< meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=Edge,chrome=1" /> 読み物・教会ダイアリー - 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です
投稿者 : ota 投稿日時: 2008-04-05 09:29:15 (2367 ヒット)

壮年会誌「シャローム」の証から

【証し】祈りは聞かれること   T.K兄 (2007.10.14)

 私はT.Kと申します。家内が教会でお世話になりありがとうございます。
 今日は壮年会のほうで何かをお話をということです。
 先週の日曜日に、たまたま先代の松村先生のご子息さんが今度この教会に来られて初めての説教だというので、これはどうしても出なくてはならんということで出ました。その時にも文語体で、詩編の二十三というのを読まれて、昔のことを思い出しました。
 私は大正七年1918年9月16日に生まれ先月89歳を迎えました。かれこれ90ですね。よくこの年まで神様は私を守ってくださったと思って、本当に感謝しております。
 今日は、私がこの90年くらいの間に、一番困ったこと、苦しかったこと、もう逆境のどん底に立たされたその時の、私が18歳の時に、父が召天、なくなりまして、その時の感激というか、そのあとで神様がすばらしい働きを私たち家族のためにしてくださったということ、このことについてお話ししたいと思います。

 このお話をする前に、まず2点をお話ししたいと思うんです。
 私は日本人に生まれたということを、大変誇りに思っております。幼い時に、広島県に呉という軍港がございました。軍港と言ってもおわかりにならない方もおられるのではないかと思いますが、昔の帝国海軍の官舎もあり鎮守府もあり、連合艦隊が鏡のように静かな呉湾に、三ヶ月か四ヶ月の海上演習を終えて帰ってくる、あの呉湾の中がいっぱいになるくらい、航空母艦もいる、戦艦もいる、巡洋艦もいる、潜水艦もいる、駆逐艦もいる、もう走っていけば隣に飛び越えられるような連合艦隊がいました。そして、対岸には江田島というところがありまして、そこはお年を召した方はご存知だと思いますが、海軍の兵学校という、海軍の将校を養成する学校が昔からあって、その海軍の兵学校の生徒のあの姿が素晴らしいですよ。普通の陸軍の兵隊さんのようなのではなくて、前をチャックでこう締めて、夏と冬それぞれ制服を着て、ちょうど呉が近いものですから、日曜日なんかには三々五々で休みを利用して遊びに来ている、その姿なんかを見て、ぼくは小学校のころですけれども、将来必ず兵学校に行くんだと、あの当時は、私は軍国主義者ではございませんけれども、軍国少年であり、軍国青年であった。小学校、中学校を終えて、野球の選手もしておりました、部活動なんかもやっておりました。
 そういうようなことで勉強の方がだんだん下がっていって、父兄会の時に父親が行って、「このままでは卒業できるかどうかわかりません」というようなことを言われたらしいんですね。それでさっそく、父親の命令で野球部をやめる、そして勉強にひたすら打ち込むということで、私は結局、大阪外国語学校しかないという、文化系統と理科系統というものがありますれば、文科というのはもう百点に近い点数をとっている、特に英語は非常に、これは先生も良かったんでしょう、昔の先生はかわいがってくれた、そういうことで英語の方にどんどん進んで、かたや物理化学、数学幾何、三角やタンジェントというのは未だだによくわからないような状況で、要するに中学三年のころにそれを言われて、あとはもう四年生五年生は物理とか化学とかそういうような時間に盛んに、昔の専門学校に入るための入学試験の問題がある、それを一生懸命読んだり時には辞書を引いたり、先生に怒られるのは当たり前だと思うんですけれど、あの当時は今でいうと体罰に当たるんでしょうかね、放課後、教員室に来て立っとれと言うわけです。何回立たされたかわかりません。
 しかし私はもう、大阪外語に行くほかないという、大阪外語は当時官立の高等学校、といっても昔は旧制の高等学校ですけれども、高等学校とかあるいは高等専門学校、大学の予科、みんな文科と理科と、ちゃんと試験問題があるんですけれども、大阪外語だけは官立の学校でひとつだけ、文科系統だけ、英語のできるやつ、それを全部入れるというわけです。私の後輩にもなるんですが、みなさん、司馬遼太郎先生をご存知だと思います。彼も当時のことを書いておりますが、自分は中学時代、理科ができなくて、それではということであの学校に入った、陳舜臣という有名な小説家も、みなぼくたちから見れば後輩になりますけれどもそういう方で、もう外語に入るには英語ができなければ入れないという、そのなかでも英語部に入るということは本当に難しい、それに挑戦したわけですね。
 それでようやく入ったんですけれども、昭和十二年四月に入って、二ヶ月半して、ちょうど学期末の試験の準備を一生懸命しているところに、電報が来たんですよ。
 「チチキトク、スグカエレ」と書いてある。たったこの前まで元気だった父がどうしたんだろうと、今だったら電話でどうしたこうしたと聞くんですけれども、あの当時は電話なんかはない、あることはあるんですけれどもきわめて少ない家庭しか持っておりません。
 どうしたんだろう。しかし、この機に及んで、父親がもしも万一のことがあったら、ぼくはどうしたらいいんだろう、学校をやめて、父親は8人の子供と愛する妻を残して天国に行ったわけですが、その電報を受け取って、本当に深く神様にお祈りするしかない。その前に、呉を出て行って大阪に出てきて、生まれて初めて親の元を離れて、下宿生活、そして学校の教官室に入れば、アメリカ人がいるイギリス人がいる、ソ連の先生もいる、オランダ、スペイン、ドイツ語とかいう、東洋人ではインド人とかマレー人、中国人、蒙古人という、さすがに外国語だけあるなあという、ぼくはすばらしい学校に入ったなあという、もう毎日毎日が感謝感謝で、神様に感謝感謝でお祈りをして、そういう生活をしておる、その時にその電報を受け取ったわけです。
 父親が元気であるように祈り続けて、翌日の朝、行くわけなんですが、その前に、父親と私、呉の郊外にある山に登った夢を見たんです。そして山頂付近で、ものすごい雨に遭って、豪雨ですね、雷が落ちた、ばあーんと落ちた夢を見て、はっと目を覚ましたんです。変な夢を見たなあ、縁起の悪い、その時にどうしてこういう夢を見たんだろうと、時計を見ると2時15分、17日の午前2時15分だったんです。もう本当に変な夢を見る、しかしとにかく早く家に帰らなくてはいかんというわけで、翌日の朝一番の急行列車で大阪を発って、呉に帰りました。帰って我が家に着きました。そうすると母が私に、土下座して謝るんです。「もう一日早ければ、もう一日早ければ、あんたはお父さんの死に目に会えたのに、悪いことをした」と言って。

 私の母親は今ご存知の方がおいでになるかもしれませんけれども、そのおじいさんの時代からクリスチャンで、私の幼いころ、あるいは少年時代は、日本基督教会に行っておりました。日曜学校に行ったり、礼拝に出たりしておりました。それが今どうしてバプテストに変わったの、とおっしゃる方があるかもしれませんが、学生時代には、今の学生さんとは違って昔の学生というのは何か大げさな言い方でしょうけれども、真理を探究するというような真面目な学生が多かったですし、またそういう本がたくさん出ておりました。
 たまたま中学校に通う途中に、バプテスト教会というのがあって、そこで賀川豊彦という先生、これはみなさんご承知だと思いますが、有名な伝道者ですね、その人の伝道集会があって、ぶらっとこう入っていったんですね。それがきっかけで、私の今日があるわけなんですけれども、その賀川先生から、要するに「前に出てきなさい」と、頭を押さえながら祈りながら、祝福をしていただきました。それからそのあとで、その教会の牧師をしておられた高橋先生というのが、相当ご年配の方で、昔、西南学院で聖書を講義しておられたような非常に立派な先生なんです。その先生が、私を特別に可愛がっていただいたような気がするんですね。あの当時は一中学生、今の高校ですけれども、昔は中学校が五年までありましたから、本当に私をかわいがっていただいた。壮年会とか青年会とか、家庭集会をうちで開くということで、本当に何回も開きました。
 母親は、ただ一言も、「あなたは日基の教会に行きなさい」といったことを一言も言ったことはありません。本当ならば、悪い言葉で言えば、同じキリスト教といえども他宗派の人がたくさん集まってくれば、殴り込みをかけてきたといえば非常に語弊がありますけれども、そういうふうにとられても仕方がないような行為を私たちしておったんですけれども、母親は一言も言わず、むしろそれを歓迎しているようなようすでした。
 私は妹三人を、そこの日曜学校に連れていくようにしました。男が五人、女が三人なんですけれども、八人兄弟の、私が総領ですから、それで連れてくるようになって、そして一番上の妹は原子爆弾でやられましたが、あとの二人は現在、この教会を建てられた牧師先生、松村先生のご紹介で、それぞれバプテスト教会の牧師のところに片づいて、そして、一番末の中条というのは、その息子が二人おりますけれども、現在やはりバプテスト教会の牧師をしております。夫婦ともに牧師の資格がある、牧師夫妻なんです。その上の姉の娘が二人おりまして、上の娘は四国の松山の教会の銀行員のところに片づいてこれも熱心なバプテスト教会の会員になっています。その結婚相手のお父さんもお母さんもそうです。それから妹のほうは今、九州の諫早というバプテスト教会の牧師をしております。
 考えてみると、あの賀川先生の説教に行って、高橋先生からいろいろと薫陶を受けて、昭和十一年、私が中学校を卒業する時は、外語には入れませんでした。ほとんど満点の成績をとったと思うんだけれども、落ちて、やっぱり外語は難しいんだなあと思って、しかし、どうしても挑戦するんだということで、昭和十二年に入学することができて、昭和十五年に卒業をいたしました。

 その父が死んだ時の話になります。
 話が前後して、メモでもあれば順序だてて説明できるんですが、申し訳ありません。
 父危篤という電報を受けて、電車に乗って家に帰ったら、あの母親が、気丈な母親が、「お父さんが死んだ」と土下座して謝ったということまでお話ししました。
 そして、父親の前で、冗談で言っているんじゃないですけど、言いました。
 「お父さん、帰ったよ。お父さん、帰ったよ」
 返事がない。父はすでに冷たくなっていました。
 ああ、これでもう万事休す。自分はせっかく学校に入ったのに学校をやめて、ぼくは一番長男だから、家族のために働かなくちゃならんなあと、そして父親が、
 「国雄はまだ帰らんか、まだ帰らんか」
 というようなことを、何回も何回も言っていて、一番最後にやはり、国雄はまだ帰らんかと言ったという、そういうことを聞きながら、横たわった父親を見て、ぼくに何を言いたかったんだろうと思いながら、父親の姿を見て、ただただ、涙。
 しかも、父親は私を大阪に、喜び勇んで、大阪外語学校に入るために出ていく前の日に、ちょっと病気をしておりましたので、冗談で、
 「父上、しばしのお別れじゃ。肩でももんでしんぜよう」
 と言って、肩や腰、足のほうまでずっともんでやって、そのもんであげた同じ場所で横たわって、死んでいるではないですか。その時もう、ふっつり学校はやめて、長男なんだから家族のために働くということを固く決心しました。
 そして、死んだ時刻がですね、2時13分という、それを聞いた時に、本当にもう、雷が落ちたような、雷が落ちたということはお話ししましたが、雷が落ちたような気持ちでもう気違いのようになりました。そして、もう、神様に、
 「神さま、あなたは私を見捨てたもうたですか」
 と言って、神様にどなりつけました。そういうことがありました。
 そして、大阪に行って一体どうしたらいいだろうか、そういうお祈りをした時に、母親が、お祈りのなかで母親と二人で、長い長い涙の祈りを続けたわけですけれども、もう私は学校をやめることを決心しました。しかし、どうしていいかわからんのです。
 「神さま、助けてください」
 ということを、母といっしょに涙ながらに祈ったんですね。
 そして、長い長い涙ののちに、母が私に言うんです。
 「学校をやめて、家族のために働くということを、あなたは言ってくれたけれども、本当にありがたいけれども、お母さんの考えは違うよ。あれだけ喜んで大阪の外国語学校に行ったじゃないか。学校を続けなさい。あなたは日本男児でしょう」
 と母親は叱るように言うんです。そして、
 「お葬式が済んだらすぐに、学校に帰んなさい。ただね、学資なんかは送れない、そこはあなた、男でしょう。苦学してでも何でもいいから、働きなさい。うちから金は送れないよ。とにかくあなたは、学校を卒業しなさい」
 と言って、お葬式が済んだらすぐにもう、学校に帰んなさいという母親の言うとおりにいたしました。大阪に着いてからも、どうしていいかわからないんですけれども、苦学してでもやんなさいというような言葉を母からいただきました。
 そして数日してから、母から長い長い手紙が来たんです。
 私の家族はわりあいに広い家を借りて住んでおったんですけれども、父親がなくなってもう収入がないということになれば、どこか小さいうちに移って移り住まなければならない、そういう時だったんですよ。
 それが母の手紙によりますと、母や私の祈りが聞かれたんでしょう、神様はちゃんともう、間髪を入れず、われわれ家族のために、救いの手を差し伸べていただいた。
 それはどういうことが書いてあったかというと、第一に、移り住むべき家が与えられたということ。それは父親の幼友達で、呉市で事業に成功されて何軒かの借家も持っておられる方で、父親が死んで、私が外語に行って、さぞかしお困りだろうということで、そのうちの一軒がたまたま空いていたんですね、その移り住むべき家が与えられたという。私はもう後ろ髪引かれる思いで、呉を発って大阪に行ったんですけれども、数日してから母から手紙が来て、長い長い手紙が来て、家が与えられた、幼友達で呉で成功されて何軒かの借家を持っておられる、そのうちのわりあい広い家です、一軒空いていた、それが与えられた。そこで住んで下さい、お金なんか要りません、期限もない、あなたのうちだと思って使ってください、そういうことが第一に書いてありました。
 それから第二番目は、母親が就職が決まったという、今はコンビニエンスストアとか何だかありますよね、あれをもっともっと小さくしたような、チェインストアと言っておりましたが、そのチェインストアのマネージャー格というか、それをたまたま探していた時に、日基の教会の長老の方のところで、職が与えられたというんですね。母親は生まれて初めて月給取りというか、そういう仕事に就くことになった。
 それから第三番目は、これは本当に驚くことなんですけれども、やはり父の知人で、呉市の実業家の方なんですけれども、呉に「千福」という、あるいはご存知かもしれませんが、お酒を造っている会社がある、三宅清兵衛さんという社長さんなんですけれども、その人が私たちの家族のことを思いやったんでしょう、奨学資金を、学校を卒業するまで、その三宅清兵衛さんともう一人は広島県に三原というところがありますが、三原にセメント工場があって、そこの社長が浅野総一郎さんという浅野セメントの社長、日本鋼管の造り主と安田銀行、今の富士銀行ですね、今また名前が変わっておりますが、そういうのと一緒の財閥の長ですよね、その人が社長で、佐々木さんという方、このお二人が3年間、ちゃんと私の学費を出してくださるという、ぽんと、いくら出されたかは知りません、私の母に渡したんではなくて、私の父は当時、呉市の市役所で税務課長を勤めておりまして、その後任の税務課長に渡されて、とにかく3年間奨学資金ですね、生活費とか学費とか、要るものを全部出してあげるという、そういう通知を受けました。

 もうその時は本当に、なんといっていいのか、その手紙を読んだ時にもう涙が出て涙が出て、もう本当に「ハレルヤ!」という気持ちでした。
 その前に、私は大阪に帰ったらすぐ、家庭教師をする、そして苦学してゆくんだという、教官室の隣に掲示板があって、そこに「家庭教師お願いします」という、「英語部の生徒さんに英語を教えていただきたい」というのが、たくさん出ているんですよ。それでもう驚くなかれ、三つの家庭教師をやることに決めたんです。さしあたりそこで充分、学資をかせげると思いました。そのうえに、そういうような奨学資金を出してやろうというようなことで、昔の人は本当にすばらしい方が多かったように思います。そして、今申しましたように、神様に感謝する、神様に感謝するという気持ちでした。
 私は昭和十一年、8月15日に高橋牧師によって洗礼を、バプテスト教会で受けました。それが、バプテスト教会との始まりでした。それが今日、家内もこの教会で、一緒に結婚しました。これも不思議なことで、そんなことをお話しするともうきりがありません。
 本当に神様の、祈れば必ず聞かれるということを、あの当時、身をもって体験しました。

※ T兄のお証しの報告、遅くなってすみません。
  この後、戦中や戦後のお話など少しされて、最後にハーモニカによる賛美歌の演奏と、T兄の愛称聖句を文語訳と新共同訳で暗唱していただきました。  (記:大田)

詩篇 23篇

 主はわが牧者なり われ乏しきことあらじ
 主は我をみどりの野にふさせ
 いこひの水濱にともなひたまふ
 主はわが霊魂をいかし 名のゆゑをもて我をたゞしき路にみちびき給ふ
 たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害をおそれじ
 なんぢ我とともに在せばなり
 なんぢの笞なんじの杖われを慰む
 なんぢわが仇のまへに我がために筵をまうけ
 わが首にあぶらをそゝぎたまふ
 わが酒杯はあふるゝなり
 わが世にあらん限りはかならず恩恵と憐憫とわれにそひきたらん
 我はとこしへに主の宮にすまん

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
 主はわたしを青草の原に休ませ
 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。
 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。
 あなたがわたしと共にいてくださる。
 あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。
 わたしを苦しめる者を前にしても
 あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
 わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。
 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
 主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。

   ピリピ書 / フィリピの信徒への手紙 4章4〜7節

 汝ら常に主にありて喜べ、我また言ふ、なんぢら喜べ。
 凡ての人に汝らの寛容を知らしめよ、主は近し。
 何事をも思ひ煩ふな、
 ただ事ごとに祈をなし、願をなし、
 感謝して汝らの求を神に告げよ。
 さらば凡ての人の思にすぐる神の平安は
 汝らの心と思とを キリスト・イエスによりて守らん。

 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。
 主はすぐ近くにおられます。
 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、
 求めているものを神に打ち明けなさい。
 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、
 あなたがたの心と考えとを キリスト・イエスによって守るでしょう。


投稿者 : ota 投稿日時: 2007-10-01 09:49:12 (3008 ヒット)

壮年会誌「シャローム」第24号(2007.9.30)より

目次
【報告】神学校夏季講座から
【開会礼拝】 「共に福音にあずかるために」   藤井 秀一先生 (2007.8.6.)
【HP】 教会員のホームページ紹介 


投稿者 : ota 投稿日時: 2007-07-29 00:20:55 (3233 ヒット)

壮年会誌「シャローム」第22号(2007.7.1)より

【証し】神学校週間のあかし     大田 雅一 (2007.6.24.主日礼拝)

 壮年会の大田と申します。神学生といっても、四十のおじさんですが。
 この4月から、東京バプテスト神学校に聴講生として通っております。

 週二回、火曜日のギリシャ語と、木曜日の新約聖書概論を学んでいます。
 きっかけとしては、山浦玄嗣先生の特別伝道集会での講演を聴いて、新約聖書をぜひ原語のギリシャ語で読みたいと思ったことです。ギリシャ語の講師は今年から、渋谷バプテスト教会の牧師夫人の渡辺恵理子先生が担当されています。渋谷教会のみなさんには、先週ここで伝道講座をしていただきましたね。
 どうせ通うならついでにもう一科目聞こうと思って、新約聖書概論もとりました。こちらの講師も今年から変わり、大泉バプテスト教会の松村誠一先生が担当されています。松村先生は、ときわ台教会の初代牧師のご子息で、先日うちでも説教をしてくださいました。これも何かのご縁かなと思っております。

 さて、通い始めてみてわかったのは、この東京バプテスト神学校が、たいへん恵まれた環境にある学校だということです。
まず、場所がいい。校舎は、茗荷谷教会の二階にあります。茗荷谷教会は、本日お話いただいた朴思郁先生のお勤めされる教会ですが、池袋から地下鉄で二駅の茗荷谷駅から徒歩一分、ほんとに目の前にあります。常盤台からなら、二十五分で行けます。
 また、時間がいい。夜間で、平日の夕方6時半からというのが便利です。普通のサラリーマンでも、勤めが終わってから通える時間です。受講生の多くは昼間の仕事のあと、それぞれの職場から集ってきます。おにぎりやサンドイッチを食べながら。
 つくばからつくばエキスプレスで通ってくるおばさまがいます。飯能から特急で通ってくるおじさまもいます。この東京の真ん中に夜のともし火のようにある学校を目指して、首都圏の各地から集まってきます。通えない方のために、通信制度もあります。
 それにしても、みなさんほんとに熱心で、遅刻も欠席もしません。私は高校で教員をしているのですが、高校生に比べて、社会人のみなさんは忙しいのにがんばっています。やはり、聖書を学ぼうという目的意識が明確だからでしょう。
 そして、値段が安い。これこそ、みなさまの献金のおかげです。一講座が、週一回半年で二万円ちょっとです。普通の語学教室などと比べたら、半額でしょうか、ずいぶん安いですね。教室の維持費や人件費はずいぶんかかっているはずですが。
 この常盤台教会を初め、北関東3連合など多くの教会のみなさまの献金に神学校は支えられています。働きながら学ぶ学生たちのために、これからもよろしくお願いいたします。

 私は、この神学校があることを、私たちバプテスト教会の誇りに思います。おそらく、どこの神学校よりも、東京バプテスト神学校は、開かれた神学校だと思います。校長の北島靖士先生は「カルチャースクールの感覚で学べる神学校だ」と言っています。
 サラリーマンでも主婦でも、街のおばさんおじさんでも学べる神学校。しかし、内容的にはずいぶん深いことを学んでいます。そして、この神学校は、多くの卒業生を出し、献身者を生んでいます。前にうちの教会にいらした藤井秀一先生もそのお一人です。
 夏休みにはいつも夏期講座が開かれるのですが、今年は藤井先生が卒業生として参加され、酒田伝道所の報告をしてくださる予定で、今から楽しみにしています。八月の最初で2泊3日、一般の方の参加もできますので、みなさんもぜひどうぞ。
 (8月6〜8日 多摩センターの宿舎で開催/詳しくは神学校まで)

 さて、私が学び始めて3か月、まだまだ未熟ですが、毎回いろいろ新しい発見があって、楽しく過ごしています。今日はその学んだことの中からひとつだけご紹介して、みなさんとお分かち合いしたいと思います。

 毎月初めに、教会では「主の晩餐式」を行いますね。
 その時に読まれる聖句は、コリント人への第一の手紙のみ言葉です。みなさんよくご存知でしょうが、一度お読みします。11章の23節からです。新共同訳314ページ。

 主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念として、このように行いなさい」と言われました。
 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念として、このように行いなさい」と言われました。

 新約聖書概論では、それぞれの担当者がレポート発表するのですが、私の担当がこのコリント人への手紙でした。
 ところで、この訳のうち、わたしの「記念として」行いなさい、という「記念」という意味が、今ひとつ私にはぴんとこないというか、よく理解できていませんでした。
 今読んだのは新共同訳ですが、文語訳も口語訳も、ここはみな「記念」となっています。(※ 新改訳は「私を覚えて」となっていますが)
 ところが、松村誠一先生は、このように解説されたのです。

 この「記念」という言葉は、元のギリシャ語では、「 αναμνησιs アナムネーシス anamnesis 想起」という言葉になっています。「想い起こす」「思い出す」という意味です。
 つまり、主イエスのことを「思い出す」ために私たちは、パンとぶどうをいただくということです。とてもわかりやすい訳だと思います。

 そして、松村先生は、私たち受講生に、この角川文庫版の「新約聖書」をくださいました。
 これは、先生のお母様の、松村あき子夫人が訳されたものです。
 この本では「記念」ではなく、「思い出す」と訳されています。
 では、その箇所を、お読みしましょう。
 なお、この訳では、イエスさまは私たちに対して「きみたち」と、親しく呼びかけてくださっています。

  主イエスは、売り渡されるその晩に、パンを取り、神に感謝してこれを裂き、「これはきみたちのために与える私の体である。私を思い出すために、このとおり行なうがよい」とおっしゃった。
  食事のあと、同じように杯を持って、「これは 神ときみたちとのあいだに新しい契約が結ばれるよう、私が流す血だ。これを飲むたびに 私を思い出しなさい」とおっしゃった。

 なんと、やさしい訳ではありませんか。イエスさまが、すぐそこにいらして、私たちとともに食事をされている姿が、ありありと思い出されるような気がします。
 イエスさまを思い出すために、日夜、聖書の学びを続けている神学生たちのために、みなさまのご支援を、これからもよろしくお願いいたします。  :b: :haha:


投稿者 : ota 投稿日時: 2007-07-06 09:54:53 (2433 ヒット)

壮年会誌「シャローム」第22号(2007.5.27)より

    イエス・キリストについての証し

  この方は、水と血を通って来られた方、
  イエス・キリストです。
  水だけではなく、水と血によって来られたのです。
  そして、猯遶瓩呂海里海箸鮠擇靴垢詈です。
  猯遶瓩録人だからです。
  証しするのは三者で、猯遶瓩反紊鳩譴任后
  この三者は一致しています。
             ヨハネの手紙一 5:6〜8

【1月の証し】三位一体の神    大田 雅一 (2007.1.14)

 年の初めに、キリスト教の基本である三位一体について、自分の証しをも交えて、お話ししたいと思います。この「三位一体」は、難しいとか、よくわからないということを、キリスト教の信者でない方から、よくお聞きします。
 実は、そういう私自身、クリスチャンでないうちはそうでしたし、正直言いますと、バプテスマを受けてからも、時々、よくわからなくなったり、あるいは、少し疑ってしまったことすら、ありました。

 それは、どうしても、頭で、人間の理屈で、狭い智恵で、考えてしまうと、納得がいかなくなってしまうことがあるからでしょう。
 父と子と聖霊、三つのものが、三つでありながら、一つである。
 1+1+1が、3でなくて、1になる。
 単純に考えると、おかしいと思われるかもしれません。