「愛するきょうだいとして」山下真実牧師(2019/01/13)

 「成人(式)」という言葉は「人」と「成」ると書きます。ある一定の年齢になって、ようやく一人前として、社会を構成するひとりの人として認められる。そのような意味がそこにはあるのでしょう。しかし、人が人と成るとはどういうことでしょうか。
 パウロは信仰における愛する協力者、フィレモンへの手紙の中で、オネシモというひとりの人物について「監禁中にもうけたわたしの子」(10節)であると語っています。このオネシモは、フィレモンの奴隷であったのですが、何かしら問題を起こしてそこを逃げ出し、パウロのもとへと辿り着き、信仰をもつようになりました。パウロはフィレモンに、このオネシモをもう一度受け入れてくれるようにと手紙を書いたのです。
 彼はオネシモについて「以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つものとなっています」(11節)と言っています。この言葉は一見、「役立つものとなったから受け入れてほしい」という言葉にも思えます。また彼の「本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思った」(13節)、また「あなたの承諾なしには何もしたくありません」(14節)という言葉からは、オネシモというひとりの存在を、彼らが自分たちの所有物のように捉えているような、当時当たり前であった奴隷文化のにおいも感じられます。
 しかしそのような文化的な背景の中にあって、パウロがオネシモを「わたしの心である」(12節)と言っているということは驚くべきことです。ここでいう「心」とは「はらわた」、心の深い部分であり、激しい愛情や熱情を表す言葉です。パウロが、フィレモンに対する自らの立場を捨てて「愛に訴えてお願いします、年老いて…キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。…頼みがあるのです」(9, 10節)と訴えたその心がここにあります。彼をそのような愛情へと突き動かしたものは、間違いなくイエス・キリストの信仰でした。
 聖書が語る人と人との関係というのは、「役に立つ」「立たない」という関係ではありません。年齢や立場によって、何でも「命じてもよい」(8節)という関係でもありません。年齢を超えて、立場を超えて「愛するきょうだいとして」、互いを「わたしの心である」と言うことのできる関係です。誰かにそのように受け入れられて初めて、人は人と成ることができるのではないでしょうか。イエス・キリストが地上で一人ひとりの人と出会い、その存在を受け入れてくださったように。
 新しく「成人」の時を迎えた方と共に、私たちはこの時を、互いを大切な人として受け入れる時としてお祝いしたいと思います。

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