「道すがらの教会」山下真実牧師
「教会」というところは不思議なところです。普通に生活していたら出会うことのないような人たちが出会い、一緒にいなくてもいいのに一緒にいる、難しさがあっても、それでも敢えて一緒にいようとする、そのようなところだと思います。「教会」を表すギリシャ語のἐκκλησία(エクレシア)という言葉は、「(神によって)呼び出された者たち」という意味を持っています。神によって不思議と呼び出され、集められるようにしてここにいる私たち…。考えれば考えるほどに、その不思議さを感じずにはいられません。
初代教会におけるフィリポという人物は、エルサレムの教会で大きな迫害が起こったとき、そこを離れ、彼らユダヤ人たちが嫌悪していたはずのサマリアという地方に出て行って、キリストを宣べ伝えました。彼は当時の教会が置かれていた状況に押し出されるようにして、同時に神の“霊”によって導かれて進んで行ったのです。彼はサマリアからさらに進み、「寂しい道」(26節)でひとりのエチオピアの宦官と出会います。何かを求めて、聖書(イザヤ書)を朗読していた宦官は、彼を手引きし、教えてくれる人を求めていました(31 ,34節)。フィリポもまた、「イエスについての福音」(35節)を伝える相手を求めていました。決して交わるはずのない二人の人物が、不思議な形で出会い、隣に座って旅路を共にすることになったのです。
当時はまだ、現在の聖書の「旧約」と言われる部分しかありませんでした。彼らが伝えていた「福音」(良い知らせ)は、実際にイエス・キリストに出会った人々の証言でした。しかし実際、フィリポはイエス・キリストと生活を共にした「使徒」ではなく、彼自身もその使徒たちから「福音」を伝えられた者のひとりでした。
迫害によってエルサレム教会から散らされた、フィリポをはじめとするキリスト者たちは、不安の中を歩んでいたでしょう。自分たちの証言を人々は受け入れてくれるだろうか…またひどい迫害を受けるのではないだろうか…「教会」はいったいどこにあるのか…。しかしフィリポは、サマリアにおいて沢山のサマリア人が「福音」を受け入れるという出来事を経験する中で、あらゆる人を招き救う「福音」の力を体験し、そこにある喜びを彼自身が実感していました。そしていま、今度はエチオピア人の宦官に伝わるように「福音」を語りながら、彼はこの不思議な出会いのうちにもまた、喜びを嚙み締めていたことでしょう。そこには、人々に出会い、共に歩まれたキリストの姿が垣間見えます。「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17:21)。神さまによって呼び出された者の「教会」は、エルサレムに、サマリアに、そしていま二人で旅を共にしているこの「寂しい道」にもある。フィリポの喜びは、バプテスマを受けキリスト者となったこの宦官にも伝わり、やがて彼の国エチオピアにも伝わっていきました。
神さまの導きの中で、私たちの人生は交差し重なり合っていきます。その旅路に伴われるイエス・キリストを共に見いだすとき、その旅の道すがらに「教会」はあるのです。