「この世に神の救いの光が来た」渡部信牧師(2018/12/09)
さて、クリスマスが近づいて参りました。どうして毎年、クリスマスをお祝いするのでしょうか。クリスマスはイエス・キリストの誕生の日としてお祝いされていることは、多くの方がご存知です。でもイエス様は十字架にかかり、私たちの罪の贖いのために死に、復活し天に昇られこの地上にもうおられませんのに。この世におられない方の誕生日を、毎年毎年お祝いする。これは通常、ありえないことでしょう。普通、天に召された命日を大切にします。それにも拘わらず、このクリスマスが毎年、約2000年間に教会でお祝いされるのはどういう意味があるのでしょうか。
聖書にはマタイとルカの福音書にイエス・キリストの誕生の物語が出て参ります。実際は何月何日にキリストがお生まれになったのか誰も分かりません。ただ1年の暦の中でキリストがお生まれたことは間違いでないので、あえてこの12月24日をクリスマスの日とした訳です。それではどうしてクリスマスが12月24日にお祝いされるようになったのでしょうか。
それは暦の冬至と関係があるわけです。冬至というのは1年中で一番太陽の出ている時間が短く、夜の深い闇が長いのです。けれどもその冬至を過ぎますと、今度はいままで最も夜の闇が深まったその時点から、今度は逆転して、少しづつ光が増してくる。そして日々、段々と光の時間が長くなり、最後には夏至に至るのです。その最初の「深い闇から光へ」逆転する時点こそ、実は12月の冬至の日になるわけです。
ですからクリスマスをお祝いするのは、一年中のいつでも良いのではなくて、どうしても12月24日ではなくてはならなかった。なぜならキリスト自身が光としてこの世の悪に打ち勝ったことを冬至の日と重ね合わせてそのメッセージを語る必要があった。つまり、聖書には大小のクリスマス物語がありますが、その中心テーマは「この世に救いの光が来た」というメッセージなしにクリスマスのお祝いは生まれなかったのです。
ヨハネ1章4節5節にこう書いてあります。
「命は人の光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。そして9節には「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と書かれている。ここで光とはイエス・キリストのことです。キリストは自らを世の光であると証しました。皆さんの中には、自分の人生を悲観的に捉えている人はいませんでしょうか。今も深い闇の中で苦しんでいると感じている人はいませんでしょうか。或いは、救いを求めて苦しんでいる人はいませんでしょうか。この世には悩めることがたくさんあり、思うようにいかないことがたくさんあります。だから私たちも必死になって、もがいて、そこから救われたいと願うのです。
聖書の中で、イエス・キリストは「昼間のうちに働きなさい。そうでないと闇が追いついかれないように歩みなさい」と言われました。だから私たちは、光を求めて、光のある内に歩むのです。