礼拝
08.30主歴2020
ヨハネによる福音書19章12~22節、28~30節
「痛みの愛」渡部信牧師
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- 前奏 奏楽者
招詞 司式者
祈祷 司式者
賛美 221番 血しおしたたる 1、2節
聖書 ヨハネによる福音書19章12~22、28~30節 John19:12-22, 28-30
特別賛美演奏 "われさえも愛したもう" 奏楽者
宣教 「痛みの愛」 牧師 渡部信
祈祷
賛美 227番 カルバリの丘へと 1、3節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 今日は「痛みの愛」と題しましてヨハネによる福音書19章から御言葉を学びます。
現在、コロナウイルス感染の第2波が全国に波及して、その予防と共に夏の猛暑が続くという事態が襲っております。主にある兄弟姉妹の健康が主によって守られ、また日常生活も主の導きの中にあることを心から祈ります。このコロナウイルス感染は、戦後、最大の世界経済危機と、またキリスト者にとっても教会に集まることができない信仰の危機にあることは皆さまもお感じになっていることでしょう。この半年間、教会の暦では受難週、イースター、聖霊降臨祭と大事な礼拝と、月1度の主の晩餐式も遵守できない状態が続きました。残念ですが、このような時には、信仰の原点である、聖書の御言葉に帰ることが一番大事なことです。日々、聖書を読み、祈りを捧げ、共に励まし合い、主の守りがありますようお祈りします。主は必ずわたしたちに恵みを与え、癒しと平安を与えてくださるでしょう。
今日は、聖書からの御言葉、「愛」と言う言葉ですが、新約聖書には大体、300か所に出て参ります。皆さんが良く知っておられる「隣人を愛しなさい」「神を愛しなさい」は覚えやすいみ言葉です。その他「あなたの敵を愛しなさい」とか「友のために命を捨てる愛」となるとだいぶハードルが高くなります。イエスはただ「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか」と言い、もっと手厳しくなります。まして「神を愛していると言いながら、兄弟を憎む者は、神を愛していると言えない」と記していて、わたしたちの愛は、ただ隣人を愛しているとか、神を愛しているだけではまだまだ不完全であることが判って来ます。それでは聖書で語る「愛」とはどういう愛なのか更に核心をついて行かねばなりません。「まずこの世を愛する者は、神を愛することはできない」と言っていますし、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」となると、この世の生活だけではなく、自分の命を憎むとはなると、修道院でも入らない限り守ることはできなくなってしまいます。
つまり聖書で語る愛は、「人を愛そうと思えば思うほど・・・神を愛そうとすればするほど・・・難しい」のです。一生懸命、嫌いな人を愛そうと思えば思うほど、妬み嫉妬が増します。神を愛そうとすればするほど、隣人を裁く人になってしまう。教会員、クリスチャンの皆さまもそれを誰でも経験することになるでしょう。神学校に行って献身しても、教会で役員になっても、そういう苦い経験の中で本当の聖書で語る愛は何なのだろうかと、日々苦悶するのです。久しい間、主の晩餐式がありませんでしたが、礼拝の説教をこのヨハネ福音書の主イエスキリストが十字架にかかる受難物語から選びましたが、ここでわたしたちに示された愛がどのような愛なのか、学ぶことができるのです。まず、ヨハネ福音書の中には、「あなたがたが、神を愛したのでなく、神があなたがたを愛したのである」とあり、先ほどの愛の教えはこの御言葉の根幹を押さえない限り、すべて偽善的な愛になってしまう可能性があります。ユダヤ教では神の律法を守る人が正しい人でした。でも彼らは守れなかったのに、自分は守っている者と主張したのです。クリスチャンも罪の赦しとか、悔い改めのない信仰でしたら、同じことになってしまう可能性があります。「痛みの愛」は聖書の中にどこにも出てこない言葉です。でももし、探すとしたら、まさに主イエス・キリストが十字架上で体験した叫びの中にこそ、「痛みの愛」を見つけることができるのです。父なる神はこの時、胸が避けるほど悲しみの内にあったでしょう。主イエス・キリストも父の御旨を全うするために、十字架の道を選びましたので、父なる神に訴えたでしょう。母親のマリアは、真正面から、イエスを見つめることができないほどの悲しみを経験したのです。そしてそれがわたしたちの罪からの救いのためであることを、誰が悟ったでしょうか・・・・・。「愛は痛むのです」。・・・・