赤塚バプテスト教会 牧師 石堂雅彦

私たちの信仰生活で忘れてはならないこと、おぼえておかなければならないこと、それはイエス・キリストの救いです。ところが、このことを忘  れてしまっていることが何と多いことでしょうか。試練が起こってくる。それがなかなか解決しない。すると、自分は何と不幸なのか何でこんなに苦労しなければならないのかと失望し、イエス・キリストの救いが見えなくなってしまう。しかし、私たちは主の救いを見続けるのです。目の前には、いろいろな苦しみはあるけれど、私たちが主の救いをいただいたことに変わりはありません。私たちはこのことを何よりも、私たちの喜び、希望としていくのです。御利益信仰は今、目の前のことが解決すれば、うまくいけばそれですべてよし、という信仰ですが、私たちの人生、そんなうまい話、甘い話はありません。聖書ははっきりと私たちの人生には試練がある、苦しみがあると語ります。しかしそのような状況の中でも、生きていける、立っていけるということを示します。
今日お読みしました聖書はモーセとイスラエルの民の荒野の旅路での出来事です。神様はモーセをイスラエルの指導者として用い、イスラエルの民がエジプトで奴隷状態にあった時、エジプトから解放させてくださいましたが、その後の荒野の旅は決して楽なものではありませんでした。しかし、イスラエルの民はただ苦しみにあっただけではありません。そのことを通して、神様の栄光が表わされたのです。そうであるならば、私たちに起こってくる苦しみ、それはただの苦しみに終わらず、その苦しみを通して、神様は大切なことを示されるのです。出エジプト記14章14節に「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」とあります。主に委ねよ、ということです。主に委ねて生きる。そこにこそ、私たちの進むべき道があるのです。試練の中に、苦しみの中にある時、そこで主が私たちに示されていることは何かを聴き、そこでも主が共におられることをおぼえて、主に委ねて歩んでいくのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2007-04-08 20:21:03 (2084 ヒット)

音声メッセージ、大変おまたせいたしました。

  • 讃美 おおイエスよみがえりて グレースアンサンブル

  • 讃美 もしもキリストがこられたら 有銘千津子

  • 讃美 墓の中にいと低く 聖歌隊

  • メッセージ 死の力を打ち破る 渡部 信


  • 今週の週報巻頭言はありません。


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