「イエスの語る旧約の福音(29)『人生を変える”光”』」友納靖史牧師(2019/12/01)

[embed]http://tokiwadaikyoukai.com/wp-content/uploads/mp3/2019-12-01.mp3[/embed]

[聖書]イザヤ9章12~17節、マタイによる福音書4章12~17
「光」には二つの意味があると聖書は語ります。一つは、肉眼で見える、生命を育む力を持つ光。もう一つは、人の生き方に大きな変化を与える力を持つ、心と魂に注がれる眼には見えない「真理の光」「希望の光」です。
 預言者イザヤは神の言葉を王アハズに伝えますが、王は耳を貸さず、主なる神の御心に反した歩みを続けます。にもかかわらず神はイザヤに「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた(9:1)」と有名なインマヌエル預言(7章)の後に続いて語りかけます。

「 主に仕える働き」内藤淳一郎牧師(茗荷谷キリスト教会協力牧師)(2019/11/24)

[embed]http://tokiwadaikyoukai.com/wp-content/uploads/mp3/2019-11-24.mp3[/embed]

[聖書]ローマの信徒への手紙12章6~8節
 復活の主イエスは世界にご自分の体である教会を建て、2000年前の地上の働きを継続されます。教会は主が「神の国」の福音を宣教したようにイエス・キリストの言葉を語ります。教会は主イエスが「小さくされている人々」に寄り添い、「神の国」の到来を示す働きをされたように、「神の国」を証しする働きをします。

「イエスの語る旧約の福音(28)『 ”愛”が呼び覚まされる時』友納靖史牧師(2019/11/17)

[embed]http://tokiwadaikyoukai.com/wp-content/uploads/mp3/2019-11-17.mp3[/embed]

[聖書]雅歌2章1~7節、ルカによる福音書7章36~50節
 「雅歌」の直訳は「歌の中の歌」であり、「格言を三千、歌は千五百首を読んだ(列王上5:12)」とされるソロモン王の若い時代、彼の率直な異性への想いが記されたものです。しかし単なる男女間の愛を越え、神が人間に与えられた新約における「アガペー(無条件で一方的に注がれる愛)」と結びつく真理が秘められています。ヘブライ語「愛」と訳される言葉は主に二つあり、神の愛を示す旧約の代表「ヘセド(契約の愛:双方が契約を交わし守る責任を伴う愛)」ではなく、「アーハヴ(アガペーと同じ、無条件の愛)」(名詞が)がこの雅歌には旧約中で最も多く使用されています。文語訳「愛のおのづから起るときまでは 殊更に喚起し且つ醒すなかれ(2:7)」とあるように、真の愛とは、愛が自ら目覚めたいと決断する時まで、決して無理に揺り動かして起こしてはなりません。それは恋愛、夫婦や親子関係、更には信仰に基づく愛の全てにおいて、強制的力によらず生じる大切さがこの雅歌で繰り返し呼びかけられます(3:5,8:4)。

「イエスの語る旧約の福音(27)『人生、最大の幸せ』友納靖史牧師 (2019/11/10)

[embed]http://tokiwadaikyoukai.com/wp-content/uploads/mp3/2019-11-10.mp3[/embed]

※本日の聖歌隊賛美は音声でお聞きください。
[聖書]コヘレト12篇1~2節、ルカによる福音書12章13~21節
 与えられた人生で、誰もが「幸せ・幸福・Happy」になることを願います。ですが「幸せ」と感じる感覚は一人一人異なります。コヘレト(ソロモン王)は当時、世界最大の富・栄華を手にした人物で、地上で可能な限り全て願うことをやり尽くした結果、こう告白しました。「なんとういう空しさ。すべては空しい(空の空。一切は空である)」(1:2)。しかしそれは神が存在しないと仮定し、自分勝手に生きた結果から導き出された言葉です。つまり、神の存在を信じないなら人生は、正に空しいとの結論に到達し、遂にこの書の結語に彼はこう記すのです。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ(12:1)」と。

「イエスの語る旧約の福音(26)『神だけが知る”その時”』友納靖史牧師(2019/11/03)

[embed]http://tokiwadaikyoukai.com/wp-content/uploads/mp3/2019-11-03.mp3[/embed]

[聖書]コヘレト3篇1~11節、マタイによる福音書24章32~44
 「その日、その時は、だれも知らない。…子(主イエス御自身)も知らない。ただ、父だけがご存知である(マタ24:36)」と主イエスは語られました。この「その日、その時」とは、弟子が尋ねた「あなたが来られて世が終わる時には、どんな徴があるのですか(マタ24:4)」のことです。主が語られた「時」には二つの時が含まれていました。昇天後、紀元70年にエルサレム神殿がローマ軍によって壊滅し、イスラエルの民が世界へ離散してしまう時のこと。もう一つの時とは、主がヨエル書3章3節以下を引用された「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり…天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる(マタ24:29)」と、この世界が永遠に続かず、必ず終わりの時が訪れ、主が再び地上に現れる(再臨)、人間の歴史が終わる時のことです。主イエスは決して不安を煽るためではなく、私たちに希望を注ぐため、神の計画を語られました。

「名を与え呼ばれる神」連盟教会教育専門委員 富田直美先生(2019/10/27)

[embed]http://tokiwadaikyoukai.com/wp-content/uploads/mp3/2019-10-27.mp3[/embed]

[聖書]詩編147篇1~11節
大切な一人として
 一つの命が誕生するとその命に責任を持つ者は、一生懸命名前を考えます。その命に最もふさわしいと思う名前を考え、その名前に意味や願いを込めます。
 ポール・トウルニエの『なまえといのち』と言う書籍には『名前で呼ばれることによって自分は他人と分けられ、区別されるのですが、他人と自分を結びつけているのもこの他ならぬ「名前で呼ぶ」という事実によるのです。この区別すると言う行為は、自己を形成していくことによってなされます。

「イエスの語る旧約の福音(25)『労苦の実り 』」友納靖史牧師(2019/10/20)

[embed]http://tokiwadaikyoukai.com/wp-content/uploads/mp3/2019-10-20.mp3[/embed]

[聖書]イザヤ6章1~8節、ヨハネよる福音書4章31~38節
 イザヤ(「主は救い」の意)が預言者として立つまでには、心備えの期間が必要であり、6章に至り彼の召命決意が証されています。イザヤはウジヤ王(南ユダ王国10代)が亡くなった紀元前742年頃、国状不安定な折、霊的な預言者として政治上でも役割を担う働きへ召し出されました。イザヤが神と出会うのは、聖三唱(神を『聖なる』と三回唱える)、つまり神殿祭儀の礼拝のただ中でした。この賛美を通して彼は神の聖さ (神と人との分離・隔たり) に触れ、自ら罪人であると明確な信仰告白へ導かれます。イザヤは自らの罪と、国家に対する神の裁きへの不安から正しい「罪の意識」と共に、実は必要のない「罪責感」も生じました。それを知られた神は、セラフィム<天使のような存在>を遣わし(6:6)祭壇から火ばさみで取った炭火を彼の口に触れさせ、「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と宣言されます。

「イエスの語る旧約の福音(24)『 心配しなくていい理由』」友納靖史牧師(2019/10/13)

[embed]http://tokiwadaikyoukai.com/wp-content/uploads/mp3/2019-10-13.mp3[/embed]

[聖書]箴言16章1~9節、ルカよる福音書12章4~12節
 聖書は神が啓示された「信仰の書」と呼ばれ、また「知恵の書」とも呼ばれます。特に「箴言」は知恵の王ソロモンの格言(箴言)集として愛され、知恵も信仰と共に人生を支える両輪としてイスラエルの民を支えてきました。知恵(ヘブ語:ホクマー)とは「熟練によって悪を避ける」との意味で、「主を畏れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別(ヨブ記28:28)」と告白される通りです。何よりも、知恵とは人間の能力のみに頼らず、神と人との前に謙虚に生きることが箴言全体で語られます。主イエスは箴言そのものを引用された記録は福音書にはありません。ですが、イエス御自身が「神の知恵」であることを、今日の箇所の直前(ルカ11:49)にもあるように「神の知恵もこう言っている『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中にある者を殺し、ある者を迫害する』」と証しされました。

「イエスの語る旧約の福音(23)『捨石が親石へ』」友納靖史牧師(2019/10/06)

[embed]http://tokiwadaikyoukai.com/wp-content/uploads/mp3/2019-10-06.mp3[/embed]

[聖書]詩編118篇22~29節、ルカよる福音書20章9~19節
 石造建築物を建て、その最も要となる土台の石を『親石(cornerstone)』と呼びます。それが外れると、建造物全体が崩れるからです。主イエスは過越の祭りで朗読され、ユダヤ人に愛読された詩編より「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった(118:22)」を引用されました。その直前、主イエスが語られた譬え話は、当時の宗教家達を相当憤らせます。なぜなら、「ある人」とは父なる神、「ぶどう園」とは神の民イスラエル、そして「農夫たち」とは当時の宗教指導者たちを指していると分かったからです。

「イエスの語る旧約の福音(22)『いのちのごはん』 」友納靖史牧師 (2019/09/29)

[embed]http://tokiwadaikyoukai.com/wp-content/uploads/mp3/2019-09-29.mp3[/embed]

[聖書]詩編78篇23~29節、ヨハネよる福音書6章26~35節
「わたしが(は)命のパンである(6:25・48)」と主イエスは語られます。これはヨハネ6章の冒頭にある「五つの大麦パンと二匹の魚」を主が祝福した時、五千人以上の人々を満す物語に続く章全体の中心メッセージです。驚くべき奇跡を目の当たりにした群衆はイエスを捜しますが、それは彼らが再び満腹になりたいためでした。それを見抜かれた主は、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である(6:27)」と語られます。人の生涯を本当に満す「いのちのごはん(糧)」を与えることを願っておらたからです。そこで人々は「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょう」と尋ねます。すると主は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である(6:29)」と応答されました。