礼拝
友納靖史牧師
9.13主歴2020 ヨシュア記11章16~23節 約束の地へ共に⑪『戦いの終わりが遂に』友納靖史牧師
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- 前奏 奏楽者
招詞 司式者
祈祷 司式者
賛美 292番 安かれわが心よ 1、2節
聖書 ヨシュア記11章16~23節 Joshua11:16‐23
特別賛美演奏 "Still ~御翼のかげの中に" 奏楽者
宣教 「約束の地へ共に⑪『戦いの終わりが遂に』」 牧師 友納靖史
祈祷
賛美 326番 ガリラヤの風 2、3節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- ヨシュア記に登場する「戦い」(戦争・侵略)はヨシュア記に登場する「戦い」(戦争・侵略)は、主なる神が命じられた聖戦とされてきました。しかし、神の御子として地上に来られたイエスは一度も「戦い」を奨励されません。初代教会も、異邦人を含む信仰者を「神の民」と呼び(ペトロ一2:10)、「戦い」とは、信仰における霊的戦いの重要性を言及する(エフェ6:12)に留まります。なぜなら、主イエスの到来と永遠の命の中に生きる者にとって、真の「約束の地」は、次の預言における神の民の将来像(ビジョン)に言い尽くされているからです。「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(ミカ4:3・参照イザヤ2:4)。
主イエスがゲッセマネの園で祈っている最中、ユダの裏切りにより捕らえられそうになった時、弟子(ペトロ)は剣をもって主イエスを守ろうとしました。そして大祭司の兵に打ちかかり、片方の耳を切り落とします。すると主は言われました。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる…(マタイ26:52)」。こうして偉大な力をもっておられる神の御子が持つ力を行使せず、父なる神の救いの計画にイエスは従い、その道を私たちにも示されたのです。
「平和の君」(イザヤ9:5)としての姿とは異なるように思える次の主イエスの言葉に、戸惑いを覚えることがあります。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(マタイ10:34)。しかしこの文脈における「剣」は、戦争での剣とは違い、イエスを救い主として信じ従う時、 自分の家族との間が「敵」のように引き裂かれることさえあるとの譬えです。主が語られた『神の真理』を分かち合う時、残念ながら一時的に家族の関係性に亀裂を生じさせることもあります。けれども、主はこの対話における最後に「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである(マタ10:39)」と締めくくりました。つまり両親から与えられた「地上の『命』」(プシュケー)は一時的ですが、イエスを信じて与えられる「永遠の命(ゾーエ)」にこそ目を注ぐ大切さを教えられたのです。
「ヨシュアは、それ(戦いで獲得したカナン地方全域)をイスラエルの各部族の配分に従って嗣業の土地として与えた。この地方の戦いは、こうして終わった(ヨシュア11:23)」と語り、戦争の終息をヨシュア記は宣言します。しかし実際には続く士師記・サムエル記、更には今に至るまで争いは尽きていません。何よりも、世の終わりに至るまで人間の罪は多くの人々を分裂と混乱を生じさせると預言します(黙示録他)。それは国と国、民族と民族、そして家族内、いや教会でさえも争いは尽きません。主が示されたこの「平和・シャローム」の計画と真理に基づいてヨシュア記を読み解き、また私たちの人生の種々の「戦い」を正しい視点で解釈する必要があります。
私たちが戦うべき戦いとは、異なる思想や論理を持つ人々や武力に対してではなく、永遠の命へと至る神の真理(信仰・希望・愛)に従い生きるための戦いです。米国大統領選挙等で右か左かに人を引き裂く「剣」に耐えられる信仰をバプテストの群れは歴史の中で与えられてきました。「政教分離」の教えにより、永遠の命に至る信仰の知恵を大切にしましょう。
いつの日か「遂に戦いは終わった…」と私たちも、パウロのように告白する信仰を育みましょう。「世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです(テモテ二4:6-8)」と。主よ、争い多きこの世において、最後まで平和の主・イエスに従う者として歩ませてください。