「あなたがうれしい」山下真実牧師(2018/12/16)

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 クリスマスがイエス・キリストの誕生をお祝いする日であるということは、今や全世界で知られていることです。世界中で祝われるクリスマスですが、この日を楽しみにしている人と、そうでない人がいるかもしれません。今から約2000年前、クリスマスのはじまりとなった「救い主」のおとずれも、ユダヤの人々をはじめとする沢山の人々が、長い間待ち望んでいた出来事…のはずでした。
実際には、イエス・キリストは歓迎されるどころか、安心して生まれる場所すらなく、薄暗い家畜小屋の飼い葉桶にお生まれになりました。

「この世に神の救いの光が来た」渡部信牧師(2018/12/09)

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さて、クリスマスが近づいて参りました。どうして毎年、クリスマスをお祝いするのでしょうか。クリスマスはイエス・キリストの誕生の日としてお祝いされていることは、多くの方がご存知です。でもイエス様は十字架にかかり、私たちの罪の贖いのために死に、復活し天に昇られこの地上にもうおられませんのに。この世におられない方の誕生日を、毎年毎年お祝いする。これは通常、ありえないことでしょう。普通、天に召された命日を大切にします。それにも拘わらず、このクリスマスが毎年、約2000年間に教会でお祝いされるのはどういう意味があるのでしょうか。

「アドベントの祈り」友納靖史牧師(2018/12/02)

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 キリスト・イエスの誕生(降誕日)を待ち望む4週間を、アドベント(待降)と呼びます。教会にとって、一年の中で最も喜びと期待に満ち溢れる季節です。クリスマスが教会の祝日(12月25日・当時の冬至祭の日)と定められたのは、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世がキリスト教を公認した西暦AD313年の直後からでした。それまで初代教会が大切にしていた日とは、肉体の誕生ではなく、主がバプテスマを受けられた日(東方教会の公現祭1月6日)とされていたからです。

「 全世界に出て行って 」 カーソン&ローラ・フ―シー宣教師(2018/11/25)

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 今日の聖書箇所、マタイによる福音書28章16節から20節までは、クリスチャンによく知られているところです。 “THE GREAT COMMISSION”、日本語では大宣教命令とよばれています。イエスさまは伝道を始められたガリラヤの山上で、弟子たちに最後の教えを語られました。この命令により、イエスさまは弟子たちに宣教活動を促したのでした。2000年後の現在、キリスト教信者は同じ命令にもとづいて伝道しています。

「 生まれつきの罪人 」 山下真実牧師(2018/11/18)

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 「生まれつき○○」という言葉を、私たちはどんな思いをもって用いるでしょうか。そこには「生まれたときから」という単純な意味だけでなく、決して抗うことができず変えることのできない、その命が生まれもった現実について憂い、時にその理由を運命という言葉を用いて目に見えないものに問うてみたり、両親や家系というものに負わせようとしてみたりする、言葉にし難い様々な思いが込められているように感じることがあります。ヨハネ9章に登場する人の現実についても、弟子たちはその理由を当人や両親に見いだそうとしました。

「 コイノニアー隣人と共にある平安 」友納靖史牧師(2018/11/11)

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「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(133:1)。詩編で歌われるこの歌に「コイノニア」の意味が凝縮されます。神の人間に対するご計画「シャローム」を日本語では、私たちの内面に与えられる“平安”と、私と隣人との社会性を“平和”と訳し分けます。ギリシャ語「コイノニア」は神と人、人と人との関係性『交わり』を語り、ヘブライ語「シャローム」は人のみならず、神のもとにある全ての被造物との平和的関係性を意味するより広く世界全体を包括する言葉として用いられます。

「コイノニアー神と共にある平安」友納靖史牧師(2018/11/04)

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「コイノニア」とは、第一に「神との霊的な交わり」、第二に「キリストを信じる者同士が主を介して持つ交わり」の両方を意味するギリシャ語です。今週は、神との関係を深めることにより、真の平安がどのように与えられるかを分かち合います。毎週の礼拝を終える直前にある「祝祷」の言葉の一つに、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり(コイノニア)が、あなたがた一同と共にあるように(コリ二13:13)」が祈られ、主なる神とのコイノニアがいかに大切であるかが宣言され、この世へと遣わされていきます。

「神の示す方向」松崎準牧師

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ヨナは、紀元前8世紀の北王国イスラエルの預言者です。神はヨナにアッシリアの都ニネベへ行って預言をするように命じます。その内容は「悪を悔い改めて行いを改めなければ、まもなく神の審判が下り滅ぼされる」というものでした。しかし、ヨナはこの命令に従わず、反対方向のタルシシュ(現在のスペインの辺り)に逃げて行きます。しかし、神はヨナが逃げるのを許しません。神はヨナの乗った船に嵐を送り、身動きが取れないようにします。船員たちはそれぞれ自

「違いを受け入れて」山下真実牧師

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私たちは「弱い」ということをどう捉えているでしょうか。
パウロが手紙を書いた当時のローマの教会には、生活上の様々な「違い」をもった人々が集まっていました。そのような「違い」の中、ある人々の価値観が、「信仰」という尺度に照らしたときに「弱い」とされ、批判されていました。パウロはそのようなローマの教会の人々に対して「信仰の弱い人を受け入れなさい」(1節)と語りました。なぜなら、「神はこのような人をも受け入れられたからです」(3節)。当時の教会と現代とでは、「信仰」の強い弱いの尺度に違いがあるかもしれません。しかしいつの時代にも、教会や社会において「弱い」とされ、また「弱い」ことによって「その考えを批判」(1節)されてしまう人々がいるということに、パウロは光を当てています。

「信条から告白へ⑩『限りなき命にアーメン』」 友納靖史牧師

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私たちは“限られた生命と時間”の中で生きる者です。しかし神が「人の心に永遠を思う思いを授けられた(口語訳:伝道の書3:11)」と、未だ経験のない永遠の時を、思うことが可能な存在とされていると約束されます。ですから、私たちは“限りない・いのち”に思いを馳せることができます。ところが、旧約聖書では、死を迎える全ての人は地深くにあるシェオール(陰府・よみ)へ行くと考えられていました(ヨブ記7:9他)。