「 イエスの語る旧約の福音(20)『平和を造り出す力』 」 友納靖史牧師 (2019/08/11)
[聖書]詩編8章2~10節、マタイによる福音書21章12~17節
詩編の多くはダビデ王によるとされ、かつて全150編にメロディーがついていました。神への感謝は、言葉だけでなく音が加わると、より心をこめて人々の魂に染み渡っていきます。「主よ、わたしたちの主よ。あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう(8:2/10)」と8篇を前後で挟み歌われます。『ギディト』に合わせて(8:1)とは、琴の一種とか、ある旋律(メロディー)のことだったと言われますが、何よりも幼子の口にも歌える程、単純かつ愛される神への賛美のことでした。その賛美を歌うと、たとえ憎悪や報復心に満ちた敵の心さえも打ち砕く特別な力が秘められていたのです。先日も香港で「主を賛美しようSing Hallelujah to the Lord」と歌われた時、人々の心はキリストの平和で満たされました。ダビデは、王となり権力を掌握してから自らの罪を悔い改め、幼い頃、神の御前に純粋であった姿を思い起し、繰り返し歌って初心に立ち返ったのです。
主イエスが十字架の道を歩むためエルサレムへ入場した際、「ホサナ(どうか、救ってください)」と人々が叫んで(歌って)迎えた出来事(マタイ21:9)は、市中に知れ渡っていたことでしょう。数日後、主イエスが神殿の境内に入り、『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』(イザヤ56:7)と宣言し、神殿で商売をしていた人々の「腰掛け」をひっくり返し、激しい憤り(義憤)を示されました。その同じ日、境内で子ども達がイエスに向かって、『ダビデの子に、ホサナ』と叫ぶ姿に、祭司長・律法学者たちが激しく憤り(憤怒)を示す姿が描かれます。祭司長たちはイエスに向かって、「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか。<あなたを「ダビデの子」(つまり、救い主)と呼んで神を冒涜している。それを甘んじて受けるのか>」と皮肉を言います。しかし主イエスは子どもたちが主ご自身に向かって呼ぶ姿こそ、ダビデがかつて賛美した詩編8篇が、今ここに体現されたと言い切られました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました(マタイ11:25)」と主イエスが以前語った通り、幼子たちにはイエスの存在を受け入れる信仰が与えられました。
「平和を実現する人々は幸い。その人は神の子と呼ばれる(マタイ5:9)」。この主の御言葉は、ある人たちにはこの現代社会に非暴力による平和は、非現実的とし、国家や戦争産業の地位存続に目先が奪われていないでしょうか。今、主イエスが再臨なされたなら、私たちの心の“自分ファースト”に生きる罪の「腰掛け」をひっくり返されるのではないでしょうか。「平和を造り出す力」。それは、神と人とに愛し愛され、分け隔てなく遊び交わり、真の神を賛美する幼子の信仰に答えがあります。「イエスに従う神の幼子」と呼ばれる存在とされましょう。