< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 読み物・教会ダイアリー - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
投稿者 : ws 投稿日時: 2008-04-13 22:59:43 (1933 ヒット)

T.Y.兄の証し(青年会)


私が聖書の神と出会ったのは小学校の頃だったでしょうか。当時私の親友にクリスチャンがいて日曜礼拝のことを聞いていたのです。その友人は、日曜日は遊ばないと言っていたので、おかしな子だなと思っていました。彼から聖書を貸してもらったのはその頃だったと思います。家族で拝んでいる神とは違う神がいることが、そこには書かれていました。

中学になりいつの間にか、クラスも離ればなれになったりしたことから、そのクリスチャンの友人とも次第に疎遠になってしまいました。新生活の忙しい日常の中で、いつの間にか聖書のことは記憶から消えていきました。中学2年の時、一台の街宣車が私の通っていた中学校の正門の前に停まり、宣教師と思しき外国人男性が姿を見せ、下校していく私達に小冊子を配り始めました。私もまた何気なくその冊子を受け取りましたが、他の人達のように路上に投げ捨てたりせず、家に持ち帰り読みました。冊子に書かれていた内容は新約聖書に書かれてあるイエス・キリストの十字架による罪からの救いについてでした。それによると私を含む人間全ては罪を背負っており、その為人は苦しみ、そして恐ろしいことに天国に行けない、と書かれていました。その罪とは生まれながら人が背負っている罪と、そしてその人自ら犯した罪ということらしいのです。しかし人はただイエス・キリストの十字架のもとに背負っている罪を降ろすことにより罪から解放される、と書かれていました。

当時の私は死後の世界、すなわち天国や地獄の存在を両親の影響で信じていましたので、それは重大なことでしたが、具体的にどうしたら救いに預かれるのか、残念ながらその薄っぺらな冊子には書かれていませんでした。そのようなこともあって、クリスチャンの友人から借りたままになっている聖書を開きました。最初に読んだのは新約聖書ではなく、旧約聖書でした。特に箴言は判りやすかったので良く読みました。しかし、その旧約聖書を読んで感じた事は、神は人の罪を鋭く裁き、厳しく罰する冷たい方だということでした。こうして私は聖書を読むのをやめました。

忙しい高校時代を過ごし、再び聖書の神と出会ったのは大学でした。当初私は、大学に入ったらがんと進化との関連性の研究をしようと思っていました。こう話すと、がんと進化に一体どんな関係があるのだ?と思われるかもしれませんが、がんのような悪性新生物は進化論的に原始的な生物つまり細菌などの様に無制限に分裂したりすることなどから、進化初期の太古の時代の遺伝子が残されており、それががん細胞で働いているのではないかと考えられていた時期があったのです。ある種の抗生物質や細菌の増殖に対して抑制効果のあったシスプラチンなど化合物は、実際抗がん剤として使用されています。発がんやがんの進展現象はいわゆる「先祖返り」と考えられていたのです。

大学に入学してから間もなく、クリスチャンと結婚し自らもキリストを信じ洗礼を受けた従兄弟の家を訪ねました。話が私の生命科学の関心事に及ぶと進化の話になり、それについて従兄弟の旦那さんは、生命は進化してきたように造られているだけなのだ、ということを話し、そのことについて見解を詳しく伺いました。

その家を辞す時には、天文学的な回数の無作為の遺伝子の変化の結果、人間のような高等生物が微生物から数十億年かけて生まれたという可能性を受け入れられなくなっていました。これは自分の考え方にも、今後の進路にも大きな方向転換を迫るものでしたが、意外にも私は抵抗なくそれを受け入れました。生物は進化して来たように造られている、という考えは心の奥底まで根を下ろし始め、がんと生命進化の関係の研究から、もっと実際的な研究の方に興味が移っていきました。しかし生命進化を信じないということは生命進化を信じる人達が大勢いる大学での居心地を悪くするものでしたが、進化論からがんを考察するという研究テーマを変更することに後悔はありませんでした。

大学2年の頃、先輩達が卒業と共に大挙して出て行ってしまったこともあり、孤独感を深めた私は新しい仲間を見つけるため、それまで所属していた文芸サークルの部屋を出て、サークル棟の下の階に降りていき、そこでクリスチャンの従兄弟がかつて所属していたという聖書研究会の部屋を見つけたのです。ドアの前で暫く入るか入るまいか躊躇していると、ドアの方が、私がドアを開くよりも先に開き、開いたドアからその当時の会長さんが笑顔を覗かせ、驚いている私に中に入るよう促しました。それが中学生の時に聖書を読んで信じかけた神との再会の始まりでした。

そこは退廃的な空気の漂っていた文芸サークルとは全く対極的な場所でした。部屋の照度さえかなり違うのではないかと思う程でした。文芸サークルの残された人からは戻ってくるように誘いがありましたが、卒業まで多くの時間をそこで過ごしました。その間に、クリスチャンの友人から誘われ、教会に通うようになり、そして私はある教会で滴礼ではありましたが、バプテスマを受けました。

こうしてクリスチャンになった私でしたが、救いの本質を良く理解していませんでした。神様は私が喜べない姿に自分を変化させてしまうのではないか、という恐れがあったのです。神を信じることに恐れを抱いている多くの人達が神を信じることにためらいを感じているのは、この恐れがあるからなのではないでしょうか。人間は変化を嫌う存在です。そういう方々に言いたいのは、イエス・キリストを信じてクリスチャンになることは、その人の個性も独自性も失われることではないということです。むしろその逆です。C.S.ルイスは言っています。「私たちが自らを神に委ねていくに従って、私たちは本当の自分自身に帰ってゆく。なぜなら、神が私たちを造られたからである。神は人間をそれぞれ他の人とは違う者として造られた。あなたにも私にも本来意図されている姿があるのである。…私たちがキリストのもとに立ち返り、自分自身を神に明け渡す時、私たちの個性は初めて息を吹き返すのである」。

偉そうに今では話していますが、これに気付くまで時間がかかりました。それまで次第に変化していく自分に恐れを覚えていたのです。神様は自分が興味を持っていることを諦めさせ、画一的な人間にしてしまうのではないかと。しかし、そうでないことは聖書には書かれています。聖書は言います。

「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
(コリントの信徒への手紙I 12:27)

「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きをしないのと同じように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」
(ローマの信徒への手紙 12:4,5)


「私たちは与えられた恵みに従って、異なった賜物をもっている…。」
(ローマの信徒への手紙 12:6)


その後、私はアメリカに留学し、帰国後、現在携わっているある遺伝子疾患の研究を始める切っ掛けを神から頂きました。聖書の神、主イエス・キリストは、私の人生に新たな出発、使命、目的を与えて下さったのです。大学院時代、困難な時期も何度もありましたが、絶えず神は私を導き、それらも乗り越えることが出来ました。これらの様々な体験を通して、私は、神は私の興味というものを決してないがしろにせず、非常に尊重して下さる方だと知りました。また神は、人が生まれながらに持っているその興味を用いて人生の目的へと導き、神や人に仕えることを望んでおられることも私に教えて下さいました。

ヘンリー・デービット・スローという人は、多くの人々が「静かな絶望」の人生を送っていると述べています。希望は人生にとって必要不可欠なものです。最大の悲劇は死ぬことではありません。目的の見出せない人生ほど辛いものはないのです。希望は、人生に目的を見出すことによって得られるものです。聖書は言います。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。----主の御告げ。----それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書 29:11)

「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせて下さるのです。」(ピリピの信徒への手紙 2:13)


素晴らしい約束です。神の約束を心に刻めば希望が湧きます。これからも主イエスに頼りつつ、導かれて進もうと思います。今日は有り難うございました。



【分かち合い】

◆聖書に早くから接してよく読み込んでいると、みなさん感心していました。また、遺伝子の研究を通じて神と出会っていくようすに、いろいろと教えられました。

◆進化論と創造論について話し合いがされました。現在一般に正しいとされる進化論にも矛盾が多いこと、創造論のほうが合理的に説明がつくことも指摘されました。

◆すでに滴礼を受けていますが、浸礼のバプテスマを受けられるそうです。良い声で話されていて、聖歌隊にも入るということで先輩の姉妹から励まされていました。

◆分かち合いで、最近身内のかたを亡くされた姉妹が悲しみの中で、聖書のみ言葉と祈りにより癒され救われていったという良い証があり、感じ入りました。

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投稿者 : ota 投稿日時: 2008-04-05 09:29:15 (2636 ヒット)

壮年会誌「シャローム」の証から

【証し】祈りは聞かれること   T.K兄 (2007.10.14)

 私はT.Kと申します。家内が教会でお世話になりありがとうございます。
 今日は壮年会のほうで何かをお話をということです。
 先週の日曜日に、たまたま先代の松村先生のご子息さんが今度この教会に来られて初めての説教だというので、これはどうしても出なくてはならんということで出ました。その時にも文語体で、詩編の二十三というのを読まれて、昔のことを思い出しました。
 私は大正七年1918年9月16日に生まれ先月89歳を迎えました。かれこれ90ですね。よくこの年まで神様は私を守ってくださったと思って、本当に感謝しております。
 今日は、私がこの90年くらいの間に、一番困ったこと、苦しかったこと、もう逆境のどん底に立たされたその時の、私が18歳の時に、父が召天、なくなりまして、その時の感激というか、そのあとで神様がすばらしい働きを私たち家族のためにしてくださったということ、このことについてお話ししたいと思います。

 このお話をする前に、まず2点をお話ししたいと思うんです。
 私は日本人に生まれたということを、大変誇りに思っております。幼い時に、広島県に呉という軍港がございました。軍港と言ってもおわかりにならない方もおられるのではないかと思いますが、昔の帝国海軍の官舎もあり鎮守府もあり、連合艦隊が鏡のように静かな呉湾に、三ヶ月か四ヶ月の海上演習を終えて帰ってくる、あの呉湾の中がいっぱいになるくらい、航空母艦もいる、戦艦もいる、巡洋艦もいる、潜水艦もいる、駆逐艦もいる、もう走っていけば隣に飛び越えられるような連合艦隊がいました。そして、対岸には江田島というところがありまして、そこはお年を召した方はご存知だと思いますが、海軍の兵学校という、海軍の将校を養成する学校が昔からあって、その海軍の兵学校の生徒のあの姿が素晴らしいですよ。普通の陸軍の兵隊さんのようなのではなくて、前をチャックでこう締めて、夏と冬それぞれ制服を着て、ちょうど呉が近いものですから、日曜日なんかには三々五々で休みを利用して遊びに来ている、その姿なんかを見て、ぼくは小学校のころですけれども、将来必ず兵学校に行くんだと、あの当時は、私は軍国主義者ではございませんけれども、軍国少年であり、軍国青年であった。小学校、中学校を終えて、野球の選手もしておりました、部活動なんかもやっておりました。
 そういうようなことで勉強の方がだんだん下がっていって、父兄会の時に父親が行って、「このままでは卒業できるかどうかわかりません」というようなことを言われたらしいんですね。それでさっそく、父親の命令で野球部をやめる、そして勉強にひたすら打ち込むということで、私は結局、大阪外国語学校しかないという、文化系統と理科系統というものがありますれば、文科というのはもう百点に近い点数をとっている、特に英語は非常に、これは先生も良かったんでしょう、昔の先生はかわいがってくれた、そういうことで英語の方にどんどん進んで、かたや物理化学、数学幾何、三角やタンジェントというのは未だだによくわからないような状況で、要するに中学三年のころにそれを言われて、あとはもう四年生五年生は物理とか化学とかそういうような時間に盛んに、昔の専門学校に入るための入学試験の問題がある、それを一生懸命読んだり時には辞書を引いたり、先生に怒られるのは当たり前だと思うんですけれど、あの当時は今でいうと体罰に当たるんでしょうかね、放課後、教員室に来て立っとれと言うわけです。何回立たされたかわかりません。
 しかし私はもう、大阪外語に行くほかないという、大阪外語は当時官立の高等学校、といっても昔は旧制の高等学校ですけれども、高等学校とかあるいは高等専門学校、大学の予科、みんな文科と理科と、ちゃんと試験問題があるんですけれども、大阪外語だけは官立の学校でひとつだけ、文科系統だけ、英語のできるやつ、それを全部入れるというわけです。私の後輩にもなるんですが、みなさん、司馬遼太郎先生をご存知だと思います。彼も当時のことを書いておりますが、自分は中学時代、理科ができなくて、それではということであの学校に入った、陳舜臣という有名な小説家も、みなぼくたちから見れば後輩になりますけれどもそういう方で、もう外語に入るには英語ができなければ入れないという、そのなかでも英語部に入るということは本当に難しい、それに挑戦したわけですね。
 それでようやく入ったんですけれども、昭和十二年四月に入って、二ヶ月半して、ちょうど学期末の試験の準備を一生懸命しているところに、電報が来たんですよ。
 「チチキトク、スグカエレ」と書いてある。たったこの前まで元気だった父がどうしたんだろうと、今だったら電話でどうしたこうしたと聞くんですけれども、あの当時は電話なんかはない、あることはあるんですけれどもきわめて少ない家庭しか持っておりません。
 どうしたんだろう。しかし、この機に及んで、父親がもしも万一のことがあったら、ぼくはどうしたらいいんだろう、学校をやめて、父親は8人の子供と愛する妻を残して天国に行ったわけですが、その電報を受け取って、本当に深く神様にお祈りするしかない。その前に、呉を出て行って大阪に出てきて、生まれて初めて親の元を離れて、下宿生活、そして学校の教官室に入れば、アメリカ人がいるイギリス人がいる、ソ連の先生もいる、オランダ、スペイン、ドイツ語とかいう、東洋人ではインド人とかマレー人、中国人、蒙古人という、さすがに外国語だけあるなあという、ぼくはすばらしい学校に入ったなあという、もう毎日毎日が感謝感謝で、神様に感謝感謝でお祈りをして、そういう生活をしておる、その時にその電報を受け取ったわけです。
 父親が元気であるように祈り続けて、翌日の朝、行くわけなんですが、その前に、父親と私、呉の郊外にある山に登った夢を見たんです。そして山頂付近で、ものすごい雨に遭って、豪雨ですね、雷が落ちた、ばあーんと落ちた夢を見て、はっと目を覚ましたんです。変な夢を見たなあ、縁起の悪い、その時にどうしてこういう夢を見たんだろうと、時計を見ると2時15分、17日の午前2時15分だったんです。もう本当に変な夢を見る、しかしとにかく早く家に帰らなくてはいかんというわけで、翌日の朝一番の急行列車で大阪を発って、呉に帰りました。帰って我が家に着きました。そうすると母が私に、土下座して謝るんです。「もう一日早ければ、もう一日早ければ、あんたはお父さんの死に目に会えたのに、悪いことをした」と言って。

 私の母親は今ご存知の方がおいでになるかもしれませんけれども、そのおじいさんの時代からクリスチャンで、私の幼いころ、あるいは少年時代は、日本基督教会に行っておりました。日曜学校に行ったり、礼拝に出たりしておりました。それが今どうしてバプテストに変わったの、とおっしゃる方があるかもしれませんが、学生時代には、今の学生さんとは違って昔の学生というのは何か大げさな言い方でしょうけれども、真理を探究するというような真面目な学生が多かったですし、またそういう本がたくさん出ておりました。
 たまたま中学校に通う途中に、バプテスト教会というのがあって、そこで賀川豊彦という先生、これはみなさんご承知だと思いますが、有名な伝道者ですね、その人の伝道集会があって、ぶらっとこう入っていったんですね。それがきっかけで、私の今日があるわけなんですけれども、その賀川先生から、要するに「前に出てきなさい」と、頭を押さえながら祈りながら、祝福をしていただきました。それからそのあとで、その教会の牧師をしておられた高橋先生というのが、相当ご年配の方で、昔、西南学院で聖書を講義しておられたような非常に立派な先生なんです。その先生が、私を特別に可愛がっていただいたような気がするんですね。あの当時は一中学生、今の高校ですけれども、昔は中学校が五年までありましたから、本当に私をかわいがっていただいた。壮年会とか青年会とか、家庭集会をうちで開くということで、本当に何回も開きました。
 母親は、ただ一言も、「あなたは日基の教会に行きなさい」といったことを一言も言ったことはありません。本当ならば、悪い言葉で言えば、同じキリスト教といえども他宗派の人がたくさん集まってくれば、殴り込みをかけてきたといえば非常に語弊がありますけれども、そういうふうにとられても仕方がないような行為を私たちしておったんですけれども、母親は一言も言わず、むしろそれを歓迎しているようなようすでした。
 私は妹三人を、そこの日曜学校に連れていくようにしました。男が五人、女が三人なんですけれども、八人兄弟の、私が総領ですから、それで連れてくるようになって、そして一番上の妹は原子爆弾でやられましたが、あとの二人は現在、この教会を建てられた牧師先生、松村先生のご紹介で、それぞれバプテスト教会の牧師のところに片づいて、そして、一番末の中条というのは、その息子が二人おりますけれども、現在やはりバプテスト教会の牧師をしております。夫婦ともに牧師の資格がある、牧師夫妻なんです。その上の姉の娘が二人おりまして、上の娘は四国の松山の教会の銀行員のところに片づいてこれも熱心なバプテスト教会の会員になっています。その結婚相手のお父さんもお母さんもそうです。それから妹のほうは今、九州の諫早というバプテスト教会の牧師をしております。
 考えてみると、あの賀川先生の説教に行って、高橋先生からいろいろと薫陶を受けて、昭和十一年、私が中学校を卒業する時は、外語には入れませんでした。ほとんど満点の成績をとったと思うんだけれども、落ちて、やっぱり外語は難しいんだなあと思って、しかし、どうしても挑戦するんだということで、昭和十二年に入学することができて、昭和十五年に卒業をいたしました。

 その父が死んだ時の話になります。
 話が前後して、メモでもあれば順序だてて説明できるんですが、申し訳ありません。
 父危篤という電報を受けて、電車に乗って家に帰ったら、あの母親が、気丈な母親が、「お父さんが死んだ」と土下座して謝ったということまでお話ししました。
 そして、父親の前で、冗談で言っているんじゃないですけど、言いました。
 「お父さん、帰ったよ。お父さん、帰ったよ」
 返事がない。父はすでに冷たくなっていました。
 ああ、これでもう万事休す。自分はせっかく学校に入ったのに学校をやめて、ぼくは一番長男だから、家族のために働かなくちゃならんなあと、そして父親が、
 「国雄はまだ帰らんか、まだ帰らんか」
 というようなことを、何回も何回も言っていて、一番最後にやはり、国雄はまだ帰らんかと言ったという、そういうことを聞きながら、横たわった父親を見て、ぼくに何を言いたかったんだろうと思いながら、父親の姿を見て、ただただ、涙。
 しかも、父親は私を大阪に、喜び勇んで、大阪外語学校に入るために出ていく前の日に、ちょっと病気をしておりましたので、冗談で、
 「父上、しばしのお別れじゃ。肩でももんでしんぜよう」
 と言って、肩や腰、足のほうまでずっともんでやって、そのもんであげた同じ場所で横たわって、死んでいるではないですか。その時もう、ふっつり学校はやめて、長男なんだから家族のために働くということを固く決心しました。
 そして、死んだ時刻がですね、2時13分という、それを聞いた時に、本当にもう、雷が落ちたような、雷が落ちたということはお話ししましたが、雷が落ちたような気持ちでもう気違いのようになりました。そして、もう、神様に、
 「神さま、あなたは私を見捨てたもうたですか」
 と言って、神様にどなりつけました。そういうことがありました。
 そして、大阪に行って一体どうしたらいいだろうか、そういうお祈りをした時に、母親が、お祈りのなかで母親と二人で、長い長い涙の祈りを続けたわけですけれども、もう私は学校をやめることを決心しました。しかし、どうしていいかわからんのです。
 「神さま、助けてください」
 ということを、母といっしょに涙ながらに祈ったんですね。
 そして、長い長い涙ののちに、母が私に言うんです。
 「学校をやめて、家族のために働くということを、あなたは言ってくれたけれども、本当にありがたいけれども、お母さんの考えは違うよ。あれだけ喜んで大阪の外国語学校に行ったじゃないか。学校を続けなさい。あなたは日本男児でしょう」
 と母親は叱るように言うんです。そして、
 「お葬式が済んだらすぐに、学校に帰んなさい。ただね、学資なんかは送れない、そこはあなた、男でしょう。苦学してでも何でもいいから、働きなさい。うちから金は送れないよ。とにかくあなたは、学校を卒業しなさい」
 と言って、お葬式が済んだらすぐにもう、学校に帰んなさいという母親の言うとおりにいたしました。大阪に着いてからも、どうしていいかわからないんですけれども、苦学してでもやんなさいというような言葉を母からいただきました。
 そして数日してから、母から長い長い手紙が来たんです。
 私の家族はわりあいに広い家を借りて住んでおったんですけれども、父親がなくなってもう収入がないということになれば、どこか小さいうちに移って移り住まなければならない、そういう時だったんですよ。
 それが母の手紙によりますと、母や私の祈りが聞かれたんでしょう、神様はちゃんともう、間髪を入れず、われわれ家族のために、救いの手を差し伸べていただいた。
 それはどういうことが書いてあったかというと、第一に、移り住むべき家が与えられたということ。それは父親の幼友達で、呉市で事業に成功されて何軒かの借家も持っておられる方で、父親が死んで、私が外語に行って、さぞかしお困りだろうということで、そのうちの一軒がたまたま空いていたんですね、その移り住むべき家が与えられたという。私はもう後ろ髪引かれる思いで、呉を発って大阪に行ったんですけれども、数日してから母から手紙が来て、長い長い手紙が来て、家が与えられた、幼友達で呉で成功されて何軒かの借家を持っておられる、そのうちのわりあい広い家です、一軒空いていた、それが与えられた。そこで住んで下さい、お金なんか要りません、期限もない、あなたのうちだと思って使ってください、そういうことが第一に書いてありました。
 それから第二番目は、母親が就職が決まったという、今はコンビニエンスストアとか何だかありますよね、あれをもっともっと小さくしたような、チェインストアと言っておりましたが、そのチェインストアのマネージャー格というか、それをたまたま探していた時に、日基の教会の長老の方のところで、職が与えられたというんですね。母親は生まれて初めて月給取りというか、そういう仕事に就くことになった。
 それから第三番目は、これは本当に驚くことなんですけれども、やはり父の知人で、呉市の実業家の方なんですけれども、呉に「千福」という、あるいはご存知かもしれませんが、お酒を造っている会社がある、三宅清兵衛さんという社長さんなんですけれども、その人が私たちの家族のことを思いやったんでしょう、奨学資金を、学校を卒業するまで、その三宅清兵衛さんともう一人は広島県に三原というところがありますが、三原にセメント工場があって、そこの社長が浅野総一郎さんという浅野セメントの社長、日本鋼管の造り主と安田銀行、今の富士銀行ですね、今また名前が変わっておりますが、そういうのと一緒の財閥の長ですよね、その人が社長で、佐々木さんという方、このお二人が3年間、ちゃんと私の学費を出してくださるという、ぽんと、いくら出されたかは知りません、私の母に渡したんではなくて、私の父は当時、呉市の市役所で税務課長を勤めておりまして、その後任の税務課長に渡されて、とにかく3年間奨学資金ですね、生活費とか学費とか、要るものを全部出してあげるという、そういう通知を受けました。

 もうその時は本当に、なんといっていいのか、その手紙を読んだ時にもう涙が出て涙が出て、もう本当に「ハレルヤ!」という気持ちでした。
 その前に、私は大阪に帰ったらすぐ、家庭教師をする、そして苦学してゆくんだという、教官室の隣に掲示板があって、そこに「家庭教師お願いします」という、「英語部の生徒さんに英語を教えていただきたい」というのが、たくさん出ているんですよ。それでもう驚くなかれ、三つの家庭教師をやることに決めたんです。さしあたりそこで充分、学資をかせげると思いました。そのうえに、そういうような奨学資金を出してやろうというようなことで、昔の人は本当にすばらしい方が多かったように思います。そして、今申しましたように、神様に感謝する、神様に感謝するという気持ちでした。
 私は昭和十一年、8月15日に高橋牧師によって洗礼を、バプテスト教会で受けました。それが、バプテスト教会との始まりでした。それが今日、家内もこの教会で、一緒に結婚しました。これも不思議なことで、そんなことをお話しするともうきりがありません。
 本当に神様の、祈れば必ず聞かれるということを、あの当時、身をもって体験しました。

※ T兄のお証しの報告、遅くなってすみません。
  この後、戦中や戦後のお話など少しされて、最後にハーモニカによる賛美歌の演奏と、T兄の愛称聖句を文語訳と新共同訳で暗唱していただきました。  (記:大田)

詩篇 23篇

 主はわが牧者なり われ乏しきことあらじ
 主は我をみどりの野にふさせ
 いこひの水濱にともなひたまふ
 主はわが霊魂をいかし 名のゆゑをもて我をたゞしき路にみちびき給ふ
 たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害をおそれじ
 なんぢ我とともに在せばなり
 なんぢの笞なんじの杖われを慰む
 なんぢわが仇のまへに我がために筵をまうけ
 わが首にあぶらをそゝぎたまふ
 わが酒杯はあふるゝなり
 わが世にあらん限りはかならず恩恵と憐憫とわれにそひきたらん
 我はとこしへに主の宮にすまん

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
 主はわたしを青草の原に休ませ
 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。
 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。
 あなたがわたしと共にいてくださる。
 あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。
 わたしを苦しめる者を前にしても
 あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
 わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。
 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
 主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。

   ピリピ書 / フィリピの信徒への手紙 4章4〜7節

 汝ら常に主にありて喜べ、我また言ふ、なんぢら喜べ。
 凡ての人に汝らの寛容を知らしめよ、主は近し。
 何事をも思ひ煩ふな、
 ただ事ごとに祈をなし、願をなし、
 感謝して汝らの求を神に告げよ。
 さらば凡ての人の思にすぐる神の平安は
 汝らの心と思とを キリスト・イエスによりて守らん。

 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。
 主はすぐ近くにおられます。
 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、
 求めているものを神に打ち明けなさい。
 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、
 あなたがたの心と考えとを キリスト・イエスによって守るでしょう。


投稿者 : ws 投稿日時: 2008-03-26 22:50:21 (1918 ヒット)

〔日本文学とキリスト教 特別編〕 
   写真歌集「歳月」を語る  工藤渓子 (女性会)


この時間、今まで啄木、白秋、晶子など、日本の超一流の歌人たちの作品を取りあげ、大田さんが興味深い解説をしておられましたのに、今月は私のような歌人とも呼べない、単に「短歌を詠んでおります」という程度の歌を皆さまに読んでいたゞくのは大変恐縮に存じますが、でも一方、さゝやかながら長年詠みついできた作品をお目にかける機会を与えられたことはとてもうれしく、感謝をいたしております。

身辺に起るさまざまな出来事、自然が織りなすあらゆる現象、社会が生みだすいろいろな情況、短歌を詠もうとするとき、そのような目に見える世界の奥にある何かを捉えようと致します。その時、日常生活で強いられている規制とか習慣、ご都合主義などによって、もの事を見る眼を曇らせては良いものを捉えることは出来ませんし、心は自由でなければなりません。その意味では作歌の道は、信仰を求める姿勢と相通ずるところがあるかも知れません。

しかし短歌はあくまでも文学に属する世界でありまして、歌を詠むということは、小説や詩を書くのと殆んど同じでありまして、作品は創作であり、いわばフィクションでありまして、事実を報告しているのではありませんので、是非この事はお心に留めてお読み下さいますようにお願い申し上げます。

この歌集の底を流れているテーマは「生きることの虚しさ」です。しかし、その虚しさの中にさし込んで下さいイエスさまという一条の光により頼んでいるということを歌っていますので、そのような形で語らせていたゞきます。

最初六首の題「まほろば」は今あまり使われない言葉ですが、辞書には「すぐれた所・国」となっておりまして、景行記に「大和は国のまほろば」とありますので、私としましては、秋田県の故郷を美化してこう呼びました。

 郭公啼き朴の花咲き田を植うるわがまほろばにいざ旅立たん
 
 りんごの花咲き満ちて雪の降るごとし薄暮せまりて束の間の幽玄
 
 花の無き山の何処にか山鳩の啼きて暮れゆくわがまほろば


はじめの三首は、教会の友らや短歌の仲間十人ほどで故郷を訪ねた時に詠んだもので、わが家の裏山に大きい朴の木のありまして、朴の花が咲くと田植えをするという慣わしがあります。その花を見たいと、この時期を選んだのですが、まだ花は咲いておりませんで、山鳩だけが啼いていた、三首目はそんな寂寥感を一首にしました。朴の花は咲いておりませんでしたが、二首目、思いがけなく姫りんごの花が高々と満開で、その美しさに皆で歓声をあげました。

 愛せしもはるけくなりて池の面に月は孤高の影を映せり

次に愛の歌を一首入れました。
聖書の世界では、愛を「アガペーの愛」と「エロスの愛」とに区別いたしますけれど、私はそのような区別をあまりしたくないと考えていまして、(神学的にはそういうことになるのでありましょうし、この事はあくまでも〈私といたしましては〉ということでございます)原罪を背負っている人間の愛は、完全である神の愛と同じではないことは言うまでもありませんが、しかし人が人を愛する時、それはやはり美しく素晴しいことだと思うのです。不完全なるが故の弱さとか愚かさによって罪深い結果をもたらしたり致しますが、それでも人間の愛もまた、神の愛に似せて与えられているもの、神の愛の雛形として見たいと私は思うのです。

しかし、やはり人間の限界の中で、永遠に愛したり、完璧な犠牲を捧げるなどということはあり得ず、人の世のさまざまな情況の中でやがて愛の崩れる日は来ます。どれだけ多くの人が愛の崩壊の哀しみを抱いたかは計り知れません。そしてその事を絵画や音楽や演劇・文学がテーマとして昔より尽きることがありません。短歌(和歌)も源をたどれば、相聞(愛を告げる歌)から生れました。
この歌の作者は、人を愛したことも遠くなった今、愛したことを後悔したり、いつまでも想い出にふけったりすることなく、孤高に生きている自分を月に託したということです。
各章「歳月」 「昨日のごとし」 「北国に住む」 「東京に住む」 と、たどって来た人生の一端を歌に表現しました。底を流れつゞけた虚無感も最後の二首で肯定へと向けました。

 憧れというもの既に失いしわれに恵みのごとく星降る
 
ほろ酔いて帰り来る道月淡く八十年の過去肯わんとす


実は、私が人生を虚しいと思いはじめたのはごく幼い頃で、「人が死ぬ」という事が恐しく、また、「死に向かって歩む人生の虚しさ」「死ねば自分に関るすべてが無くなってしまう恐怖」にさいなまれ、「どうせ死ぬなら生れて来なければよかった」と言って母を困らせたりいたしました。

そして女学生の時、唯ひとりの兄が突然亡くなり、更に戦争の悲惨、敗戦の混乱などを経て、虚無感は深まるばかりでした。
ですから初めて聖書の「伝道の書」の「空の空なるかなすべて空なり」という言葉に出会った時には、栄華を極めたソロモンでさえ空しいのなら自分の空しいのは当然だと妙な納得の仕方をいたしました。
いつぞや、松村先生が主日礼拝の説教の中でおっしゃいましたが、人は虚しさをまぎらわす為にさまざまな事をします。私も一見楽しく華やかな生活を送りながら、底を流れる虚しさから解放されることはありませんでした。

 虚しさの中の一条の光なるイエスに頼りて歩み来しかな

しかし、そのような中にイエスさまは、聖書を通し、祈りに応えて介入して下さいます。堅固な強い信仰など持ち得ない私にとって、それは虚しさの中の文字通りの一条の光です。うっかりすると見失いそうになりますので一しょうけんめい祈りつつ求めている一条の光です。そしてゆきついたところがここに追詠として持ってまいりました

 限界の彼方に主イエス居給うを信じて老いの灯火とする

人間の限界の中に生きるしかない人生です。もちろん楽しいこともたくさんありますが、やがて老い、死に至る人生です。しかし、その彼方に主イエスさまがおられる。その方は永遠から永遠を生きる方であり、限りない愛と許しの方である。その恵みの中に今生かされている。やがて老い死にゆくその道もまた、主イエスさまの恵みの中の事なのだと信じております。昨秋の、天野有先生による特別集会のあとに詠みました。


〔分かち合い〕

・工藤さんの歌を通した八十年の人生の証し、虚しさの中からイエスさまの一条の光を求めていく姿に、みなさん共感されてそれぞれの思いを語り合っていました。

・工藤さんのご自宅には教会やご近所の方などが集まって毎月、短歌の会が催され歌を詠み合う交わりが喜ばれています。関心のある方は、どうぞおいでください。

:niko: :ganb: :memo:


投稿者 : ws 投稿日時: 2008-03-26 13:48:37 (1790 ヒット)

ウェルカムサンデー3月の証 S.O.さん(青年会)


S.O.です。今、大学一年で十九歳です。
O家の三番目の娘です。母と姉ふたりはみなさんも知っていると思います。

私は姉たちと同じように生まれてからずっと教会に通っていますが、バプテスマを受けようと決心したのは小学校六年生の時でした。ほんとうはその前から、お母さんもクリスチャンだしいつかは私もバプテスマを受けるんだろうなと考えていました。そして六年生の時に、小学校を卒業する前に受けておこうかなという、ちょっと軽い気持ちと言っては変ですけれども、そういう気持ちでバプテスマを受けました。

中学生になってからは、日曜日にテスト勉強をしたり、部活に行って試合があったり、友達と遊んだり、たびたび教会を休むようになりました。
高校生になってからは学校がミッション系だったのでほとんど日曜日に行事がなく、大体毎週、教会に通うようになりました。

そこで見えてきたのは、母や姉の信仰の強さでした。それまではあまり気にならなかったのですが、母や姉は教会に通うことをなるべく優先させていたり、教会ではそれぞれいろいろな奉仕をやっていたり、家では信仰について語り合うこともあったりと、神さまを中心とした生活をしていたのでした。

こうして母と姉の信仰の強さに気づいたんですけれども、それから私は変な思いにかられるようになりました。それは、私も毎週教会に通わなきゃ、私も奉仕しなきゃ、私も信仰を強く持たなくちゃ、という思いです。とにかくクリスチャンのすべきことをやらなくちゃと自分勝手に思ってしまい、がんばっていました。一方そんななかで、ほかの高校生たちは日曜日遊んだり家で休んだりしているのに、どうして私は教会に行かなくちゃいけないんだって思ったりもして葛藤していました。

しかし、このような思いのなかでも、毎週教会に通い、礼拝でメッセージを聞いたり、たくさんの方々の信仰にふれたりすることによって、この思いはしだいに変えられていきました。なぜ教会の人たちは教会に通って奉仕をするのか、それは神さまの愛のためだということがわかったのです。神さまから愛されていることに感謝し、その愛に応えるために喜んで奉仕している、その姿を見て、それまで自分が一人でがんばろうとしていて、勝手にあせったり、勝手に悩んで不安を作り出していたりすることに気づきました。

私の教会生活は、神さまの、主のものだったのです。このように私が気づけたのも、神さまが私を離さないで教会に通い続けさせてくれたからです。幼い時にバプテスマに導かれたことも、悩んだり苦しい思いをしたことも、すべて神さまのご計画のうちだったと気づき、私はほんとうに神さまに愛されている存在であると感じることができます。

神さまの愛を感じて、喜びでいっぱいです。こんな喜びも与えてくださる神さまの愛に、私も応えたいと思うようになりました。今では自分のできる奉仕を精一杯していきたいと思っています。しかし、弱い私は忙しさに負けて、大変、もうできないよ、とすぐに嘆いてしまいます。こんなまだまだ未熟な私ですけれども、神さまが愛してくださっていることを感じ、感謝し、心からの奉仕を捧げることができるように、これからも祈り求めていきたいと思います。ありがとうございました。

 
〔分かち合い〕

・青年会の十九の大学生の初々しいお嬢さんと、女性会の八十を過ぎてなお活躍されるベテランのご婦人と、お二方のお話を伺いしました。

・Oさんの若々しいひたむきな姿勢、ご家族の信仰に導かれる様子、高校生活と日曜の教会の奉仕の間で悩んだ経験などに、みなさん感じ入っていました。

・Oさんは教会学校の教師会のご奉仕でこの日も先に退席していました。またピアノのでご奉仕もしていて、先日は受難週の早天祈祷会でも奏楽して頂きました。


投稿者 : ws 投稿日時: 2008-02-17 21:54:27 (2054 ヒット)



証し:A.H.さん(女性会)


日曜日はいつも聖歌隊の練習がありますので、ウェルカム・サンデーには初めておじゃま致します。今日はよろしくお願い致します。
昨年Kさんに「証」を頼まれていて、ずっと先のことと思っていましたら、アッという間に今日になってしまいました。いろいろ考えましたが、やはり29年前子供を教会附属めぐみ幼稚園に通わせたことで、特別な出会いの時があったことをお話ししたいと思います。

はじめて聖書、賛美歌と出会い、聖書の言葉にはいつも驚きと感動を覚え、賛美歌からは心地よい慰めと励ましがあり、それまで眠っていた私の心の深い所で何かが揺さぶられるような、「ここはどこ? 私は誰?」という程の刺激をうけ、魂のふる里というか、心の居場所が与えられました。
当時幼稚園のお母さまを対象とした水曜礼拝で、牧師先生は「神の愛 アガペーの愛」についてよく話されていて、

「私たちはそれぞれに違った賜物が与えられていて、他の誰とも比較することの出来ない大切でかけがえのない存在として神様から愛されている。だから人は偶然に生まれて偶然に死んでゆくような存在ではないんです。」そして、

「すべての人は神の救いの中にあってご自分が気づこうが気づくまいがそのことは変わらないのです。」と語られ、

「もちろん、主人に愛されているでしょうし囲りの方にも愛されていることでしょう、しかし、変わることのない神の愛、アガペーの愛を知ること気づくことで、これからの人生が猖榲の喜びの人生瓩悗畔僂┐蕕譴襪里任后ですから、幼稚園にお子さまを預けている間に、ぜひイエス様の愛に出会って頂きたいのです。そして喜びの人生を歩んでいってほしいのです。」と話される度、
猖榲の人生の喜び瓩箸呂匹ΔいΔ發里覆里、わからないけれどもとても知りたいとも思いました。

私は中学時代、狄佑生まれて死んでゆくということをどう受けとめていいか分からず、不安でこわくて勉強よりも何よりも一番知りたいことはそのことで、狄佑浪燭里燭瓩棒犬るのかということでした。
犹爐妨かって生きている瓩箸いΔ里法誰もそのことを問題にもしていないようで、なぜ皆、平然と過ごしていられるのか不思議で、自分だけがのぞいているこの不安な世界はいったい何だろうと思っていました。表面的には明るく部活に受験勉強にと普通に装いながらも、心の奥では結構深刻な問題でした。しかし、このままでは前に進むことができないので、とりあえずこの問題は棚に上げて、いずれ犹瓩来るまで、今やるべきことをやらなければと気持ちを切りかえ、その事はいろいろな事柄にまぎれて、忘れていたわけではありませんが月日は流れてゆきました。

狄佑浪燭里燭瓩棒犬るのか、めぐみ幼稚園に子供を通わせ導かれたことで、棚上げされていた問題に再び出会うこととなりました。
結婚して子供がいて子育て真最中にもかかわらず、体力、気力、すべて弱っていたあの頃、漠然とした不安を抱え、まだまだ自分探しをしていた私に牧師先生は、

「そのままで、そのままの貴女でいいんですよ。あの人でもこの人でもなく、何ができるとか出来ないとかでもなく、他の誰とも違う貴女の存在こそが大切でかけがえのない存在として神さまから愛されている、だから大丈夫、欲張らないで。」

本当に驚きました。後にも先にも「そのままの貴女でいい」なんて誰にもいわれたことのない、何かカチャッとチャンネルが合ったというかスイッチが入ったというか、体力、気力が弱っていたからこそ出会えた心に響く忘れられない言葉でした。
クリスチャンになろうとかなりたいとか一度も考えたことのない私でしたが、子供の幼稚園卒園と同時にお母さん達も卒園してゆく中、この「時」を逃したなら二度と会うことのない大切な出会いの中にいることを強く感じていました。

また、賛美歌が大好きで、いろんな賛美歌を心地よくうたっていたある時、特別好きという程でもない、余り気にとめていなかった344番、

「とらえ給え わが身を 主よ み心示して
       日々まことを 教えて 放ち給え 罪より」


と歌っていると、勝手に涙が溢れてきて、それが悲しいとか嬉しいとかではなく、わけのわからない涙で、何とかこらえようと必死になってもおかまいなしに涙が止まらず、うたうことができませんでした。
自分でも気づかない心の奥の素直な気持ち、そして切なる願いを、その時の涙を通して知ることとなりました。

「すべてに時があり、神のなさることはすべて時にかなって美しい」
と聖書は語ります。

29年前の出会いの時がなければ、今の私はこの場にいなかったと思います。
ありのままの自分、当り前に思える日常のすべてに、イエス様の愛が注がれる時、すべてが愛しく誰にも犯されることのない確かな世界を手にすることへの限りない喜びが感謝と祈りに変えられてゆくことを、そのことにこそ「主にある希望」へ導かれることを感じています。

最後に、大好きなヘンデルの歌があるのですが、

「ああ、感謝せん ―― わが命、今日までみちびきませり」

今日証したかったことは、このことに尽きるかと思います。


〔分かち合い〕

■死ぬことが子供の頃から恐かったという話に共感しました。なぜ大人は平気でいるのだろうと不思議に思ったことも。主イエスに信頼して死の恐怖から解放されたことも。

■賛美歌を感激のあまり歌えなくなったという話。説教を聞いていても泣けてしまうことがあります。それは自分の心が聖霊によってみ言葉に感じやすくなっているのでしょう。

■ずっと心にあたためていた疑問が、時あって応えられて解決されたということ。そこに神さまのご計画の成就があるのでしょう。いろいろな経緯を経て救われた話があります。

■教会に幼稚園があることも恵みです。また、きっかけとなった牧師先生の優しい言葉にも感謝です。ありのままの自分でよいから、イエスさまの愛を受け入れたいですね。

■いつもの聖歌隊のご奉仕を感謝します。この日も、松村牧師夫妻のほか、練習前の聖歌隊のみなさんが参加されていて、証しのあとまた練習に出かけられていました。

■新来者や求道者の方もふたりいらして、その証しもよかったです。息子さんの病気のためにみんなで祈ってきましたが、その手に十字架が見えたというお証がありました。

:niko: :ha? :bye:


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