< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 巻頭言と礼拝ビデオ - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
礼拝ビデオをご覧下さい
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投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-06-15 12:11:04 (2183 ヒット)

6.17主暦2007No.2992
マタイ9:35〜38
米澤範宣


私たちの聖歌隊は外へ向かって伝道する活動の一つとして、2年ごとに伝道演奏旅行を行っています。今年がその年に当たり、14回目を数えることになります。今回は沖縄へ行くことになり、10
月12日に胡屋バプテスト教会で「世界食料デー」協賛のコンサート、13日は首里バプテスト教会で讃美コンサート、14日は讃美による主日礼拝を予定しています。それぞれの集会がよい集会にな
りますよう、参加する隊員の健康が支えられ、よい働きが出来ますよう、またそれらの教会のことも覚えてお祈り下さい。
 さて使徒言行録1:8には「地の果てにいたるまで、私の証人になる」とイエス様が言われたと記されています。「私の証人になりなさい」というわけです。イエス様は地の果てまで福音を語れと言
われただけでなく、この福音と共に、私たちはイエス様の証人として参加するように言われているのです。証人というのは、裁判で証拠を証言する人のように、事実を証しする人です。
 クリスチャンは牧師であろうと宣教師であろうと、執事であろうと信者であろうと、あるいは最近バプテスマを受けてクリスチャンになった人であろうと、私たちはキリストの証人であると、聖書は
はっきりと言っています。イエス・キリストを知ってからこうなった、こう変えられたと言う人、これはみな立派な証人です。いつも導きが与えられ、守られていると言う人、これも証人です。事の大
小は関係ありませんし、信仰生活が長いからとか短いからとかいうのも問題にはなりません。私たちクリスチャンは例外なくキリストの証人であり、キリストのことを証しし、キリストのために働くよ
き働き人でなければならないという、クリスチャンとしての基本的な姿勢を自覚しなければなりません。
 イエス様はこうも言われました。「誰でも人々の前で私を仲間であると言い表す者は、私も天の父の前で、その人を私の仲間であると言い表す。しかし人々の前で私を知らないと言う者は、私も天の
父の前で、その人を知らないと言う」これほど確実に祝福が約束され、与えられることはありません。人の前で「私はイエス・キリストの証人です」とはっきり言い表す、よき働き人になりましょう。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-06-09 15:19:04 (2152 ヒット)

6.10主暦2007No.2991
マルコ10:46〜52
児玉振作 協力牧師

私たちの信仰はキリスト信仰です。みことばにたつ信仰です。だからみことばに従う信仰ということがいえましよう。私たちの信仰は、聞くことから始まり、主を仰ぎのぞむ、見る信仰へと導かれるのです。マルコ福音書10:46−52には、盲人で、物乞いをして生活していた、バルテマイという人が、人々の制止も聞かず、イエス様を呼び続け、救いに預かり、イエス様に従っていった出来事が記されています。彼は盲人で、物乞いをしていました。しかし彼のイエス様に求めたものは、この世の見えるようになることでもなく、物質でもありませんでした。救い主による救いだったのです。イエス様のお許しを得たバルテマイは、上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエス様の前に進み出ました。私たちがみことばに導かれ、主にお会いし、救いに預かるためには、まず主を求め、上着を脱ぎ捨て、裸になって主の前に進み出ることです。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-06-05 15:58:32 (2449 ヒット)

6.3主暦2007No.2990
使徒言行録4:23〜31
渡部 信協力牧師

先週、教会の暦では聖霊降臨祭、ペンテコステを迎えました。十字架上で私たちの罪をあがない死なれたイエス様は、3日目によみがえり、新しい命を私たちに示され、そして40日目に天の父の御座に昇られました。その時に、お弟子さんたちに聖霊を私たちに送ることをお約束されました。聖霊とは、父なる神様と、父なる神様から遣わされた主イエス・キリスト、そして主イエス・キリストがお約束くださった助け主である「神様の霊」のことで、父、子、聖霊の3位は共に同じ神様を顕現されたペルソナ(位格)として聖書に記されております。分かりやすく申しますと、聖霊様は神様自身でもあり、霊なるイエス様自身でもあるのです。神様を信じ、イエス様を神の御子と信じる者は、また聖霊の働きなしには信仰を持つことはできません。
 お弟子さんたちは、その約束の聖霊を受けた時、大胆にイエス様は神の子であり、神様から遣わされた救い主であることを証しするようになりました。それのみならず、イエス様が持っておられたその権威を担う働きまで行ったことが使徒行伝に記されています。
聖霊はいろいろな形で人々によって理解されて来ました。聖書は、真理の霊として、真理の全てを明らかする霊として、また愛、寛容、慈愛、平和、善意・・・のように神様の性質の内実を表す言葉として記しています。しかし、聖霊とは私たちの行いや感情の一部では決してないので、正しくは、罪をあがなわれ、復活し、永遠の命にいますイエス様ご自身が、私たちの内に聖霊の形でお住みになられる信仰の出来事として理解すべきでしょう。
クリスチャンはイエス様と共に信仰生活を送る時、イエス様の御名によって行動する時、「美しの門」にいた足の不自由な男の人の足がいやされ、奇跡が起こされたように、天の遠くにいます神様の存在が、私たちの身近に働く神様の存在という、今までにない別な形の信仰生活が始まることを意味しています。そしてそれはまさに教会の働きそのものであり、教会はこの業を継承している信仰共同体であることをもう一度確認したいと思うのです。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-05-27 18:26:48 (2038 ヒット)

5.27主暦2007No.2989
ローマの信徒への手紙14:7〜9
藤川昌也


人間は美しいものを見、きれいな衣服を着、美しいものを聞く、またおいしいものを味わうのに、それぞれ感覚を与えられています。すなわち人生を楽しむなど、神の恵みを受けています。従って、見ること、聞くこと、味わうこと、楽しむこと自体が悪いことではありません。
 しかし、ここで少し聖書をとおして考えることがあります。それは、人生は神のものと言う聖書の示す人生観と、唯自分の人生を、自分の為に、エンジョイすることとは果たして矛盾しないだろうか、という問題です。言い換えれば自己中心の人生観か、神中心の人生観かです。
 使徒パウロはこの点について、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14章7〜8節)と言っています。これはまことに徹底した「人生は神のもの」と言うキリスト者の信仰です。この人生観から出発して「食べるにも、食べないにもすべて神の栄光を現すように」する暮らしの立て方が生まれて来るのです。そして人生を設計する人にとっても正しい信仰に基づいた判断ができるようになるのではないでしょうか。
 私たちにとって「主のために」ということは、自分が主のものである。それを感謝し続けているということです。そこで主の恵みは現れるのです。
 旧約聖書の出エジプト記に、モーセは、「どうか主がわたしたちのうちにあって一緒に行ってください」と祈りました。主なる神がいつも一緒にいてくださるという確信に根ざす祈りです。主のために生きるというのは、私たちはいつも主と共に生きるということが言えるでしょう。教会生活、社会生活、また家庭生活を通じて常に神第一が問われています。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-05-20 18:44:39 (1944 ヒット)

5.20主暦2007No.2988
使徒言行録4:1〜14
郷 秀男


 「唯(ただ)一つ(ひとつ)の道」       
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
                 使途言行録 4章12節
これ以上、大胆に語る救いの言葉はありません。
イエス様の十字架と復活の出来事をとおして、ペトロたち弟子たちは復活されたイエス様に出会い、ようやくイエス様がどのような方であったか理解出来たのです。
十字架に架けられたイエス様は「神に呪われた者」ではなくて、その正反対にイエス様こそが神の子キリストであったとの確信は受難と復活を信じる信仰と同時に、預言者によって預言されてすべてのユダヤの人々が待ち望んでいた終末の救いが必ず実現すると言う信仰が与えられたからです。復活後の出来事を弟子たちはつぶさに見つめて、地上で宣教活動されていたイエス様との交わりを想い起こすことにより初めて理解することが出来たのでありましょう。
ペトロはハッキリと大胆に言います。
私たちを本当に救いに導く事の出来る権威のある方は、その方はただひとり、イエス・キリストであると言い切ります。時代を超えて世界を越えて誰であってもイエス・キリストの名による以外に救われる道はなく、イエス・キリストの名によってこそ救いに至る唯一つの道なのです。
私は教えていただきました。
だから教会は幸せな場所なのだと。


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