< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 読み物・教会ダイアリー - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
投稿者 : ws 投稿日時: 2007-11-02 00:29:48 (1906 ヒット)

証:MGさん(女性会)



MGと申します。父がこの教会に来ていたので、赤ん坊の時からずっと来ていました。そのへんも含めてお話したいと思います。この四月に韓国の教会に行ってきました。オンヌリ教会、ここはメガチャーチという、何万人もいるような教会です。みなさんひとりひとりが「使徒行伝の続きを書く」ということで、教会が大変成長しているところです。 教会の日曜学校の教師をしている時によく子供たちに言ったんです。「パウロさんはこの人に教えて、その人はあの人に教えて、というふうに伝わって、今あなたがいる教会になっているの。二千年続いているこの流れを止めないでね」と。

オンヌリ教会の「使徒行伝の続きを書く」といったことを聞いた時に、そのことを思い出したんです。では、私がその続きを書く前に、続きがどこから来ていたかというと、父がここの教会員であったということなんですね。私が小学科の時は、斉藤孝義さんが科長でした。だんだん年をとると、世代が近くなってしまうんですけれども。クリスマスには、先生の指導のもとに、ページェントなどをしていました。四年生の時の担任の先生は、誠一先生のお姉さんの幸子先生で、そういう中で育てられてきました。

中一の時の春に、母と姉がバプテスマを受けて、父と母と姉がクリスチャンになって、取り残された気分になったんですね。でも、ミッションスクールに通っていて、宗教委員もやって、お勉強もそこそこやって、自分に欠けるものはないと思っていたんですね。バプテスマを受ける必要はない、でも、受けなければクリスチャンホームとは言えない、三人がクリスチャンで私だけが違うということで、あせりとか疎外感を感じていました。

その年の秋に、宗教委員をしていたんですけど、文化祭で宗教画の複製をずっと並べて、解説を書くという催し物がありました。その時に担当した絵が、「ゲッセマネの祈り」という、イエスさまが岩の上で祈っている絵と、それから、イエス様がドアのところでノックをしている絵でした。それまでの私にとって、イエス様はCSで聞いているから、スーパースターでした。ですから、なぜ、イエス様がこうして苦しんで祈らなくてはいけなかったかという、そこに突き当たったんです。それまでは、ユダヤ人がイエス様を十字架につけた、とそういう感覚でした。私がつけたなどとはおよそ思っていません。悪いユダヤ人が、そしてそれまでイエス様についていた群衆までが群集心理で、十字架につけたと、そう思っていました。でも、ゲッセマネの苦しい祈りのことを思った時に、ああ、これは私のためだったんだということ、私のために十字架にかかられたんだということ、そして復活したイエス様が、私のために外でドアをたたいてくれているんだということに気がついて、それから求めて、バプテスマを受けさせていただいたんです。

ちょうどそのころ七十年代で、教会が、社会とどう関わっていくかということでかなり荒れました。安保とかいろいろありましたし、世の中が変わっていく時だったので、教会の中にもそういう嵐があって、青年が減ったり、また過激な行動に走る方もいらしたりした後です。私が中学生の時、機構改革などがあって、私の上の学年の人がどっさりいなくなってしまいました。少年少女会、方舟会の解体などがありました。私にとって楽しいはずのところであった教会が、上の人がいなくなった中で、どのような教会生活を送っていくのか。微力ながら少年少女会でうどん屋さんを開いたり、それをまた教会の方たちが認めてくれ、応援してくれたりしました。あるいは青年になった時にはCSの教師をしていました。

それから茗荷谷に株分けして伝道所を開くという時に、両親が行くことになったんです。そしてその核となるファミリーとして、私も行くようにということで、その時に協力牧師として茗荷谷に派遣されることになった内藤先生に何度も説得されて、お手紙もいただいたんです。けれども、その時は教会学校の小学科もシステム的に整っていなかったことや、奉仕者が足りないということがあって、そのことに毎日、私は必死でした。召命感をどうしても茗荷谷のほうに感じない、というわけではないんですけれど、やはりこちらのほうのCSに召命を感じたので、やはりそのままずっと常盤台にいました。その後、結婚して、子供は今一番上が二十四歳、次が二十一歳、次が飛んで九歳という、ちょっと年齢差ファミリーなんですけれども、そういうことでこちらで教会生活を続けさせていただいているのが、私の自己紹介です。

今日、何を話そうかと考えた時に、父がなぜ教会に導かれたのかということを話そうと思ったんですが、自分のことを話さないのはインチキだと主人に言われたんです(笑)。けれども、「使徒行伝の続き」ということで、紹介させていただきたいと思います。

私の父は今、八十三なんですけれども、ここの教会に導かれたのは戦後で、結婚して長女、私の姉が生まれる前後でした。
でも、その前に父が聖書に触れたのは子供の時で、戦前なんです。どういう形で触れたかというと、森永製菓の創始者である森永太一郎さんという方が、自分の家のお庭を開放して「森永ガーデン」と呼んで、夏期学校を開いていたんですね。夏休みになるとそこで聖書の勉強をして、皆勤賞を取ると教会のほうで表彰されたりしたそうです。その子供の時の思い出があって、その後、戦争に持って行かれてシベリアに抑留されて帰ってきて、そして結婚して子供が生まれるという時に、自分の生き方をふりかえって、子供の時に触れたみ言葉にもう一度返りたいと思ったそうです。

そのころ、アメリカはトレーラーを持ってきて、あちこちの街角で伝道していたそうです。「青年よ、キリストへ」ということでやっていて、そこでいくつか暗唱聖句を覚えると、聖書をいただけるということだったようです。そういう催し物に参加して、そして住んでいたのが志村だったので、ここの教会を紹介されてずっと来ていました。

では、その前のルーツである森永さんはどうなのかということで、ちょっとお話ししたいんです。(持ってきたお菓子をみなさんに紹介して)森永のこの昔のキャラメル、これが「エンゼルマーク」なんですね。今の森永のキャラメルは、アルファベットで「Morinaga」とあるんですけど。森永さんという人は佐賀の出身でしたがおうちが没落してしまったので、立志してアメリカに向かい、最初は佐賀の焼き物を売りに行ったそうです。それはうまくいかなかったんですけれども、クリスチャンの家庭に雇われて、そこで信仰に出会ったんですね。そして、お菓子の技術もそこで身につけられたんです。でも、自分はお菓子で身を立てるんじゃなくて、伝道者になりたいということで、いったん日本に帰られたんです。けれども、やはりうまくいかなくて、まずそうした事業を成功させてから伝道しようということで、もう一度アメリカに渡って技術を磨いて、日本に帰って来られたんです。

最初は、マシュマロだったんですね。モーセが荒野で食べ物がなくなった時に降ってきたという「マナ」が、綿菓子のようなマシュマロのようなものだと聞きました。そのマシュマロを売ろうとしたんですけれども、日本の気候と、当時の日本人の味覚に合わなくて、ほかの物から売れていったそうです。売る時に、箱車で売るんですけれども、その箱車には聖句が書いてあるんですね。

 「キリストイエスは、罪人を救われるために世に来たまえり。義は国を高くし、罪は民を恥ずかしむ

という言葉が書かれていて、まずはそういう行商から始めたそうです。それでどんどん成功していって、でも、彼の心の中には常に伝道があって、ただお菓子でもうければいいということではなく、同時に教会を支援したりしました。商売に夢中になっていったん信仰から遠ざかった時もあるんですけど、その後また起こされました。

父が行った森永ガーデンは、幡ヶ谷なんですね。幡ヶ谷のそのお屋敷を開放していたようなんですけれど、最近それが具体的になったんです。というのは、娘が最近、ひとり暮らしを始めて、幡ヶ谷に引っ越したんです。私は、幡ヶ谷がどこだかも知らなくて、でも、なんだか聞いたことがあるなと思ったら、父が話していたところだったんですね。でも、若い時は、そういう親の言うことに興味がないというか、それこそ、信仰を先に広げるということはあったけど、もとを知るということには興味がなかったんですね。それで父は一度、森永さんの屋敷を訪ねたいということで、娘の引っ越しをきっかけに探しに行ったそうです。一度目は冬で、父は足が悪いので見つからなくて、それでまたこの春に行って、場所も探し当てました。それから、娘が引っ越しする時の条件として、近くに城西教会という教会があるから、こちらに来られない時にはそちらに行くということで、教会も調べたそうです。もしかして、表彰式があったという教会もそこかもしれないということで、教会でお尋ねしたんですね。そうしたら、戦災で資料がすっかり焼けてしまって、ただその八十年史に、森永太一郎さんがなくなったために、献金がなくなって支払いに困ったという文があって、確かに森永さんがそこに関わっていたということがわかったそうです。

そういうふうにルーツが広がってつながっていくときに、そのつながりの先に自分があるということ、それを逆にたどっていくことによって、自分はこういうふうに備えられて、導かれたんだということが、ひとつひとつ解明されていくごとに、深く感謝を持って喜ぶことができました。父はそういう森永の創始者と関わりがありました。おばたちもその教会学校に行っていたんですが、信仰には導かれていないんですね。そういうことを考えた時にやはり、これは選民意識で言うのではないんですけれども、選ばれて導かれて、いろんな体験を通して、自分があるということは、やはり「使徒行伝」の続きだと、つくづく思いました。そして、自分もその続きを書かなくてはいけないということを、新たに知らされました。

このお菓子のビスケット「マンナ」は、マシュマロでは成功しなかったので、このような形で出したのですが、ちゃんと箱に書いてあるんですね。

〈マンナ〉の語源は旧約聖書にある“神が荒野をさまよえる民に与え給うた 愛の食べものmanna〈マナ〉”にちなんでいます

また、今のマークは昔のエンゼルマークとは違っていますが、こういう逆さのエンゼルが、森永の「M」の上にいるんですね。こちらは、昔のマークのものです。最近キャラメルはお店であまり見かけませんが、今でも売っているキャラメルの箱にあります。森永さん自身は、引退された後は、「我は罪人のかしらなり」という題で講演会をして、日本全国を自費で回っているそうです。

森永の会社を大きくしていくにあたって、松崎さんという方がやはりクリスチャンでコンビで経営を手伝い、森永さんが引退したあとは経営者となったそうです。その太一郎さんの孫と、松崎さんの孫が結婚してできた娘さんが、安部総理大臣の奥さんだそうですね。でも、信仰はそちらには伝わっていないんですけどね。だから、そのように考えた時に、環境が整ったから信仰が育つわけでもなく、環境が
整っているわけでもない私が、このように信仰を細々と受け継いで生かされていることを、ほんとうに大きな恵みと思って、感謝しております。


分かち合い

森永の創始者がクリスチャンだったこと、マークやお菓子の名前にキリスト教の由来があることにみなさん驚き、起業と伝道のスピリットに感心していました。
「使徒行伝」の続きとして親から子へと信仰が受け継がれていくこと、そして、二千年の歴史の先に私たちがいることの、責任と恵みを強く感じました。
Gさんは「話が下手なので代わりに」と謙遜しながら、いろいろなお菓子を持参してくださり、みなさん召し上がりながら楽しいお話のひと時を過ごしました。
常連となっている求道者の方のほか、「レムナント」の久保先生の教会の方など新来者もお見えになって、相互に紹介と交流の機会を持つことができました。

   :niko:   :ganb:   :wink:   :niko:


投稿者 : ota 投稿日時: 2007-10-01 09:49:12 (3074 ヒット)

壮年会誌「シャローム」第24号(2007.9.30)より

目次
【報告】神学校夏季講座から
【開会礼拝】 「共に福音にあずかるために」   藤井 秀一先生 (2007.8.6.)
【HP】 教会員のホームページ紹介 


投稿者 : ws 投稿日時: 2007-08-19 21:20:00 (1984 ヒット)


9月のウェルカム・サンデーは休会となりました。

尚、9月に証しをお願いしていた太田織江さんには2008年1月にしていただくことになりました。


投稿者 : hayashi 投稿日時: 2007-08-12 21:05:00 (2920 ヒット)

ウェルカム・サンデー7月1日の報告




【証し】S.S.さん(女性会)


先月の水曜礼拝で蓮根教会の副牧師のミン先生が讃美とメッセージをしてくださいましたが、

 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している。
  恐れるな、わたしはあなたとともにいる」(イザヤ書43:1−5)


の箇所をもとに、「あなたの名前を呼ぶ」という本当に心に沁みるメッセージと素晴らしい讃美をして下さいました。讃美を聞いているうちにバプテスマを受けてからこれまでの、いろいろなことが思い起こされてきて、胸がいっぱいになり、涙が溢れてきてしまいました。他の方達も泣いていましたが……
今こうして神様の御手の内に生かされている幸せ、讃美で導かれ、讃美の御奉仕によって多くの恵みをいただいてきたこと。また悲しくつらかったこともありました。身近な者との早すぎる別れ、この季節になると思い出す息子の難病との戦いの日々、そしてそんなときいつも祈ってくださり支えてくださった方々のこと、などいろいろな思いが去来したのです。
ごく身近な者もそうでない者も、名前で呼ぶこと、呼ばれることの大切さを語られた「あなたの名前を呼ぶ」というメッセージを聴いていて28年前のことが、つい昨日のように思い起こされました。

私は先々週の日曜日、6月17日がバプテスマ記念日でした。29年前、息子がめぐみ幼稚園に入園して一年後のことでしたので、それから28年が経ってしまいました。息子はベビーブームの頂点の年に生まれましたので、当時のめぐみ幼稚園も大入り満員状態で、一学年に3クラスがあり全体で200名位の園児がいたと思います。今と比べたら随分、人口密度というか園児密度が高く、園舎が今よりとても狭く感じました。

受け持ちの先生は堂前先生でした。息子が「堂前先生ってね、いつもニコニコしてるんだよ」と言っていたのを思い出しますが、今とちっとも変わらずやさしく穏やかな先生でした。今主任をしている加藤八重実さんや理事の岡村信子さんは、先生になりたてのほやほやでとても初々しくいつも大勢の子ども達に囲まれていました。

めぐみ幼稚園を選んだのは特別キリスト教教育に関心があったわけではなく、息子の入園にあたって、近隣の幼稚園を見学していてちょっと失望していた時に、めぐみ幼稚園にたどりつき、園庭で遊んでいる子ども達の様子が、とてものびのびとしていて自由そうだったことと、先生たちがとても自然体に見えたというそれだけのことだったと思います。その直感と決断は、わが人生の中でも一番の「当たり」だったと今でも思っています。今こうしているのもあの時の決断のおかげなのです。

私は息子の入園でしばし子育てから解放された喜びと共に、ドイツ留学から帰国されたばかりの、岩坂憲和先生が指導してくださっていた母親のためのコーラス……今のグレース・アンサンブルの前身ですが、まだ名前はついていませんでした。そのコーラスに入れていただき、それまで出会ったことのなかった聖歌の美しいメロディーとハーモニーにすっかり魅了されコーラスに夢中になっていました。それまでの家庭に埋没していた生活から、コーラスがある水曜日が生活の中心のようになり、まるで学生時代に戻ったような、青春時代が舞い戻ってきたような気分で日々を過ごしていました。

コーラスのあと行われる水曜礼拝は、とても良いお話が聞ける時として大切には思っておりましたが、その時の私にとってはそれ以上ではありませんでした。また聖歌も歌詞の意味を深く知ろうとすることもせず、メロディーとハーモニーに酔いしれて歌っておりました。しかし、そんな私でも毎週欠かさず水曜礼拝に出席し、松村牧師や岩坂先生から聖書のお話、とくにイエス様の御言葉の数々をお聞きしているうちに、思春期から私の心の奥底に根を張っていて、時どき頭をもたげては私を苦しめ自己嫌悪に陥らせていた「罪の意識」のようなものの解決が、もしかしたらここにあるのかもしれないと思うようになってきたのです。
 「私の目にはあなたは高価で貴い」「ありのままのあなたを愛する」……そのようなメッセージが次第に心に響いてきて、聖歌や賛美歌の歌詞の内容も心に迫ってくるようになってきました。

そんな時でした、特別伝道集会というものがあるということで、土曜日の夜だったと思いますが古い会堂の時でしたが、ちょっと覗いてみようと思い途中からこっそり入ってみました。ところがアメリカ人の宣教師の先生のお話は、私が求めていたものとは違い、なんだかとても直接的で押し付けがましく感じてしまい、その場の雰囲気にもなじめず逃げるように帰ってきてしまったことがありました。求めてはいるもののなかなか出会えないという日々を過ごしていました。

当時の私は水曜礼拝には熱心に出席していたものの、日曜日に教会に行くという思いはなく、子どもを教会学校にも通わせてもいませんでした。日曜日は寝坊できる日と決めこんでいました。でも、ある日急に、子どもを教会学校に連れて行こう! 私も早朝礼拝に出席してみようと思い立ったのです。子どもはまだ親の言いなりでしたから、その日の日曜日は朝早く起こし、自転車の後ろに乗せて一緒に教会に向かったのです。水曜日とは趣の違う幼稚園におずおずと入ろうとしましたら、当時幼稚園の主任をされていた原田英子先生が玄関口に立っておられたのですが、私を見るとすぐ駆け寄ってこられて、満面の笑みをたたえながら「Sさん、お待ちしてました!!」といって、私の肩に手をおかれて抱くようにされたのです。私は一瞬戸惑ってしまったのですが、原田先生が余りにも全身で喜びをあらわし、優しく迎えてくださったので、私もうれしくなりとても感動してしまいました。多分、原田先生は初めて来た人には皆こうして迎えていらしたんだと思うのですが、私には先生が私の心の思いを察知されていて、ずーっと待っていてくださったんじゃないかしらと素直に思えたのです。そしてその時を境に家庭集会や聖書の学び、そして主日礼拝にも出席するようになりました。そして信仰をもって賛美歌や聖歌を歌いたいという思いと、自分の居場所はここにあるのでないか、委ねてみようという思いとで、決心してバプテスマを受けました。

それから28年の歩みを続けてまいりました。

今、つくづく思いますのは、これまでは本当に祈ることの足りないものでしたが、人生のゴールに向かってのこれからの日々、なるべく多くの方のお名前を呼んで祈れるようになりたいということです。
祈る幸せ、祈られる幸せをこれからも大事にしていきたいと思っています。


〔分かち合い〕
◆相手の名前を覚えて呼びかけること、名前で祈ることの大切さを知りました。
◆幼稚園のある恵み、歌い讃美することの喜びをあらためて感じました。
◆それぞれの導かれたいきさつを紹介し合って、神様の導きを感じました。
◆迷える求道者おふたりの悩みを聞いて分かち合い、解決をお祈りしました。



  :niko:   :gus:   :ganb:  :fuki:   :wink:   :peace:  :bye:


投稿者 : ota 投稿日時: 2007-07-29 00:20:55 (3278 ヒット)

壮年会誌「シャローム」第22号(2007.7.1)より

【証し】神学校週間のあかし     大田 雅一 (2007.6.24.主日礼拝)

 壮年会の大田と申します。神学生といっても、四十のおじさんですが。
 この4月から、東京バプテスト神学校に聴講生として通っております。

 週二回、火曜日のギリシャ語と、木曜日の新約聖書概論を学んでいます。
 きっかけとしては、山浦玄嗣先生の特別伝道集会での講演を聴いて、新約聖書をぜひ原語のギリシャ語で読みたいと思ったことです。ギリシャ語の講師は今年から、渋谷バプテスト教会の牧師夫人の渡辺恵理子先生が担当されています。渋谷教会のみなさんには、先週ここで伝道講座をしていただきましたね。
 どうせ通うならついでにもう一科目聞こうと思って、新約聖書概論もとりました。こちらの講師も今年から変わり、大泉バプテスト教会の松村誠一先生が担当されています。松村先生は、ときわ台教会の初代牧師のご子息で、先日うちでも説教をしてくださいました。これも何かのご縁かなと思っております。

 さて、通い始めてみてわかったのは、この東京バプテスト神学校が、たいへん恵まれた環境にある学校だということです。
まず、場所がいい。校舎は、茗荷谷教会の二階にあります。茗荷谷教会は、本日お話いただいた朴思郁先生のお勤めされる教会ですが、池袋から地下鉄で二駅の茗荷谷駅から徒歩一分、ほんとに目の前にあります。常盤台からなら、二十五分で行けます。
 また、時間がいい。夜間で、平日の夕方6時半からというのが便利です。普通のサラリーマンでも、勤めが終わってから通える時間です。受講生の多くは昼間の仕事のあと、それぞれの職場から集ってきます。おにぎりやサンドイッチを食べながら。
 つくばからつくばエキスプレスで通ってくるおばさまがいます。飯能から特急で通ってくるおじさまもいます。この東京の真ん中に夜のともし火のようにある学校を目指して、首都圏の各地から集まってきます。通えない方のために、通信制度もあります。
 それにしても、みなさんほんとに熱心で、遅刻も欠席もしません。私は高校で教員をしているのですが、高校生に比べて、社会人のみなさんは忙しいのにがんばっています。やはり、聖書を学ぼうという目的意識が明確だからでしょう。
 そして、値段が安い。これこそ、みなさまの献金のおかげです。一講座が、週一回半年で二万円ちょっとです。普通の語学教室などと比べたら、半額でしょうか、ずいぶん安いですね。教室の維持費や人件費はずいぶんかかっているはずですが。
 この常盤台教会を初め、北関東3連合など多くの教会のみなさまの献金に神学校は支えられています。働きながら学ぶ学生たちのために、これからもよろしくお願いいたします。

 私は、この神学校があることを、私たちバプテスト教会の誇りに思います。おそらく、どこの神学校よりも、東京バプテスト神学校は、開かれた神学校だと思います。校長の北島靖士先生は「カルチャースクールの感覚で学べる神学校だ」と言っています。
 サラリーマンでも主婦でも、街のおばさんおじさんでも学べる神学校。しかし、内容的にはずいぶん深いことを学んでいます。そして、この神学校は、多くの卒業生を出し、献身者を生んでいます。前にうちの教会にいらした藤井秀一先生もそのお一人です。
 夏休みにはいつも夏期講座が開かれるのですが、今年は藤井先生が卒業生として参加され、酒田伝道所の報告をしてくださる予定で、今から楽しみにしています。八月の最初で2泊3日、一般の方の参加もできますので、みなさんもぜひどうぞ。
 (8月6〜8日 多摩センターの宿舎で開催/詳しくは神学校まで)

 さて、私が学び始めて3か月、まだまだ未熟ですが、毎回いろいろ新しい発見があって、楽しく過ごしています。今日はその学んだことの中からひとつだけご紹介して、みなさんとお分かち合いしたいと思います。

 毎月初めに、教会では「主の晩餐式」を行いますね。
 その時に読まれる聖句は、コリント人への第一の手紙のみ言葉です。みなさんよくご存知でしょうが、一度お読みします。11章の23節からです。新共同訳314ページ。

 主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念として、このように行いなさい」と言われました。
 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念として、このように行いなさい」と言われました。

 新約聖書概論では、それぞれの担当者がレポート発表するのですが、私の担当がこのコリント人への手紙でした。
 ところで、この訳のうち、わたしの「記念として」行いなさい、という「記念」という意味が、今ひとつ私にはぴんとこないというか、よく理解できていませんでした。
 今読んだのは新共同訳ですが、文語訳も口語訳も、ここはみな「記念」となっています。(※ 新改訳は「私を覚えて」となっていますが)
 ところが、松村誠一先生は、このように解説されたのです。

 この「記念」という言葉は、元のギリシャ語では、「 αναμνησιs アナムネーシス anamnesis 想起」という言葉になっています。「想い起こす」「思い出す」という意味です。
 つまり、主イエスのことを「思い出す」ために私たちは、パンとぶどうをいただくということです。とてもわかりやすい訳だと思います。

 そして、松村先生は、私たち受講生に、この角川文庫版の「新約聖書」をくださいました。
 これは、先生のお母様の、松村あき子夫人が訳されたものです。
 この本では「記念」ではなく、「思い出す」と訳されています。
 では、その箇所を、お読みしましょう。
 なお、この訳では、イエスさまは私たちに対して「きみたち」と、親しく呼びかけてくださっています。

  主イエスは、売り渡されるその晩に、パンを取り、神に感謝してこれを裂き、「これはきみたちのために与える私の体である。私を思い出すために、このとおり行なうがよい」とおっしゃった。
  食事のあと、同じように杯を持って、「これは 神ときみたちとのあいだに新しい契約が結ばれるよう、私が流す血だ。これを飲むたびに 私を思い出しなさい」とおっしゃった。

 なんと、やさしい訳ではありませんか。イエスさまが、すぐそこにいらして、私たちとともに食事をされている姿が、ありありと思い出されるような気がします。
 イエスさまを思い出すために、日夜、聖書の学びを続けている神学生たちのために、みなさまのご支援を、これからもよろしくお願いいたします。  :b: :haha:


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