TOMONO

友納牧師のページ

私、友納靖史の

少し詳しいプロフィールと7つのテーマ

私、友納靖史は1963年2月18日、福岡市中央区西公園近くの産婦人科で産声をあげた。
牧師である父が最初に赴任した岡山市、そして熊本では生活団と西原幼稚園の計3つの園を経験。熊本市立帯山小・中学を卒業。高校より一人西南学院の寮に最初は入るも、帰寮5時などに我慢出来ずアパートで独り暮らしをし、人生の師・清水実牧師や多くの友と出会う。
福岡市西区に開拓伝道へ導かれた両親と共に住み、西南学院大学法学部(国際法大内ゼミ)に通うが、西南学院グリークラブの男声合唱に魅了され勉強より合唱バカとなり、セカンドパートリーダー・副指揮者を経て4年次に指揮者として立てられる。教職課程の単位が足りず、卒業後一年間聴講生として大学で学ぶ。

1985年秋、平和交流使節団の一員として当時まだ共産主義の迫害下にあった東ヨーロッパ諸国を約40日歴訪。困難な状況でも生きる目的と意味を見出しているキリスト者に衝撃を受け、自らの心に偽って逃げ続けた献身の思いを告白し、献身を表明。西南の神学部へ編入し専攻科を1989年3月卒業。
まだ主の御用をするには学びが足りないとの思いが強く与えられ、渡米して学ぶ道が開かれる。
同年2月の卒業旅行(長崎・雲仙)で出会った女性と自分の願いや思いを越えてその夏に不安な中でスピード?結婚。一週間後、共に渡米し未知の場所へ。しかし、「主の山に備えあり」との御言葉の通り、自分の計画や考えを遥かに超えて、次から次へと道が開かれ、必要が満たされるなか、改めて、生きておられる神の存在に感謝しつつ、数々の試練も通らせて頂くことになった。

最初は、Alabama州Gadsden市の大学ESLで9カ月間英語学習と共に、Etowahバプテスト協会(その地区のバプテスト教会連合)より、与えられたばかりの学生センターに妻・薫と共にInternational Directorとして9カ月住み、世界各地から来た学生たちを教会へと招く働きを現地の素晴らしいキリスト者と担う。
1990年、North Carolina Baptist State ConventionとFirst Baptist Church, Raleighより奨学金を頂き、Southeasternバプテスト神学校で牧会カウンセリングを学ばせて頂きながら、ノースカロライナ州内(当時5か所)を巡回し、福音宣教の働きを委ねられる。当時、元西南学院院長のルーサー・コープランド先生とルイーズ夫人、元宣教師バージニア・ハイフィル先生方が引退帰国後もその地に住む日本人を愛し仕えられ、その他の元宣教師の方々と現地の米国人教会の祈りと支援によって、州内各地で日本語聖書研究会が開かれていた。
「英語が話せても、魂の渇きは母国(日本)語による聖書の言葉で」との要請に応えて、日本人伝道・牧会の働きこそ主に託された働きだと示され、1991年7月28日、First Baptist Church, Raleighにおいて按手礼を授けて頂く。毎日曜日と平日はローリー第一バプテスト教会日本語集会牧師として奉仕し、週末や礼拝後に、他6か所(Charlotte, Fayetteville, Jacksonville, Havelock, Wilmington, Chapel Hill)での日本語による月例集会(礼拝)に通い、巡回宣教師に英語で、「あなたは現代のCircuit Riderですね」と言われる。乗っていたのは馬ではなくドッジの米国車だったが…)として奉仕をさせて頂く。

米国永住権も家も与えられ、長く在米日本人伝道の働きを担うことを願い歩んでいた。しかし伴侶の出身教会である長崎バプテスト教会より「マケドニアの叫び(使徒16:9)」として手紙を受け取るが、二度断り、三通目の手紙を読み、より真剣に主に祈る中で、不思議なしるしを次々と与えられ、離別の悲嘆を覚えつつ赴任を決意。
帰国を公表した1999年2月、私自身の生き方も、牧会姿勢も変えられる本と出会い、1999年8月9日(長崎原爆の日)に赴任するまで前一カ月の移動期間に、カリフォルニア州S教会の研修に家族で参加する恵みに預かる。長崎教会で牧師として、また教会附属幼児教室(無認可)「光の園」園長を2012年7月まで務める間、2001年より活水女子大学でキリスト教学(人間関係学科・健康生活学科など)を毎週水曜日10年間授業を受け持ち、また長
崎市医師会看護専門学校にて倫理(生命倫理)を夜間集中講義、長崎いのちの電話評議員と電話相談員養成講座師、長崎キリスト教協議会議長などの働きを通し、また各地の公立中学校で、いのちの授業などへ招かれ生徒や先生方、被爆地長崎で苦難の歴史を乗り越えて平和の光を輝かせる方々と教会内外との出会いを通して、全人ケア(教育・保育)に関するライフワークを与えられる。

2011年3月11日、約10年かけて教会員の方々と心血を注いで設計した新礼拝堂建築の業者6社の見積のその日、東日本大震災が起きる。被災地の方々と共に痛みを担うことを願い、建築を一年延ばし、その間の建築献金を被災地へ奉げることを教会が決意。その年の春先に被災地より手紙を受け取ったが、それは2003年に長崎市内で起きた峻ちゃん事件をきっかけに教会学校の子ども達と地域の子ども達の歌声を録音し、県下全ての小中学校へ配布したCD「長崎から希望の歌声を」を仙台で被災された方たちから、「あの同じCDを悲嘆の中におかれた子ども達へ届けて欲しい」との依頼の手紙であった。
まず宮城県全域の幼稚園から高校まで配布し学内で用いられるため再版。しかし更に岩手、福島の両県にも配布する要請を受け、再々プレスすることになったが、建築献金がそのために奉げられた。
その年の秋、NC州の修養会(全地区合同)が25周年を迎えて最後になるとのことで講師として招かれ、家族で渡米、その時に常盤台教会より招聘を受ける。地震が起きる可能性の高い関東へは出張さえも極力避けていた者だったが、東日本大震災で東北にある諸教会が地域のために献身的に用いられる貴い働きを目の当たりにしたことにより、痛みの中にこそ教会の使命が輝くことに心が砕かれ変えられていった。かつて米国より長崎へ赴任する時も、先のことは全く分からないなか、御言葉が先に与えられ、主に支えられ、驚くべき主のご計画と出会いがあったことを思い起こし、悩み祈りつつも、2012年1月に招聘を受諾。2012年8月半ばに長崎を辞任し、9月より常盤台教会へ着任。2013年7月より教会附属「めぐみ幼稚園」園長代理、14年より園長を兼務して現在に至っている。

米国では20~30歳代で年間3万キロを走破しつつ各地を飛び回り、長崎では30代から40代に平和への取り組みを託された教会・地域と共に、いのちの教育に携わり、40代から今この50代は、板橋の地で全ての年齢層の方々の集う教会での福音宣教活動と共に、幼児教育の働きこそ人生の土台を支える大切な働きだと改めて学びつつ、教会の方々と共に、幼稚園へ通う家族の方々と共に過ごさせて頂いている。

 

「あなたがたのその悲しみは、喜びに変わります」(新約聖書ヨハネ福音書16章20節)

との救い主イエス・キリストの言葉が、人生の様々な不安や悲しみに直面しておられる方々にとって、いつの日にか、「主の言葉は本当に真実でしたね」と、喜び合える日が来ることを信じ、主が許される限り共に歩ませて頂きたいと願っている。

人生には神さまから一人一人に違ったテーマや課題が与えられるようです。私に託された人生のテーマから一部をご紹介させて下さい。

 

 

1.合唱と音楽
〇西南学院グリークラブ
〇米国演奏旅行・韓国 など
〇第十回教会音楽研修会講演記録
〇活水学院キリスト教音楽研究所

2. 米国日本人伝道
〇各地で力強く生きる在米日本人の方々
〇宣教師の先生方
・コープランド先生ご夫妻、ハイフィル先生とクラーク宣教師夫妻、カルペッパー先生ご夫妻、E.B.Dozier夫人など

3.全人教育と全人ケア
〇米国での学びと出会いから(Dr.)
〇AP(より良い親子関係講座)との出会い
〇長崎で被爆者の方々との出会い
〇常盤台での幼児教育とこれから

4. 平和を共に実現するために
〇板橋平和公園(常盤台)
〇被爆者の証し
〇「ヒロシマ・ナガサキの思い、未来へ」いのちのことば社刊と米国への手紙
〇アニー・ハウツヴァルトさん
〇調正路さん
〇スティーブン・リーパーさん
〇韓国での出会いと証し(金さん他)

5.「長崎から希望の歌声を」
〇長崎での出会い…家出少年少女たち
〇  〃    …イ・ミンソプさん
〇東日本大震災を通して
〇今も…、「きみは愛されるため生まれた」

6. 出会いによって人生を変えてくださった素晴らしい方々 
〇小学校…ランドル先生
〇中学校…松村先生
〇高校…清水実先生
〇大学…多田武彦先生
〇神学校…シート先生
〇米国… 上記
〇長崎… 上記

7. 最近のプロジェクトと今の祈り
〇健康な教会と健全な信仰生活を願って
〇東武東上線や都内で起きる、電車人身事故への祈りと取り組み
苦悩を分かち合える場・もし起きた時、目撃した方々や遺族へのケアを願って
〇映画「沈黙」の地を訪ねる旅
〇キリストの愛に基づく保育と教育の再構築