礼拝
馬越先生
2021.5.9 主日礼拝 「神に喜ばれる礼拝」 馬越 牧 牧師 【ローマの信徒への手紙 12章 1-2節】(新共同訳 新約P.291)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏 奏楽者
招詞 司式者
祈祷 司式者
賛美 3番 あがめまつれ うるわしき主 1、2節
聖書 ローマの信徒への手紙12章1~2節
特別賛美 "あめなるよろこび" 奏楽者
宣教 「神に喜ばれる礼拝」 馬越 牧 牧師
祈祷
賛美 431番 いつくしみ深き 1、2節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 人間は誰でも何かしらのものを日々礼拝して生きています。ギリシャ語で「礼拝」を表す言葉にラトリューオという言葉があります。これは何かに「仕える」という意味です。だから英語では時々礼拝のことをService と言います。「人生はお金だ」と言って、お金のために生きている人は、お金に仕えているわけであり、お金を礼拝して生きています。つまり私たち人間は、「礼拝しなさいと」言われなくても、何かしらのものを礼拝して生きているわけです。聖書はこの世の中で人間が礼拝するべきものは、私たちを創造してくれた神ただ一つだと言っています。今日はこの聖書の神を礼拝するということがどういうことなのか、また神に喜ばれる礼拝とは何かについてお話ししたいと思います。
礼拝の動機
まずパウロはローマ書12章1節で礼拝の動機について書いています。この箇所で一番大事な言葉は実は「そういうわけですから」という接続詞です。これはローマ書の1章から11章の総括になっています。それを簡潔に言うと「神が恵みと哀れみによって私たちを救ってくれた」と言うことです。つまり、パウロは神の一方的な恵みによって救われたから礼拝しようと言っているのです。すなわち、礼拝は神から良いものを受けるためにするものではなく、神の救いを受けた応答としてするものだと言うことです。クリスチャンでも気をつけないと、何かを受けるために礼拝してしまうことがあるのではないでしょうか。パウロが言っている礼拝の動機は、良い音楽を聞きに行くためにではなく、良い交わりをもつためでもなく、神が自分の御子イエスキリストを送ってくださり、十字
架にかかって死んでくださったから、その応答として礼拝しようと言っていることを忘れては
なりません。「神様こんなにいいことしてるんだから、恵んでください」と言って礼拝する人は、いつまでたっても満足しないクリスチャンです。神に喜ばれる礼拝者とは、「そう言うわけですから」と言ってから礼拝する人です。
生きた供え物として礼拝する
またパウロはここで、あなたがたの体を生きた供え物として捧げなさいと言っている。旧約聖書時代のユダヤ人は毎年、罪の償いとして牛や羊を殺して、それを捧げ物として捧げていた。その殺された動物が自分たちが行った罪の裁きの象徴だった。しかし、イエスキリストが来られ、私たちの究極的な捧げ物として死んでくださった。そのため私たちは「生きた供物」として、神を礼拝することができるわけです。皆さん、生きた供え物になっていますでしょうか?私たちはいくら礼拝を毎週きちんと守っていても、月曜日から土曜日まで何も神のことを考えない生活をしていれば、神様の関係においては、「死んだ供物」と変わらなくなってしまう。パウロはここで「教会の儀式を守ることが礼拝ではなく、礼拝者として生きることが礼拝だ」と言っているのです。それがどういう生き方か?パウロは「聖い」という形容詞を使っています。これは「この世と調子合わせない生き方」(2節)です。その生き方はルールで決まっているようなものではなく、祈りながら神の御心がどこにあるのか分別していかないとけないものであります。
是非私たちが神に喜ばれる礼拝を日々の生活を通じて捧げられるよう、礼拝の動機を確認し、また私たち自身が生きた供物となっているか神の御心を求めながら歩もうではありませんか。