< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 読み物・教会ダイアリー - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
投稿者 : ws 投稿日時: 2007-12-03 20:28:34 (1943 ヒット)

証し:SYさん(女性会)

私は太平洋戦争開戦の翌年昭和十七年に結婚しましたが、一ヶ月後夫は出征いたしました。間もなく夫の父は癌で寝たきり状態になりました。当時住んでいた名古屋市一回目の空襲により自宅は全焼し、疎開先でその父も亡くなり、私は一人残されました。やがて二回目の爆撃を受け、父の開いていた郵便局も私の実家もすべて焼失いたしました。

しかし、戦死を覚悟して居りました夫は、中支南支ビルマにまわされ部隊では十数人の生き残りの一人として終戦後帰還いたしました。終戦間ぎわに、広島長崎に原爆が落され、二十万人の人々が亡くなったと聞き、目に見える物の空しさを深く心に留めた事を今もはっきり覚えています。

夫の就職先もなかなかきまらない状態が続き、また生きる為に、食べる為に大変な苦労をいたしました。その後二人の娘に恵まれ、それぞれ結婚し、東京に転勤して行きました。そして夫とおだやかな生活になったのですが、でも何となく淋しいそんな毎日の中で、私は友人を通して家庭集会、教会へとみちびかれました。私も夫も、神国日本が戦争に負けたのだから、もうこの世に神も佛もないのだと思ってすごしていましたが、ある日、聖書の
 
  「はじめに神は天と地を創造された」
  「神にとって不可能な事は何一つない」


このみ言葉を拝読し、私の心は一瞬のうちに変えられました。もしこの世に神様がいるとすれば、天と地を創造されたこの神こそ真の神様なのだと……
そして新約聖書で学んでいた、イエス様の奇蹟の一つ一つを何んの疑いもなく信じる事が出来ました。間もなく私は自分の罪を認め、信仰告白をして五十六歳の時バプテスマを受けました。主人も間もなく受洗し、四十名程の小さな教会でしたが、暖かい家庭のような交わりの中で伝道の為働かせて頂きました。

昭和五十八年、孫の近くで余生を送りたいという夫の願いを神様は聞いて下さり、新しい礼拝堂が出来たばかりのときわ台教会にみちびかれ転会し、主にある交わりの中で信仰生活をしてまいりました。
夫が天に召された後も私は神様に守られ支えられてまいりましたが、やがて試練の時がやってまいりました。娘のK子の二人の息子が結婚し、自立して次々に親からはなれてゆきました。しかし、子育てを生きがいとしていたのでしょう、娘はうつ病になったのです。
今までの三十年間は何だったのか、これから自分は何をしたらいいのかとなやむようになり、躁うつの常態が続くようになりました。病院の先生から、「がんばって」とか「しっかりして」とか、病人を励ます事は言わないようにと止められていましたので、私もどうしていいのかわからず、「ゆっくり直しましょう」という事しか出来ませんでした。
しかし、病いが長びくうち、娘は夫の為にも近くにいる私の為にも何もしてあげられない、申し訳ない申し訳ないという思いがだんだん強くなり自ら死を考えるようになってまいりました。

今年の二月の始めとうとう心配していた事が起りました。
娘の夫の「K子がK子が」という電話に私は驚いて、直ぐかけつけました。その時にはもう娘の手も頬も冷たく、でもとても、安らかな顔で地面に横たわっていたのです。あまりの突然の事なので、涙も出ません。ただ茫然とするばかり……
その時、私の頭の中に、聖書のみことばが次から次へと浮んでまいりました。
 
  「神のなさる事はみなその時にかなって美しい」
  「私の恵みはあなたに充分である」
  「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私の所にきなさい。
   私があなた方を休ませてあげよう」


私はいつも娘の病いがいやされるようにと祈ってまいりました。
でも、神様のみ心は違っていたのです。
死までも考えていた娘のなやみ、苦しみを神様だけが、すべてをご存じで、娘の為に一番ふさわしい所、神様のおそばに運んで下さったのだ、これが神様のみ心だったと気付かされ、また私への試練として同時にそれに耐えぬく力をも与えて下さっているのだと素直に受け入れる事が出来ました。

K子の夫は、近くにいて少し目をはなした一瞬の出来事でしたので、自分を責め続けていましたが、「すべて神様のなさった事だから、これからは後に残された子供達と一緒に娘の分も元気に生きてゆくのが私達のするべき事でしょう」と言えるようになりました。

神様はK子の死を通して、家族に福音を伝えて下さったのです。そして今、人間にははかり知る事の出来ない神様の大きな愛に心から感謝している毎日でございます。


〔分かち合い〕
◆あまりに重いお話に、みなさん真剣に聞き入っていました。お話の後、米寿のお祝いがあるからとご本人が退席されてから、出席者でいろいろと語り合っていました。
◆このような大きな試練に遭いながらなお、その場ですぐに、神様の言葉を思い浮かべたということは、なかなかできないことだとみなさん感じ入っていました。
◆クリスチャンになったからといって試練がなくなるわけではないのですが、そんな時にもいつも神様の愛を信じ、み心に従っていきたいものだと話していました。
◆身近な人の死をきっかけに信仰に導かれた方もあって、そうしたお話も出ていました 。神様はすべてを善に用いてくださる方、魂を救ってくださる方と信じております。
◆最近、中高年でも若い人でも自殺をする方が増えていますが、心の支えとなる信仰を持つことで、そのような悩みをいやすことができるようにと願っていました。
◆私たちが今日もこのように生かされ、日々の糧をいただいている恵みを感謝します。また、先に召された娘さんの魂の平安と、遺されたご家族の心の慰めをお祈りします。


投稿者 : ws 投稿日時: 2007-11-02 01:14:13 (2649 ヒット)

 歌人シリーズ第4回 永井隆  

【取り上げた歌】

 歌集「新しき朝」から 数十首


【歌人について】

◆永井隆は、長崎医大の教授でしたが、長崎で原爆に遭って奥さんを失いました。また、自らも被爆して白血病となり、二人のお子さんを残して世を去りました。
◆原爆と平和について文章を残し、「長崎の鐘」は映画にもなりました。若い頃からアララギ派に入門し歌を詠んでいて、遺作を集めた歌集「新しき朝」が刊行されました。
◆その歌には、浦上の敬虔なカトリック信者だった信仰がうかがえます。迫害に殉教し、隠れ切支丹として生きてきた先祖を追悼し、教えを継承していく歌が胸を打ちます。
◆博士は日中戦争に従軍しましたが、遺してきた家族のことを思い、犠牲となった友を弔い、また敵兵の捕虜をも親身に治療するヒューマニズムの歌に感心させられます。
◆原爆の惨禍を歌った歌は、戦争を終わらせる尊い犠牲となった人々への鎮魂と、代償として得られた平和の続くことを新しき朝の時代に願う祈りの心に満ちています。
◆被爆して六年後、四十三歳で召天。五月一日、薔薇の美しい聖母月の初めでした。

 ・二百年教え守りてひそみいし 羊はつひに迷はざりけり
 ・ある者は沖の小島にある者は 山深くひそみ教え伝へき
 ・二十六聖人がいのち致されし 丘はいたずらに草あれしまま
 ・聖人がむちうたれつつ登りける 険しき路に立ちて嘆くも

 ・幼子の誠一と遊ぶ夢さめぬ 露営なりけり遠き銃声
 ・星明かりに友埋めしかば道のべの らいちの枝を折りて手向けぬ
 ・敵兵の屍体はおほむね少年なり 竜胆の花咲ける山野に
 ・支那人のすえ臭き足ふきてやり 心すがしくメスとりにけり

 ・新しき朝の光のさしそむる 荒野に響け長崎の鐘
 ・燔祭の炎の中に歌いつつ 白百合おとめ燃えにけるかも
 ・原子雲の下に生きたる子供らが 平和をとさけぶ声をこそ聞け
 ・白薔薇の花より香りたつごとく この身を離れ昇りゆくらむ(辞世の句)

  :ano:   :ganb:   :peace:   :memo:    (話:大田兄)


投稿者 : ws 投稿日時: 2007-11-02 00:29:48 (2079 ヒット)

証:MGさん(女性会)



MGと申します。父がこの教会に来ていたので、赤ん坊の時からずっと来ていました。そのへんも含めてお話したいと思います。この四月に韓国の教会に行ってきました。オンヌリ教会、ここはメガチャーチという、何万人もいるような教会です。みなさんひとりひとりが「使徒行伝の続きを書く」ということで、教会が大変成長しているところです。 教会の日曜学校の教師をしている時によく子供たちに言ったんです。「パウロさんはこの人に教えて、その人はあの人に教えて、というふうに伝わって、今あなたがいる教会になっているの。二千年続いているこの流れを止めないでね」と。

オンヌリ教会の「使徒行伝の続きを書く」といったことを聞いた時に、そのことを思い出したんです。では、私がその続きを書く前に、続きがどこから来ていたかというと、父がここの教会員であったということなんですね。私が小学科の時は、斉藤孝義さんが科長でした。だんだん年をとると、世代が近くなってしまうんですけれども。クリスマスには、先生の指導のもとに、ページェントなどをしていました。四年生の時の担任の先生は、誠一先生のお姉さんの幸子先生で、そういう中で育てられてきました。

中一の時の春に、母と姉がバプテスマを受けて、父と母と姉がクリスチャンになって、取り残された気分になったんですね。でも、ミッションスクールに通っていて、宗教委員もやって、お勉強もそこそこやって、自分に欠けるものはないと思っていたんですね。バプテスマを受ける必要はない、でも、受けなければクリスチャンホームとは言えない、三人がクリスチャンで私だけが違うということで、あせりとか疎外感を感じていました。

その年の秋に、宗教委員をしていたんですけど、文化祭で宗教画の複製をずっと並べて、解説を書くという催し物がありました。その時に担当した絵が、「ゲッセマネの祈り」という、イエスさまが岩の上で祈っている絵と、それから、イエス様がドアのところでノックをしている絵でした。それまでの私にとって、イエス様はCSで聞いているから、スーパースターでした。ですから、なぜ、イエス様がこうして苦しんで祈らなくてはいけなかったかという、そこに突き当たったんです。それまでは、ユダヤ人がイエス様を十字架につけた、とそういう感覚でした。私がつけたなどとはおよそ思っていません。悪いユダヤ人が、そしてそれまでイエス様についていた群衆までが群集心理で、十字架につけたと、そう思っていました。でも、ゲッセマネの苦しい祈りのことを思った時に、ああ、これは私のためだったんだということ、私のために十字架にかかられたんだということ、そして復活したイエス様が、私のために外でドアをたたいてくれているんだということに気がついて、それから求めて、バプテスマを受けさせていただいたんです。

ちょうどそのころ七十年代で、教会が、社会とどう関わっていくかということでかなり荒れました。安保とかいろいろありましたし、世の中が変わっていく時だったので、教会の中にもそういう嵐があって、青年が減ったり、また過激な行動に走る方もいらしたりした後です。私が中学生の時、機構改革などがあって、私の上の学年の人がどっさりいなくなってしまいました。少年少女会、方舟会の解体などがありました。私にとって楽しいはずのところであった教会が、上の人がいなくなった中で、どのような教会生活を送っていくのか。微力ながら少年少女会でうどん屋さんを開いたり、それをまた教会の方たちが認めてくれ、応援してくれたりしました。あるいは青年になった時にはCSの教師をしていました。

それから茗荷谷に株分けして伝道所を開くという時に、両親が行くことになったんです。そしてその核となるファミリーとして、私も行くようにということで、その時に協力牧師として茗荷谷に派遣されることになった内藤先生に何度も説得されて、お手紙もいただいたんです。けれども、その時は教会学校の小学科もシステム的に整っていなかったことや、奉仕者が足りないということがあって、そのことに毎日、私は必死でした。召命感をどうしても茗荷谷のほうに感じない、というわけではないんですけれど、やはりこちらのほうのCSに召命を感じたので、やはりそのままずっと常盤台にいました。その後、結婚して、子供は今一番上が二十四歳、次が二十一歳、次が飛んで九歳という、ちょっと年齢差ファミリーなんですけれども、そういうことでこちらで教会生活を続けさせていただいているのが、私の自己紹介です。

今日、何を話そうかと考えた時に、父がなぜ教会に導かれたのかということを話そうと思ったんですが、自分のことを話さないのはインチキだと主人に言われたんです(笑)。けれども、「使徒行伝の続き」ということで、紹介させていただきたいと思います。

私の父は今、八十三なんですけれども、ここの教会に導かれたのは戦後で、結婚して長女、私の姉が生まれる前後でした。
でも、その前に父が聖書に触れたのは子供の時で、戦前なんです。どういう形で触れたかというと、森永製菓の創始者である森永太一郎さんという方が、自分の家のお庭を開放して「森永ガーデン」と呼んで、夏期学校を開いていたんですね。夏休みになるとそこで聖書の勉強をして、皆勤賞を取ると教会のほうで表彰されたりしたそうです。その子供の時の思い出があって、その後、戦争に持って行かれてシベリアに抑留されて帰ってきて、そして結婚して子供が生まれるという時に、自分の生き方をふりかえって、子供の時に触れたみ言葉にもう一度返りたいと思ったそうです。

そのころ、アメリカはトレーラーを持ってきて、あちこちの街角で伝道していたそうです。「青年よ、キリストへ」ということでやっていて、そこでいくつか暗唱聖句を覚えると、聖書をいただけるということだったようです。そういう催し物に参加して、そして住んでいたのが志村だったので、ここの教会を紹介されてずっと来ていました。

では、その前のルーツである森永さんはどうなのかということで、ちょっとお話ししたいんです。(持ってきたお菓子をみなさんに紹介して)森永のこの昔のキャラメル、これが「エンゼルマーク」なんですね。今の森永のキャラメルは、アルファベットで「Morinaga」とあるんですけど。森永さんという人は佐賀の出身でしたがおうちが没落してしまったので、立志してアメリカに向かい、最初は佐賀の焼き物を売りに行ったそうです。それはうまくいかなかったんですけれども、クリスチャンの家庭に雇われて、そこで信仰に出会ったんですね。そして、お菓子の技術もそこで身につけられたんです。でも、自分はお菓子で身を立てるんじゃなくて、伝道者になりたいということで、いったん日本に帰られたんです。けれども、やはりうまくいかなくて、まずそうした事業を成功させてから伝道しようということで、もう一度アメリカに渡って技術を磨いて、日本に帰って来られたんです。

最初は、マシュマロだったんですね。モーセが荒野で食べ物がなくなった時に降ってきたという「マナ」が、綿菓子のようなマシュマロのようなものだと聞きました。そのマシュマロを売ろうとしたんですけれども、日本の気候と、当時の日本人の味覚に合わなくて、ほかの物から売れていったそうです。売る時に、箱車で売るんですけれども、その箱車には聖句が書いてあるんですね。

 「キリストイエスは、罪人を救われるために世に来たまえり。義は国を高くし、罪は民を恥ずかしむ

という言葉が書かれていて、まずはそういう行商から始めたそうです。それでどんどん成功していって、でも、彼の心の中には常に伝道があって、ただお菓子でもうければいいということではなく、同時に教会を支援したりしました。商売に夢中になっていったん信仰から遠ざかった時もあるんですけど、その後また起こされました。

父が行った森永ガーデンは、幡ヶ谷なんですね。幡ヶ谷のそのお屋敷を開放していたようなんですけれど、最近それが具体的になったんです。というのは、娘が最近、ひとり暮らしを始めて、幡ヶ谷に引っ越したんです。私は、幡ヶ谷がどこだかも知らなくて、でも、なんだか聞いたことがあるなと思ったら、父が話していたところだったんですね。でも、若い時は、そういう親の言うことに興味がないというか、それこそ、信仰を先に広げるということはあったけど、もとを知るということには興味がなかったんですね。それで父は一度、森永さんの屋敷を訪ねたいということで、娘の引っ越しをきっかけに探しに行ったそうです。一度目は冬で、父は足が悪いので見つからなくて、それでまたこの春に行って、場所も探し当てました。それから、娘が引っ越しする時の条件として、近くに城西教会という教会があるから、こちらに来られない時にはそちらに行くということで、教会も調べたそうです。もしかして、表彰式があったという教会もそこかもしれないということで、教会でお尋ねしたんですね。そうしたら、戦災で資料がすっかり焼けてしまって、ただその八十年史に、森永太一郎さんがなくなったために、献金がなくなって支払いに困ったという文があって、確かに森永さんがそこに関わっていたということがわかったそうです。

そういうふうにルーツが広がってつながっていくときに、そのつながりの先に自分があるということ、それを逆にたどっていくことによって、自分はこういうふうに備えられて、導かれたんだということが、ひとつひとつ解明されていくごとに、深く感謝を持って喜ぶことができました。父はそういう森永の創始者と関わりがありました。おばたちもその教会学校に行っていたんですが、信仰には導かれていないんですね。そういうことを考えた時にやはり、これは選民意識で言うのではないんですけれども、選ばれて導かれて、いろんな体験を通して、自分があるということは、やはり「使徒行伝」の続きだと、つくづく思いました。そして、自分もその続きを書かなくてはいけないということを、新たに知らされました。

このお菓子のビスケット「マンナ」は、マシュマロでは成功しなかったので、このような形で出したのですが、ちゃんと箱に書いてあるんですね。

〈マンナ〉の語源は旧約聖書にある“神が荒野をさまよえる民に与え給うた 愛の食べものmanna〈マナ〉”にちなんでいます

また、今のマークは昔のエンゼルマークとは違っていますが、こういう逆さのエンゼルが、森永の「M」の上にいるんですね。こちらは、昔のマークのものです。最近キャラメルはお店であまり見かけませんが、今でも売っているキャラメルの箱にあります。森永さん自身は、引退された後は、「我は罪人のかしらなり」という題で講演会をして、日本全国を自費で回っているそうです。

森永の会社を大きくしていくにあたって、松崎さんという方がやはりクリスチャンでコンビで経営を手伝い、森永さんが引退したあとは経営者となったそうです。その太一郎さんの孫と、松崎さんの孫が結婚してできた娘さんが、安部総理大臣の奥さんだそうですね。でも、信仰はそちらには伝わっていないんですけどね。だから、そのように考えた時に、環境が整ったから信仰が育つわけでもなく、環境が
整っているわけでもない私が、このように信仰を細々と受け継いで生かされていることを、ほんとうに大きな恵みと思って、感謝しております。


分かち合い

森永の創始者がクリスチャンだったこと、マークやお菓子の名前にキリスト教の由来があることにみなさん驚き、起業と伝道のスピリットに感心していました。
「使徒行伝」の続きとして親から子へと信仰が受け継がれていくこと、そして、二千年の歴史の先に私たちがいることの、責任と恵みを強く感じました。
Gさんは「話が下手なので代わりに」と謙遜しながら、いろいろなお菓子を持参してくださり、みなさん召し上がりながら楽しいお話のひと時を過ごしました。
常連となっている求道者の方のほか、「レムナント」の久保先生の教会の方など新来者もお見えになって、相互に紹介と交流の機会を持つことができました。

   :niko:   :ganb:   :wink:   :niko:


投稿者 : ota 投稿日時: 2007-10-01 09:49:12 (3444 ヒット)

壮年会誌「シャローム」第24号(2007.9.30)より

目次
【報告】神学校夏季講座から
【開会礼拝】 「共に福音にあずかるために」   藤井 秀一先生 (2007.8.6.)
【HP】 教会員のホームページ紹介 


投稿者 : ws 投稿日時: 2007-08-19 21:20:00 (2137 ヒット)


9月のウェルカム・サンデーは休会となりました。

尚、9月に証しをお願いしていた太田織江さんには2008年1月にしていただくことになりました。


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