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礼拝
友納靖史

常盤台バプテスト教会 2022.1.16 主日礼拝悲嘆から希望の民へ⑲「滅亡ではなく希望」友納靖史 牧師 【エレミヤ書25章1~14節】(新共同訳 旧約P.1223)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。

礼拝プログラム
前奏                     
招詞  ヨハネによる福音書3篇16~18節     司式者
祈祷             司式者
賛美  86番 輝く日を仰ぐとき 1、3節 
聖書  エレミヤ書25章1~14節
特別賛美  讃美歌第二編164番  “勝利をのぞみ” 
宣教  悲嘆から希望の民へ⑲「滅亡でなく希望」 友納靖史牧師
祈祷
賛美  567番 み神こそわが望み 1、4節 
献金感謝                 司式者
祝祷
後奏
宣教概要
25章は、エレミヤ書を前編と後編に分ける山頂の分水嶺的箇所です。エレミヤ以前にもエルサレム滅亡を何人もの預言者<ミカ(3:12) ・イザヤ(39:5-7)・ゼファニア(1:18)>が語り、神は神の民が悔い改めることを忍耐強く待ち続けていました。けれども、エレミヤが20年以上に亘って語った神の言葉さえ、人々は聞き入れませんでした。遂に主なる神はそれまで続いた(南ユダ)王国を滅ぼし、荘厳な神殿の建つ都エルサレムの滅亡を最終的に告知します。

 注目すべきは、バビロンの王ネブカドネツァルを神御自身が「神の僕」と呼ばれたことです。これはバビロン王の生き方や信仰を神が認めていたからではありません。主なる神を信じていない者でさえも神は用い、神の働きを成し遂げられるお方なのです。神がバビロン帝国を用い、その王を「神の僕」と呼ぶことに、イスラエルの民は驚愕し、かつ屈辱的感情を抱いたことでしょう。神はあの手この手を使って、愛する神の民が立ち帰えることを願われました。その様子を知ると、実は神御自身が誰よりも痛みを覚えておられたことが分かります(31:20)。神と民との間に立ち、執り成す使命を担うエレミヤでしたが、ここ(25章に至る)まで、幾度も悔い改めを呼びかけても応じない人々に、匙を投げたくなる気持ちに何度も陥っていました。にもかかわらず、最後まで彼が忍耐強く主の言葉を語る者とされたのは、徹底して人間を愛し憐れむ神の「真実の愛」に触れていたからです。神の似姿として創造された人間が、必ず自らの罪や感情を乗り越え(They shall overcome)、神に従うと信じ、希望する愛に。

 エレミヤを通して語られた神の裁きと滅亡を宣言する厳しい言葉は、70年続くバビロン捕囚において現実となります。神の計画とは、人間の頑なな心を砕いて一度全てを滅ぼされますが、ゼロから新たな心と信仰が生まれる希望に基づいていたことを忘れてはなりません。その主なる神の愛の極み、愛の完成が、神の御子の誕生と救い、それも十字架の死における贖い(神の小羊として燔祭となり、人間の負債を完済された)へと至るのです。

 世の終わりを告げるヨハネ黙示録などの預言書を曲解し、終末を強調し、恐怖と不安を煽るカルト教団が歴史上、勃興しては常に消え去っていきました。神は確かに義に基づく裁き主です。しかし、裁きに至るまでの苦悩と苦痛を伴う愛の広さ、長さ、高さ、深さを知らずして、真の救いはありません。パウロはその愛を知り、その愛に基づいて宣べ伝える使命を担う新しい神の民なる「教会」を励まし祈り続けました(エフェソ3:14-21)。

 日々様々な問題やハプニングに遭遇する時、厳しい批判、裁きの言葉を周囲に浴びせたくなる弱さを私たちも持ち合わせています。その時、主なる神は、人間への裁きと滅びを宣言するのでなく、永遠の時の中で常に私たちが御心に立ち帰ることを希望し、忍耐しておられることを思い起こしましょう。何よりも、裁き滅ぼされるはずの私たち人間にではなく、神の御子イエスに呪いを背負わせ、この世を赦して救い、復活と祝福の希望に至る道を備えられました。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(ヨハ3:17-18)。主イエスよ、あなたを愛の痛みに敏感な者としてください。