< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 読み物・教会ダイアリー - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
投稿者 : ws 投稿日時: 2008-09-27 16:02:47 (1853 ヒット)

2008年9月7日 ウェルカム・サンデーより


  

T.T.さんの証し(壮年)


今日は「お証し」ということですが、私はクリスチャンの家庭に育ち、教会に通っていましたので、大きなメタノイア的な体験はありません。しいて言えば、私が神学校にいくようになった動機は、父が68歳になり寒い長野県の穂高の教会に牧師に招聘されて、それから74歳で日曜礼拝後倒れて、2ヵ月後亡くなりましたが、その生きざまを見て、神学校に行って学んでみようという気になり1987年に東京バプテスト神学校に入学し、1989年卒業しました。7年前に新宿に住むようになり、大久保バプテスト教会の会員になり、執事になって、神学校に再度行く気持ちになり、2007年に専攻科に入学しました。そんなわけで、最近パウロの弟子テモテは祖母ユニケ、母ルイスの3代目のクリスチャンと聖書にも書かれていますので、私も、信仰の継承について語ってみようと思いました。

そこで、父がなぜクリスチャンになったかお話しようと思います。

父は、昭和6年長野師範専攻科を卒業しまして、昭和6年9月から昭和8年2月まで17か月 短い期間ですが、塩崎尋常高等小学校に勤務しました。今の中学校に当たります。当時の社会は、世界恐慌による貧困が全国に広がり、農村は疲弊し、弁当を持ってこられない子や学用品を買えない子が多かった。そんな中で、父は給料の3分の1を本代に、3分の1を子どもたちのために、3分の1を生活にあてていました。ノートや鉛筆等を生徒に買って与えたりしました。自由主義教育をするため、本を読んだり、教員同士で勉強会をしていました。進歩的教員は軍国主義に反対していました。そのような、情熱のある教員でしたが。昭和8年2月4日 長野県の労働組合、教職員組合の600名が検挙され、教員は66校220名が捕えられました。これは2.4事件(教育赤化事件と言われています。)そして、治安維持法違反に問われて、2年の実刑を受けます。その時、使徒パウロのように、取り調べをうけます。ここから、父の残した原稿と長野県の教員であった、多羅沢一郎さんの書いた「身代わりの聖書」を引用します。


拷問行われる。――
私は仲間の名前を白状するよう迫られ、口を割らなかったため、2昼夜殴られ、靴で蹴飛ばされて、竹刀でたたかれて、体の3分の1が内出血して黒くなってしまった。わたしは意識を失いつい、3人の仲間の名前が出てしまった。約束を守れなかった私は弱い男だった。死んでも口を割らないと思っていたのに、いざとなると、人間は弱いものである。この時受けた心の傷は生涯忘れることができぬものになった。

田畑を売り裁判費用にする――
息子の転向(共産主義者・社会主義者が、弾圧によってその思想を放棄すること。)を願い、決死のお百度参り――病の母 倉科神社に行く。
昭和8年の晩秋、兄から手紙が来た。母は「私が転向しないと、一生、獄中から出ることができない」と、弁護士に言われて驚いてしまった。母は腎臓病が重かったが、それを押して、お百度参りを始めた。夕方になると、ひそかに抜け出して、5百メートルほど離れたお宮に行って、お百度を踏む。寒い冷たい土の上を裸足で、重たい体を引きずりながら、お百度を踏んでいる。医者が何といっても聞かない。死を決して、お前の転向を神に祈っている。このまま続けたら、母は死んでしまう。どうか転向してくれる気もちになってくれないかと書いてあった。

「心の伽藍」音立て崩れ――転向 
当然のことながら、私が転向を声明すると、それが新聞(長野新聞)に出た。弁護士は転向声明.が新聞に出たことを喜んで報告にきた。私はショックを受けた。一つひとつ、相手に利用され、弁護士と別れ独房に帰った私の心は真っ暗になってしまった。何とか支えられてきた心の伽藍が音を立てて崩れ落ちて行くのを感じた。自分は世界一下劣な奴だ。なんていうことをしてしまったのか。自分の人間性がたまらなく嫌になった。生きていく望みを失ってしまった。 

【動員令来る】
再度動員令が下り、長野師範時代4月の短期現役訓練を終えていたが、治安維持法で捕えられたため、出獄後再度、召集令がくる。松本50連隊遠山 登、後の陸軍中将の部隊に召集される、短期現役訓練でもらった伍長の階級が剥奪されて、2等兵で召集される。

「中国への出兵を前にしての慰問」 
中国の戦地に行くため、女の友人に会いたいと手紙を出した。友人からは、自分は事情で行けないので、先輩のAさんがおたずねするという返事の手紙があった。



1.聖書と十字架を持って

兵営での面会
動員の準備が終りに近づいた出兵を真近に迫った夏の日のことだった。Aさんは白の上衣に紺のズボン、白のパラソルという姿で面会に来た。
戦友が「面会だぞ」「お安くないぞ、彼女の御入来だぞ」
「ほお、Tに恋人の面会か!それは驚いた」皆に冷やかされ乍ら彼の心は躍った。
一体誰が面会に来たのか。自分に面会に来る女はないはずだが、高村女史の紹介のAさんではないかと思って呼び出しに来た戦友のあとをついて行った。

広い兵営の庭は何百、何千という面会人で一杯だった。母と子、妻と夫、父と子、兄弟、姉妹、皆不安そうな顔、皆顔を寄せ合って話して居る。そうした中に清楚な感じの女性が立って居た。入隊以来女性に接した事の無いTには眩しかった。
営庭の草の上に腰を下ろし暫く言葉もなかったが、Aは高村女史からT先生が色々悩みをお持ちの御様子ですからお訪ね下さる様にとの事で参りましたと来意を告げた。そして、「此の度は、御国の為にとは言い御苦労さまです。戦争って大変でしょう。何時生命が奪われるか知れない戦場で、誰を頼りに生きていったらよいか。私は助けて頂く方、頼れる唯一人の方を知っています。私は其の方をお伝えするために参りました。貴方と何時も一緒に居て下さる方の福音を伝えるために参りました。」
それから、Aは一心にキリストの福音を伝えて、最後に小さい銀の十字架とポケット型の新約聖書を贈った。

「主が十字架の上で私たちの罪を贖ってくださったように、此の十字架はTさんを守って下さるでしょう。」と、伝えるだけ伝えると風が去るように静かに去って行った。

Tは清いものに接した。不思議な清さと暖かさを感じた。そして十字架を左の手に握り、聖書をポケットの中に入れて心が暖かくなるのを覚えた。それは女から流れてくるものでは無かった。

夜になって、そっと聖書を出し革の表紙に手を触れた。そして、大陸の戦争を通して聖書は何時も其処にあった。十字架を出してみた。縦が3センチ横が2センチほどの十字架、それに丈夫な紐をつけて首にかけた。彼は出征中首から十字架を外さなかった。
聖書:詩編付のもの、胸のポケットに入る小さい聖書、詩編23編はすぐ暗記した。

出兵になり故郷の人たちに見送られて、汽車に乗り、大阪たどりついた。そして、大阪を出港、貨物船に乗船した、馬や大砲も一緒だった。しけで大変な玄界灘をとおった。東支那海に入ると海は静かだった。


従軍にて――
道傍に寝て空を仰いで左のポケットから聖書を出して読むのが習慣のようになった。ある時、何とはなしに開いてみると詩編91編

  千人はなんじの左に倒れ
   万人はなんじの右に倒る。
   されど災いは、なんじに近づくことなからん。


とあった。このみ言葉を信じた。
そして、腰に何十という神社のお守りがあった。それは、故郷の人たちから贈られたものだった。それをとって火の中に入れて焼いた。そして彼は自分の運命を十字架と聖書にかけようと思った。キリスト教がどうゆうものであるか何も判っているものでは無かった。唯十字架と聖書の背後にある清らかな不思議な御方に賭けてみようと思った。

2.身代わりの聖書

――地雷により負傷する――
工兵隊は鉄条網を爆破しました。同時に第4分隊が攻め込んだのです。迫撃砲が自分の顔に打ち込まれたように感じた時、大打撃をうけて、周囲が真っ赤になりました。大きな光があたり一面に充満して鮮血が飛び散った、と思ったら意識を失ってしまいました。地雷を爆破させてしまったのです。暫く気を失ったまま倒れてしまいました。何の感覚もなく耳も目も鼻も、口も喉もどす黒く焼けた土煙が覆いかぶさって火傷したようです。手からも、顔からも冷たい血が流れているのがわかりました。
M一等兵が「ひどくやられたな」と声をかけて来ました。耳の聴力は元通りではありません。「T――、しっかりしろよ、俺がついているからな」

T一等兵は手探りでM一等兵の手を握りながら「おい――H歩兵銃はどうなっているか」
「銃はメチャクチャに壊れているぞ」一等兵は気になっている軍服の左胸のポケットに入れておいた新約聖書を思い起こしこの時ばかりの声高に尋ねました。「おー、左胸のポケットの中にある聖書はどうなっているか」心配そうに聞きました。上半身はうつ伏せになっているので、直ぐに体を起こせません。M一等兵はしきりと体を起こそうと踏ん張りました。ようやく抱き起こしました。顎や首から鮮血が飛び散って左胸の軍服も血に染まっていました。
「T―聖書はある。けれど、地雷の破片がめり込んで、かなりひどい破損だぞ」
と、かなり大声なのにやっと聞こえたT一等兵は瞬間、頭のてっぺんから足の指先まで大量の電流が一気に流れたように感じました。
「聖書は破れたか・そうか聖書は破れたか。聖書がー聖書がー」そういって地にひれ伏した。そうか、聖書は破れて私は助かった。聖書は破れて、聖書は破れて、そう思う瞬間

「主は、わたしたちのために命を捨ててくださった。それによって、わたしたちは愛という事を知った。それによって、わたしたちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである。」

ヨハネ第一の手紙3章16節のみ言葉が血潮が注がれるように全身に注がれてくるように感じた。涙がどっと流れ出し、顎の傷から流れ出る血潮と共に全身を染めて行った。

意識が遠くなっていく中で私の心は平安だった。
「聖書は破れて私は救われた。キリストが十字架につけられて私の為に、私の罪のために死んでくださった。私の罪は十字架につけられた。わたしの罪もまた十字架につけられた」と信じると、なんともいわれない平安に満たされた。
聖書が地雷の破片で破れて、私の心臓に突きささる筈であったものが聖書に突き刺さった。そのことがイエスの十字架上の贖罪の真理の体験をさせてくれた。

「聖書は破れて命あり」T一等兵は重傷を負いながらも、胸には銀の十字架をのせ、枕辺に聖書を置きキリストとともにあることを信じて静かに眠りにつきました。

やがて、戦地にAさんからの慰問袋が届き、戦地と内地への文通により、父は、軍隊を除隊後、Aさんに求婚し、Aさんは一人で中国の父のもとに行き青島の教会で結婚します。
そして、父は、中国から日本に引き揚げてから教会に通うようになり、キリスト教徒になり、牧師になりました。 父は母の伝道によって救われました。            

〔分かち合い〕

・T.T.さんのお父さんの息詰まるような素晴らしい証にみなさん聴き入っていました。

・戦時中、今よりずっと困難な時代に思想と信仰を守った先人達の生き方に感銘します。

・聖書によって命を守られたという奇跡に、キリストの贖罪の証を知り励まされました。

・お父さんの信仰を継承して神学校で学んでおいでのT.T.さんに祝福がありますように。

・私たちの信仰と命をイエス様が守り強めてくださいますように、お祈りいたします。


投稿者 : ws 投稿日時: 2008-08-18 21:07:48 (5424 ヒット)

俳人シリーズ第三回 平田栄一    

■作者について

・現在作句を続けているカトリックの方で、文壇的には無名に近いが、信仰のよくうかがわれる平易でわかりやすい句を書き、ネット上でも多く発表している。

・キリスト教の俳誌を同人と主宰したり、自他のキリスト教に係わる俳句を集めて解説した著作「俳句でキリスト教」(サンパウロ社)を書いたりしている。

・求道俳句でキリスト教に親しんでもらう活動のほか、井上洋治神父の日本人の風土に合った神学も紹介している。
 「心の琴線に触れるイエス」(聖母文庫)など

■作品

・つまずきの石取り去られ盆の道

・蝉しぐれ天に宝を積む如く

・末席の気安さが好き夏の宴

・希望というパン賜りぬ夏のミサ

・夏期講習マルタマリアと揺れ動く

・主のもとに駆け寄る夢や昼寝醒め

・夏の雲湧いては四方へ遣わされ

・ガダラの豚なだれ込みたる夏怒濤

・白秋の風に溶けたるイエスかな

・人類なら愛せそうです秋を行く

・十字架の高きを流る羊雲

・仰ぎ見る十字架優し敬老日


(お話:大田雅一兄)


投稿者 : ws 投稿日時: 2008-08-18 20:52:52 (2071 ヒット)

7月の証し:T.T.さん(女性会)

 

狄世瞭海

私が初めて常盤台教会に来ましたのは、2000年11月23日でした。それまで私はキリスト教には無縁な生活を送ってまいりました。親戚、友人、学校と神様に係わることなく、すごしてまいりました。

それが突然、教会!

しかし常盤台に教会があるのは、40年位前から知ってはおりました。なぜそんな私が教会に導かれたのかと申しますと、2000年10月頃から娘の離婚から生じるさまざまな家庭の問題が生じ、夫婦でけんかばかりしておりました。その時は狎ご崑劉瓩个り気にして、離婚の事実をどのように受け止めるのか、自分の不幸になげき、子どもの育て方がまちがっていたのではないかと、ためいきばかりついていました。

11月23日も主人と娘のことでけんかとなり、家にいることが出来ず、自転車で家を出ました。こんな苦しい心の内がどうにかならないか、(自分のことのみ考え)行く場所を捜していました。神社かお寺か、また父のお墓かと苦しい時の神だのみ、そして思いついたのが常盤台の教会でした。

戸上先生におあいして、先生にどのような動機でも良いから、教会にいらっしゃいその一言で次の週の礼拝から教会にかよいました。早朝礼拝、主日礼拝と、日曜日には教会にという生活がはじまりした。最初、主人も家族も良くは思っておりませんでした。そのうち爐△る瓩世蹐Δ塙佑┐討い燭茲Δ任后

2年間の求道生活ののち、2002年のクリスマスに、自分勝手なわがままな私でも、神様はいつも愛してくださり、バプテスマを受けました。

私をはぐくんでくださった早朝礼拝の書記という仕事をさせていただいております。教会には様々な爐もい瓩鬚發辰進々がいらっしゃいます。1〜2度教会にいらっしゃり、すぐにでもバプテスマを受けたいと思いのたけを話す方、もう何年も早朝礼拝に出席していらっしゃる方、近くに住まいがあるからいらした方。教会にこられなくなった方々も、決してイエス様は見放したりはしません。 初めていらした方々と共に歩み、神様を見上げ、少しでもその方々の心が軽くなるように手助けが出来ればと、毎週、奉仕をしております。

教会生活でも、小さな私を奉仕を通して学ばせてくださり、もちいてくださり感謝です。

信仰の先輩、信仰の友も得ることが出来ました。
不思議な神のご計画、また、神様に護られているのも実感いたしました。感謝の日々をすごしております。50才すぎての信仰生活です。充分な働きが出来ませんが、与えられた時間を、聖書を学び、讃美をし、すごすことが出来ましたら幸いです。

家族も、私は教会が好き、もちろん神様も大好きと理解してくれています。いつか主人も一緒に教会生活が出来ますように祈り、時をまっております。



〔分かち合い〕
・娘さんの離婚、ご主人との喧嘩といった家族の問題が、信仰への導きとなったことに、試練をも前向きに生かしてくださる神さまのご計画を感じるお話でした。

・「思い立ったが吉日」と言いますが、思い立ったその日にその足で教会を訪れたことが尊いことだと、みなさん感じ合ったり、経験を話し合ったりしていました。

・救われた後に、早朝礼拝でご奉仕されて、悩みを持たれている方の相談に乗っていることは、すばらしいことだと思います。ご家族の方々の救いをもお祈りしております。


《8月のウェルカム・サンデー》

8月3日は神学校記念に宮沢賢治の伝記映画「わが心の銀河鉄道」を上映しました。
ご来場いただいた方々の感想から、少しご紹介します。


〔映画会の感想〕
・宮沢賢治の映画を見られてよかったと思う。
 20代のころ妹トシコの死を悲しんで、「雨雪とてきてけんじゃ」「この一杯の陶腕」と詠んだ「永訣の朝」という詩があって、その場面を見られてよかった。
 宮沢賢治のような人は、なかなか表れないと思う。良い映画でした。

・宮沢賢治の生涯をはじめて見ました。
 自分の信念をつらぬいている姿に感動しました。
 後々の世の人にも良い感動と影響を与えた生涯は見応えがあり、良い体験でした。

・良い映画でした。
 宮沢賢治と云い、未だ日本の映画界も捨てたものでないと思いました。

・宮沢賢治について私はよく知らなかったのですが、映画を見て少し彼について知ることができました。有難うございました。

・宮沢賢治の様々な物語の生まれた背景がわかり、興味深かったです。
 花巻の自然も美しく、楽しかったです。

・農業には夢があるが、現実の社会では夢のユメになりそう。

・宮沢賢治の作品は「銀河鉄道の夜」など、キリスト教の影響が強く見られる。
 また映画にも出てきた親友の保坂嘉内は、トルストイの影響を受けキリスト教の精神に基づく農村改革運動を続けていたし、これも映画に出てきた恋人であった高瀬露は、当時の花巻のバプテスト教会の信者であったことに、神様とのつながりを感じた。

・ビデオやDVDではなく、フィルムと映写機による上映にいつも懐かしい雰囲気を感じます。

・次回、「塩狩峠」とか、教会キャンプで見たようなイエス・キリストの時代の映画もいいと思います。


投稿者 : ws 投稿日時: 2008-06-27 11:11:28 (1944 ヒット)



証し RN姉(女性会)


6月のはじめの日に証しをさせていただけることを神さまに感謝します。今年はこの同じ時に久山療育園のためのケーキ作りの奉仕があり、ウェルカムサンデーのお話がきかれないことが残念です。

前にも何回かお話したことがあるように思うのですが、私が戸上牧師によりバプテスマを受けたのは1997年6月、ときわ台教会へ通うようになってから12年になるかと思います。

父は朝日新聞の記者で、札幌、小樽、函館、山形支局長として転々、住居も一緒にあり、いつも教会がそばにありました。5歳のとき字を覚え、子供讃美歌を覚え、イエスキリストを覚えましたのは、小樽ロース幼稚園でした。KK姉妹の母上の先生、アメリカ宣教師ミスロースの建てられた幼稚園でした。
函館は津軽海峡を右に、連絡船の出る港を左に見おろす山の上に支局があり、元町の教会群、ロシア聖公会、カトリック教会、プロテスタント教会が並んでおり、小学三年、第二次大戦が始まりました。ここでも教会へ通いました。

小学6年で山形師範学校男子部附属小学校から山形県立第一高等女学校(西高)に入り、ここで戦争が終りましたが、ずっと家のそばのプロテスタント教会へ通い続けました。高校1年で父は東京本社へ、家がないので神奈川県立横須賀女子高校(今の大津高校)へ、関東学院から田浦の教会へ先生がみえていました。どこでもバプテスマを受けようとすると引越しでした。大学を出て3年間の教員時代、トヨタ自動車のPR誌の記者時代、結婚して子育てが終るまで、教会のことをいつも思い、主の祈りを仏壇に向かってとなえていました。

今日の証しとなるエッセイは、1985年12月吉祥寺近鉄デパートが募集した「私の贈り物語」、近鉄はもうなく、今は三越のあと、ビックカメラになっています。これはここで秀作に選ばれた作品です。「花びんしき」。山形へ転校した当時のことを書いた作品です。きいてください。


「花びんしき」
 職員室の掃除当番だった。床を掃き、くずかごをあけ、先生がたの机の上や本棚の上を拭き、床も水拭きする。
 私は山形師範(いまの山形大学)付属小学校の6年生だった。各学年男女ひとクラス25名ずつと、高等科2学年の16学級という小じんまりとした学校で、職員室も小じんまりしていた。
 先生はすべて男先生だった。
 私は父の転勤で北海道函館の34学級もある大きな学校から転校してきたばかり。掃除は、床を掃いたあと蝋をぬってカラ拭きをしていたので、山形のように校舎の床を水拭きするなど、はじめての経験だった。
 担任の鈴木先生は、はじめての男性の先生、丸坊主でカーキー色のつめ衿の軍服のような国民服、頭にはいつも日の丸の白い鉢巻をきりりとしめていた。
 先生の机は、いつもきちんと片付いていた。
 ただ、掃除のたびに気になって仕方がないことがひとつあった。先生はお花が好きで、青い丸い花びんには、いつもお花が入っていた。
 しかし、花びんを持ち上げると、先生の机の上には、まあるい水の輪ができていた。私は花びんの底も雑巾にのせてよく拭いたが、あのぬれた花びんの底の輪は気持がわるくてならなかった。
 ほかの先生のところはどうだったのか良く覚えていない。たった一人の家庭科の女の先生の机には、ひまわりの花のような細かく編んだ花びんしきがあり、その上にガラスの花びんがのっていた。
 私は先生の机の上の青い花びんに敷くものを作りたいと思った。りっぱなものでなくても一生けんめい縫えばいい。
 私はある晩、勉強をすませたあと母から紺色の着物地の端ぎれをもらって、10センチ四方の小さな花びんしきを作った。いま考えると刺し子である。紺色の地に白い木綿糸でななめに縫い目をクロスさせて、雑巾を縫う要領でぶつぶつとさしただけのものだった。
 少しでも花びんしきらしく見えるように、ねむい眼をこすりこすり、縫い目がおどらないように縫っていると、指先にチクリと針をさしてとびあがるほど痛かった。夜も遅く10時ごろになると「もうねなさい」と父に叱られた。母が「きれいなのができたのね。宿題なの?」と聞いたが、私はだまっていた。
 つぎの日、朝早く学校へ行った。職員室の窓は、みんなきちんとあけられていた。「おはようございます」と、私はいつも職員室へ入るときのように大きな声で言ったが、思った通りだれの返事もなかった。
 私はホッとした。先生の机の上の花びんを持ちあげて、持ってきた雑巾でぬれている水の輪を拭き、花びんの底も拭いて、私は作ってきた花びんしきを置いた。そしてその上に、そっと花びんをのせた。青い花びんにはあまり映えないなあと思った。
 「先生が雑巾とまちがえませんように……」
 胸がドキドキして、いそいで職員室を出た。
 1時間目がはじまるまえの教室朝礼のとき、先生は「けさ、とてもうれしいことがありました。だれかが、先生に花びんしきを縫ってきてくれました。いつも机がぬれているのを見てたんだね。女の子らしいやさしい人だ。ありがとう……」と言った。私はうれしかった。
 学校から帰って、歩いて2分ほどの教会へ行った。子供の讃美歌と聖書が入っている袋を持って、県庁の通りで鈴木先生に会った。
 先生は「きょうはありがとう。すぐにきみが縫ってくれたんだと思ったよ」
 どうしてわかったのか、私が不思議に思っていると、先生は
 「ほら、きみの持っている、そのおけいこ袋と同じ布だったから……」と言って笑った。私はお習字の道具もそろばんも、みんなこの袋だったのだ。
 私がはじめて人に贈った手作りの品物であった。  (おわり)



〔分かち合い〕

◆お父さんの転勤で各地を引越ししながら、ずっと教会に通い続け、神さまのことを思い続け、そして常盤台でバプテスマを受けたことに皆さん感心していました。

◆N姉は大の話し好き、天性のストーリーテラーらしく、証しの合間にユーモアを交えてお話しいただいた余談もたいへん面白く、座が盛り上がっていました。

◆お話を書くのも大好きで、味のあるエッセイをあちこちに発表して受賞もされており、将来のご活躍が楽しみです。神さまの証し人として、がんばってください。


投稿者 : ws 投稿日時: 2008-06-27 09:44:58 (2255 ヒット)

俳人シリーズ第二回 杉田久女    

■久女は女子高等師範学校を卒業した才媛であったが、結婚した杉田宇内が画家の道を捨てて田舎教師に安んじていることに不満を持っていた。かといって、イプセンの「人形の家」のノラのように家を出ることもできなかった。

・足袋つぐやノラともならず教師妻

・秋来ぬとサファイヤ色の小鰺買う

・さみし身にピアノ鳴り出よ秋の暮

・身にまとふ黒きショールも古りにけり

・花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ



■俳句を高浜虚子に認められ、俳人として自立して生きようとするが、女性に対する当時の旧い見方から悪評を立てられて悩んだ末、信仰に救いを求めようと教会を訪れて洗礼を受ける。句にも信仰の葛藤のこころが見られる。

・バイブルをよむ寂しさよ花の雨

・月の頬をつたふ涙や祈りけり 〔秋月とコスモス〕

・熱涙拭ふ衣の緋絹や秋袷

・われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華

・春やむかしむらさきあせぬ袷見る 〔ユダともならず〕



■師である虚子との不和から俳誌「ホトトギス」を破門され晩年は不遇だった。そんな中でも、家庭生活と信仰に慰めを見出している。愛娘の昌子は俳人となり、世間から誤解を受けていた母親の遺稿を整理して評伝を書いている。

・けふの糧に幸足る汝や寒雀

・銀河濃し救ひ得たりし子の命 〔昌子回復〕

・クリスマス近づく寮の歌稽古 〔横浜にて〕

・ばら薫るマーブルの碑に哀詩あり 〔横浜外人墓地〕

・釣り蘭や浮き彫りしたる十字架(くるす)の名

(お話:大田雅一兄)


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