「信条から告白へ⑩『限りなき命にアーメン』」 友納靖史牧師
私たちは“限られた生命と時間”の中で生きる者です。しかし神が「人の心に永遠を思う思いを授けられた(口語訳:伝道の書3:11)」と、未だ経験のない永遠の時を、思うことが可能な存在とされていると約束されます。ですから、私たちは“限りない・いのち”に思いを馳せることができます。ところが、旧約聖書では、死を迎える全ての人は地深くにあるシェオール(陰府・よみ)へ行くと考えられていました(ヨブ記7:9他)。
しかし遂に主イエスの到来により神と共に生きる希望の約束が宣言されていったのです。「はっきり言っておく 《アーメン・アーメン・告げ(命じ)る》。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている(ヨハネ5:24)」と。何よりもこの“永遠のいのち”とは死後に与えられるのではなく、信じた時に既に与えられる“いのち(ゾーエ)”であると、主は告げられました。こうして、主イエスを信じた者は、その瞬間から“限りなきいのち”に生きる者へと再創造されるのです。この驚くべき真理を、バプテスマ(洗礼)という、水に全身が浸され、罪ある身体が死んで、再び自ら引き上げられ、新しいからだへと変えた証し(礼典:イエスが命じられた業)として、教会は大切に継承してきました。
ではなぜ神は私たちに“永遠のいのち”を与えたいと願っておられるのでしょうか。「神は愛である」と聖書は一貫して語ります。つまり真実の愛とは、その人(存在)と出会い(知り)、万難を排して、いつまでもその人と共に歩みたいと願う者へと変えられることです。永遠に存在する神は、神に命を与えられながら罪によって限りある命となった人間が、誰一人滅びることなく共に“永遠のいのち”に生きるため、イエスをこの世にお遣わしになりました (3:16)。
サマリアの井戸に水を汲みに来た罪に悩む女性に主イエスは出会われ、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。(その)水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る(4:12-13)」と語り、課題を越え愛の神を共に礼拝する喜びを示されました。すると彼女は、急いで町に行き、「さあ、見に来てください。…この方がメシアかもしれません」と証したのです。こうして町の人々はイエスと出会い、数日後この女性に告げました。「この方が本当に世の救い主であると分かった(4:42)」と。
この女性のように自らの主イエスへの信仰告白は不確かな言葉であっても、主と出会った喜びを大胆に言葉にする時、不完全な私たちさえも神ご自身が用いてくださるのです。
「分かっただけの主イエスさまに、分かっただけ自分を献げよう」。
アーメン。