礼拝
友納 靖史
常盤台バプテスト教会 2021.6.6 主日礼拝 「悲嘆から希望の民へ④『神の恵み』に敏感な者」 友納靖史 牧師 【エレミヤ書5章20~25節(新共同訳 旧約 P.1184,1185)】
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏 奏楽者
招詞 司式者
祈祷 司式者
賛美 104番 雨を降り注ぎ 1、3、4節
聖書 エレミヤ書5章20~25節
主の晩餐を覚えての黙想 "マラナタ" 奏楽者
宣教 エレミヤ書講解説教シリーズ
悲嘆から希望の民へ④
「『神の恵み』に敏感な者」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 103番 望みも消えゆくまでに 1、2節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 聖書における“雨”は、神の「裁き」と「恵み」の両方を表すことがあります。頑なな王ファラオに対して雹の雨の災い(出エジ9:33)、偶像に仕える王アハブと民に雨の降らない干ばつ(列王上17章)が与えられ、「ノアの箱舟」では大雨が地を覆い尽くして悪を滅ぼす(創6-9章)等、神の裁きに身を正す警鐘が鳴らされます。一方で“雨”は、乾ききった大地を潤し、作物を豊かに育て収穫するために必要な神からの恵みの徴とされます。「地は震え、天は雨を滴らせた…神よ、あなたは豊かに雨を賜り、あなたの衰えていた嗣業を固く立てて、あなたの民の群れをその地に住ませてくださった。恵み深い神よ・・・」(詩68:9-11)。こうして旧約において恵みの雨は、神に従う者に注がれると考えられていきます。しかし主イエスはそれまでの理解を超えることを告げられました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる(マタイ5:45)」と。こうして主は、神の恵みの雨(神の御業)は全ての人々、即ち神を信じる者も、そうでない者にも等しく注がれる福音の真理を宣言されたのです。
日本を代表する詩人の一人・八木重吉は、自然の中に神の恵みを敏感に感じ取り、詩を通して神を讃え福音を伝えました。彼の感性の鋭さに驚かされる作品が数多く残されています。実は、エレミヤは今日の箇所で当時、神の恵みに鈍感となっていた人々に警鐘を鳴らしました。神が「時に応じて、秋の雨、春の雨を与えられる」お方であることを忘れ、自分勝手に生き、滅びへと向かう神の民。彼らが再び敏感な信仰、つまり「主なる神を畏れ敬う」心が呼び覚まされることを願い、語りかけます。「秋の雨(先の雨)」は、穀物を育てる種を植える時を告げる雨、「春の雨(後の雨)」とは成長した穀物を最適な時に収穫する合図とされる雨のことです。神から告げられる、人生における大事な決断と行動を起こす時の徴を全て敏感に感じ豊かに生きて欲しいこと。けれども人間の咎と罪が、主の時を知ることを阻み、神から降り注がれるはずの『恵みの雨』を押しとどめてしまっていると告発しました。私たちも各々の人生で、神の恵みを受け損ねていることはないでしょうか。
今エレミヤ書全体を通して現代に生きる私たちは問われています。エレミヤが預言した時代においては、南ユダ王国が神への背きの罪により、北の侵略を受け裁かれることが定められ、実際に悲惨な歴史的国家滅亡を民は体験しました。しかしながら、神の御子イエスの到来と十字架における咎と罪の贖いが実現したことによって、人間の歴史は変えられたのです。即ち、たとえ神の審判と裁きに向かう時代に置かれるとしても、神は計画を変えてまでも、神の恵みと救いを、信じる者には注ごうとされている希望の福音があるのだと。「独り子を信じる者が一人も滅びないで…(ヨハネ3:16)」との神の愛に敏感な者とされ福音を恐れず語れますようにと、祈り求めましょう。先の見えない時代の中に今、生かされていますが、幸いにも主イエスにあって、いかなる時代にも不変の神の愛の約束に依り頼み、神を敬い賛美する敏感となる力が聖霊の力によって与えられます。特に、御言葉を受け、礼拝を奉げ、そして自らと隣人を愛し、仕えることを通して…。
29歳の若さで召された八木重吉のこの詩は、キリスト者の感性の完成とも思えます。「雨の音がきこえる。雨が降っていたのだ。あの音のようにそっと、世のために働いていよう。雨があがるようにしずかに死んでゆこう」(『八木重吉詩集』1942年)。十字架の死に向かっていかれた主イエスの平安と静けさを知り、復活の希望を信じる者から生まれる穏やかな、そして敏感な心を私たちも与えられ、歩みましょう。