< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
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投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-08-24 19:22:11 (2283 ヒット)

8.26主暦2007No.3002
出エジプト記 13章21〜22節
谷本久美子

旧約聖書の最初の書の「創世記」に続いて「出エジプト記」というモーセという偉大な指導者が登場する書があります。
 紀元前14世紀から13世紀頃になりますがその「出エジプト記」には当時のエジプトの王が,自分の領土内に寄留しているイスラエルの人々が増え続ける事を怖れて、迫害をしていたことが記されています。モーセは生まれると直ぐこの王の命令で命を落とす所だったのですが、モーセはレビ人の母親の手によってパピルスで編んだ籠に入れられ,ナイル川の葦の茂みみの中に置かれました。そして様子を見ていると丁度そこで水浴びをしようとして来たエジプトの王女によって助け出され、育てられる事になりました。
 けれども成長する間に自分がイスラエル人である事を知り、エジプト人に打たれている同胞の民を見て、そのエジプト人を殺してしまいます。彼は追求を怖れてアラビア半島へ逃れ、そこで羊を飼っていました。
 ある日、シナイ半島へ羊を追いながら行った時「神の山」といわれるシナイ山で、燃えているのに燃え尽きない柴を不思議に思って近寄って見ているときに、神からのみ声を聞きます。
 それは「エジプトからイスラエルの民を連れ出しなさい」というみ言葉でした。あまりの大役にモーセは拒みますが、「私が先に立って導く」という神のみ言葉を信じて,エジプトから女、子供を数に入れずに約60万人のイスラエルの人々を率いて脱出をいたします。エジプトからシナイ半島へ渡るとき「葦の海」を通らねばなりませんでしたが、神は夜もすがら強い東風をもって海を押し返されたので海は乾き、エジプトの軍勢から逃れ、民は渡り切ることが出来ました。それからも荒野に導かれた彼らの前には幾多の困難が待ち受けていましたが、神が常に先立たれ「昼は雲の柱,夜は火の柱」となって、まどろまれる事無く民を守り導かれました。
 人生にはこの渡らなければならない「葦の海」があったり、「荒野」にさまよう事がありますが、神は常にモーセのように神を信じて歩む者を守られます。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-08-17 07:35:14 (1926 ヒット)

8.19主暦2007No.3001
コリントの信徒への手紙一 13章1〜13節
教会主事 林健一


『小さいことは自由、大きいことは一致して、すべてに愛をもって』
この言葉は、私たちキリスト教会が求める姿であり忘れてはならない言葉です。
 私たちは罪から救われて神の家族となり常盤台バプテスト教会に導かれました。私たちはそれぞれの人生の歩みのなかで、共に神さまを礼拝する者として呼び集められました。私たちはお互いに違いはありますが神さまを礼拝する者として一つにされたのであります。
 『すべてに愛をもって』これはキリスト者としてとても大切なことです。伝道するとき、奉仕をするときあるいはお互いの交わりのなかにおいて愛をもつことが大切であるということです。けれどもこの愛は私たち人間のもつ愛ではありません。愛という言葉を聞いたときに私たちは躊躇します。それは私たちの中には愛がないことをよく知っているからでしょう。それゆえに私たちは
すべてに愛をもつことが不可能であると考えるのです。
 しかし、ここでパウロが言っている愛は人間の愛ではありません。主イエス・キリストの愛であります。神さまの愛であります。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:9)
主イエス・キリストの愛をもつことによって、私たちのなかに初めて『すべてに愛をもって』が実現されていくのです。主イエス・キリストの愛をとおして私たちは愛することの喜び、すばらしさを知っていくのです。
 忘れてはいけないのは、主イエス・キリストの愛によって私たちは新しく生かされる者となりました。カリスマこれは賜物という意味です。私たちを生かす最大のカリスマ・賜物として父なる神さまは主イエス・キリストをお与えくださいました。主イエス・キリストの愛は私たちを生かす最大のカリスマ・賜物なのです。この賜物によって私たちは生かされていくのです。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-08-12 12:56:38 (2101 ヒット)

8.12主暦2007No.3000
コロサイの信徒への手紙 3章18〜24節
渡部信協力牧師


 私たちは1週間に1度、教会に集まり礼拝の時を持ち、交わります。しかし、それ以外の6日間はどのように過ごしているでしょうか。また過ごすべきなのでしょうか。
 信仰とはまず、神様と私の関係なのですが、私たちは1週間の生活の中で、一緒に住む周囲の人々との関係も無視できません。それぞれが、違った立場を持って過ごしています。子供の立場、親の立場、夫の立場、妻の立場、嫁、婿の立場、上司や部下の立場、友達との関係などです。そこで今日の聖書のメッセージは「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。そのことが、あなたがたは、キリストに仕えているのである」といみ言葉に注目したいと思います。
 私たちは肉の思いの生活をしていますから、相手を肉の人としてみています。わがままな夫、口答えする妻、頑固な父、口やかましい母、言うことを聞かない子供、いじわるなしゅうめ、ひねくれた嫁、けちん坊な親戚、身勝手な友達・・・・などなど。そう思うと時に、イエス・キリストを主として信じている私たちには、その相手を肉の人としてではなく、主イエス様だと思って使えることができるなら、そこに神の国が訪れるのです。
 使徒パウロは具体的に、親はどのように、子供はどのように、妻はどのように、夫はどうのように振舞うべきかを聖書の中で語りました。その根幹には、家庭の中心にそれぞれが主イエス様に仕えるように振舞うように教えているのです。またそれは友達関係に、仕事の上司や部下との関係にも応用できます。この主イエス様に仕えるように仕えることは、
そこに真の和解と平安、平和と喜びをお互いの関係の中に築くことになります。そしてそこに主の御名が賛美され証されるのです。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-08-03 11:28:33 (1877 ヒット)

8.5主暦2007No.2999
マルコによる福音書 4章1〜20節
佐野芳朗



 良き地に蒔かれた種の「良き地」。この譬えは私たち信仰に入った者に対して、どんなに大切であるかを教えられたものです。  
イエスはこれをガリラャの海辺で語られました。大勢の人々がイエスさまから神の国の福音を聞こうとして来ている。あまりにたくさんなので、イエスさまは、舟に乗って少し沖へ漕ぎ出させ、そこから語られた。かなり長い時間ですから、聞く人たちは海辺にずっと座り込んでいる。その様子を想像して下さい。
今は夏です。これから本格的な海のシーズンに入ります。海辺に行かれる方もおられると思います。
聖書を読む時大切なのは、常にイエスさまが見えて来なければなりません。また、み言葉は常に特定の場所で語られる。また、そこに集まって来た人たちも何かを切に求めている。みんな仕事を置いてそこに来ている。そして、イエスさまから人間として大切なことを聞こうとしている姿がある。イエスさまはそこでどんなことを話されたか。
「神の国の秘密」とあります。あなた方にはそれを語るが、一般の人には譬えをもって語る、と。だからイエスさまの言葉はほとんど譬え話であります。
しかし、私たちが信仰をもってそれを聞きますと、汲めども尽きない神の国の秘密がそこに隠されている。弟子たちもまた、すでにみ言葉を受け入れる準備ができていた。それは神から特に選ばれたということです。
 そして、イエスさまからもたらされた神の秘密を自分たちの心に受け入れる。そこには、心の準備ができている。信仰が与えられている。ですからイエスの語られることを何の疑いもなく素直に受け入れる。
 そして、もう一つ大切なことは、神の言葉が人となってこの地上に現れて、そして語られているということです。神の言葉が、ただどこからともなく聞こえてくるということでなく、イエス・キリストという神のひとり子を通して語られている。その姿は人の姿を取って来られた。そしてわれわれと同じ地上の生活をされた。しかも、われわれの想像もできない苦難の生活をなさり、それを通して語られるのです。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-07-29 16:08:00 (2286 ヒット)

7.29主暦2007No.2998
使徒言行録 11章19〜26節
シンガポール宣教師 岡村直子
主の御名を讃美します。日本バプテスト連盟の宣教師としてシンガポールに派遣されて3年たちました。連盟に連なる諸教会の皆さんのお祈りや献金のご支援をいただいて、かの地での福音伝道生活が支えられていることを心より感謝しています。
 連盟は327もの教会・伝道所からなる大所帯ですので、帰国しても全部の教会・伝道所を回ることができませんので、「バプテスト誌」や女性連合の「世の光」などの機関紙に時々、報告を送らせていただいています。なかなか、顔と顔を合わせてということができない状況ですけれども、顔と顔を合わせてということは大きな意味を持っていますね。互いの存在を身近に見て、雰囲気や臭いを感じて、という具体的なことが祈りへとつながっていくと思わされます。
 先月、ある方々が宣教師としての私を歓迎し、ねぎらうために個人的に食事に招いてくださったときのことですが、私は生まれて初めて味噌汁のお椀をひっくり返して味噌汁をひっかぶるという粗相をいたしました。初めて共に食事をする方々だったので、無意識の緊張のうちに手がすべってしまったのでしょう。招いてくださった方々もびっくりし、私も大変恥ずかしい思いをしました。味噌汁が飛び散る被害は他の人には及ばなかったので感謝したことでしたけれども、お互いにやっぱり長く忘れないことだろうと思います。祈るときにあのそそっかしい岡村直子宣教師が守られますようにという祈りへと主は導いて祈りの援護をしてくださるでしょう。
 互いに心をこめて祈りあう、という関係は大変大事だと私たちは知っています。今日の箇所から、パウロの場合を見てまいりたいと思います。シンガポールに3年住み、宣教師として見えてきたこと、思うこと、祈りの課題やこれからのビジョンなど、共有できたら幸いです。主の御名が崇められますように。

岡村直子先生のプロフィール
1950年 東京都出身
1972年 青山学院大学卒
1975年 米テキサス州ヒューストン、サウスメインバプテスト教会にて受洗
1991年 西南学院神学部専攻科卒
1991年4月〜1995年4月
      福岡国際キリスト教会副牧師
1995年4月〜2003年12月31日
      同教会牧師
2004年4月
      シンガポール宣教師としてシンガポール国際日本語教会牧師に就任
      現在に至る。


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