「イエスの語る旧約の福音(11)『 礼拝すべきお方・復活の主 』」 友納靖史牧師(2019/04/21)
[聖書]サムエル記下7章8~17節、ヨハネ による福音書20章19~29節
復活の日の夕方、家の戸に鍵をかけ閉じこもる弟子たちの真ん中に主イエスは立ち、「あなたがたに平和があるように」と語りかけます。そして手とわき腹にある傷跡をお見せになられたのです。この時、トマスただ一人、復活の主イエスに会えませんでした。この出来事を知ったトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して(復活を)信じない」と言い放ったのです。それから八日後、再びあの日のように閉じこもる弟子たちのいる場所に主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と同じ言葉、同じ状況を再現され、トマスに現れてくださいました。そして彼に「(願ったように)あなたの指を、わたしの手とわき腹に触れてみなさい」、更に「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と仰られたのです。こうして悔い改めたトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と、イエスを「主」、それも「神」と告白する者へと変えられたのです。
トマスの不信の原因は疎外感より生じた感情的過剰反応とも、「(直接)目で見なければ信じない」との現実主義的信念に基づくものとも考えられます。しかし主イエスは、トマスの抱える課題全てに寄り添い、御自身の復活の姿を現わされました。この驚くべき主の愛に触れ、真のイエスの存在を知ったトマスは、一瞬で生き方が変えられ、イエスに対し単なる「先生」ではなく、「わたしの『主』・『神』よ」と告白し、真の「平和(シャローム)」が魂に与えられたのです。
ヘブライ人への手紙1章には、御子イエスが単なる人ではなく、天使に勝り、「神の栄光の反映」「神の本質の完全な現れ」であり、「皆、彼を礼拝せよ」と宣言します (1:1-9)。これはサムエル記や旧約全体において「神がダビデの王国の王座をとこしえに堅く据える(下7:13・16)」と約束されていたことが、主イエスが死より復活され、天に昇り、神の右の座につかれることによって実現したこと。何よりも、ダビデのような限りある人間の王座と支配でなく、神にある永遠に続く王座(天の座)に就かれたイエスを礼拝することに目覚めよと教えます。
イエスの十字架の死と復活がなければ、トマスはイエスの真の姿(独り子なる神)を悟ることはできませんでした。あのトマスのような疑い深い性質を持つ私たちをも、主イエスは神の愛で覆い尽くしてくださるお方です。
これからも、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれています(ペトロ一1:8)」と主イエスより言って頂ける信仰共同体としてこの教会がこの地で証し続けられることを信じます。