「 主の日、主の時、主の約束 」 山下真実牧師(2019/02/17)

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「いよいよ…」という気持ちになることがありますか。十字架にかかり、3日目に復活されたイエス・キリストは、弟子たちに「御自分が生きていること、数多くの証拠をもって」示されました(3節)。そして、その生涯に渡って語られていた「神の国」について改めて話をされ(同節)、さらには以前から語られていた通り「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(4節)と、「聖霊」について語られました。そんな中、弟子たちの中では、ある期待が高まってきたのです。

「 イエスの語る旧約の福音(4)『愛するに値する人とは?』 」 友納靖史牧師(2019/02/10)

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 「私は(あの人は)、愛されるに値するのか否か?」と自問自答したことはないでしょうか。しかし主イエスは語られるのです。「敵も、悪人も、迫害する者さえも、誰であっても神にとって愛されるに値する人である。だから愛し、祈れ」と。そう教えられても、心にはなお少し違和感が残ってしまうようです。

「 イエスの語る旧約の福音(3)『神にできないこととは?』 」 友納靖史牧師(2019/02/03)

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主なる神は、アダムとエバ(創2:9)、カイン(創4:9)以来、常に「対話」を大切にされるお方です。「富める青年」との対話において主イエスも、彼の抱える誤った神理解と信仰姿勢に気づかせようとされます。
この青年は純粋に主に教えを請いたいと近寄り質問したのではなく、完璧な人生を歩んでいると信じこんでいた彼を承認して欲しかったのです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねました。「永遠の命」は本来、神から与えられ「授かる」もので、人間の努力により「得る」ものではありません。まず彼の心にズレを感じた主は敢て問います。

「 イエスの語る旧約の福音(2)『神が 生きる者の神 』 」友納靖史牧師(2019/01/27)

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 江戸時代のキリスト教禁教令を受け、全ての人が氏子(神社)や檀家(寺院)に強制的に紐づけされ、「五人組」「家」制度が今まで根強く日本人に影響を与えていました。いにしえから続く先祖崇拝と融合し、家の墓を守る義務と責任が必要以上に「今ここに生きる者」に大きな負担を与える境遇にある方はおられないでしょうか。主イエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」と語られ、現代に生きる私たちにも実に大きな希望をもたらします。

「 イエスの語る旧約の福音(1) 創世記『神が結ばれた者たち』 」

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 四福音書には、主イエスが聖書(旧約)を引用し、神のみ旨を語られたことが記されます。今回のシリーズは、旧約全39巻を通して、主イエスが語られた福音の良き訪れ(Good News)を共に分かち合います。
 「創世記」には、天地創造の神が、男と女(夫と妻)を互いに必要不可欠で、助け合う関係存在としてこの世に命を与えたと宣言します。神に結び合わされた二人の存在関係は、永遠の時の中で神の祝福を受けはずのものでした。しかし、罪と男性優位の社会に育まれた歪みゆえに、モーセの律法(申命記24:1)が一方的に女性に離縁を言い渡して良い根拠とされていました。当時、ユダヤ教の中でも、離婚を正当化する聖書解釈、倫理観が二つに割れて議論されており、ファリサイ派の人々はイエスを試すためにこう尋ねたのです。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか(19:3)」。

「愛するきょうだいとして」山下真実牧師(2019/01/13)

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 「成人(式)」という言葉は「人」と「成」ると書きます。ある一定の年齢になって、ようやく一人前として、社会を構成するひとりの人として認められる。そのような意味がそこにはあるのでしょう。しかし、人が人と成るとはどういうことでしょうか。
 パウロは信仰における愛する協力者、フィレモンへの手紙の中で、オネシモというひとりの人物について「監禁中にもうけたわたしの子」(10節)であると語っています。このオネシモは、フィレモンの奴隷であったのですが、何かしら問題を起こしてそこを逃げ出し、パウロのもとへと辿り着き、信仰をもつようになりました。パウロはフィレモンに、このオネシモをもう一度受け入れてくれるようにと手紙を書いたのです。

「豊かに生きる秘訣」友納靖史牧師(2019/01/06)

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 「豊かさ」とは何でしょうか。通常、物質的な必要が十分に満たされることを表現する言葉です。しかし、ここでパウロが語る「豊かさ」とは、物質的必要が備えられているか否かに関わらず、自分の置かれた境遇で、「満ち足りる」心が与えられる信仰の豊かさのことです。11節の「満ち足りる(ギリ語:アウタルケス・新約でこの一カ所のみ)」とはギリシャ哲学ストア派が人生観を語る際に好んで使った「自己充足」を意味する言葉で、自分の願う知識、知恵、地位や物品が充足した状態を表しました。けれどもパウロがここで用いたのは、十字架の死に至るまでの生涯と復活、そして栄光に包まれたキリスト・イエスを知ること、又その道を自らも主と共に歩むとき、誰からも奪われることのない喜びと感謝を感じる心、即ち信仰が語られたのです。

「忘後向前(ぼうごこうぜん)の信仰」友納靖史牧師(2018/12/30)

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 「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ…走ろう(フィリピ3:13-14)」と語る言葉に、使徒パウロの信仰姿勢が明示されます。当時のフィリピ教会も課題を抱えていました。私たちのために十字架に架けられ、三日目に復活されたイエスを救い主・キリストと信じるだけで救われる明快な福音の真理に対し、その他の救いの条件を求める人々がいたのです。「割礼を受けなければ、あなたがたは救われない(使徒15:1)」と律法(ユダヤ)主義に染まったキリスト者との信仰理解でパウロは苦闘していました。

「クリスマス・喜びの源」友納靖史牧師(2018/12/23)

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 原始教会時代、主イエス誕生は次のように賛美されました。「キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~:聖書協会共同訳発行)。ここに、神であるお方が世を救うため、人となって誕生された驚くべき愛の姿を一言、神の「へりくだり」であったと告白します。
 福音書に記される降誕物語をこの視点から読むと、実は人々の「遜り(謙遜・身を低くする・貧しく生きる)」の実践が証しされています。

「あなたがうれしい」山下真実牧師(2018/12/16)

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 クリスマスがイエス・キリストの誕生をお祝いする日であるということは、今や全世界で知られていることです。世界中で祝われるクリスマスですが、この日を楽しみにしている人と、そうでない人がいるかもしれません。今から約2000年前、クリスマスのはじまりとなった「救い主」のおとずれも、ユダヤの人々をはじめとする沢山の人々が、長い間待ち望んでいた出来事…のはずでした。
実際には、イエス・キリストは歓迎されるどころか、安心して生まれる場所すらなく、薄暗い家畜小屋の飼い葉桶にお生まれになりました。