礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2022.1.23 主日 悲嘆から希望の民へ⑳「一言ももらさず。語ろう」友納靖史牧師 【エレミヤ書26章1~6節】(新共同訳 旧約P.1225)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
- 礼拝プログラム
- 前奏 奏楽者
招詞 詩編9篇2~4、8~11節 司式者
祈祷 司式者
賛美 56番 朝風しずかに吹きて 1、3節
聖書 エレミヤ書26章1~6節
特別賛美演奏 讃美歌第二編1番 “こころを高くあげよう”
宣教 悲嘆から希望の民へ⑳「一言ももらさず、語ろう」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 384番 語り伝えよ 神のみ言葉 1、3節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- エレミヤが召命を受けた際、「・・・彼らに語れ。わたしが命じることを<すべて>」と主なる神より語られ(エレ1:17)、その命令に彼は生涯従い続けました。26章は、悔い改めて神に聞き従い、幸いを得るようにエレミヤが神殿において人々に語った出来事(7章)を思い起こすため、再び記されたものです。「わたしが命じるこれらの言葉を<すべて>語れ。<ひと言>も減らしてはならない」と、神の語られた言葉全てを語ることを命じられたモーセをはじめ神の預言者たち。彼らは、彼らの私情を一切挟まず、神より預かった御言葉を人々に伝えることを使命としました(申命4:2,ヨシ8:31他)。「伝言ゲーム」ではありませんが、正確にすべての言葉とその意図を伝えることは容易ではありません。しかしエレミヤは、群衆から嘲りを受け、命の危険に晒されても、最後までその務めを忠実に果たす預言者でした。
当時、神殿に集っていた人々は神殿で礼拝し、律法を守りさえすれば、神の祝福を受けると疑わず、エレミヤが悔い改めを迫っても聞く耳を持っていませんでした。その様子は正に使徒パウロの語った言葉と重なります。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります(テモテ二4:3-5)」と。
神の命じる言葉「すべて」とは何でしょうか。当時の人々はモーセの教えた十戒とそれに伴って人が造った律法「すべて:All(オール) <あるもの全部>」を守ることと思いこみ、本来は「すべて:Whole(ホール)〈神がその人に求めるすべて〉」であることを理解していませんでした。しかし、救い主イエスはその本質を実にシンプルに<ひと言で>教えられ(黄金律:マタイ22:36-40)、「悔い改め」「信じ」「愛し合え」と語られたのです。この真理が、異邦人・ローマの百人隊長との出会いにおいて証言されます(マタイ8:5-13)。属国ユダヤを見下すローマ人の中で、この百人隊長はユダヤ人のイエスこそ神の子救い主と信じ、『謙遜になり(悔い改めて)』イエスの許に自ら訪ねます。主イエスは彼に「わたしが行って癒してあげよう」と言われたにも関わらず、「ただ、ひと言おっしゃってください。<そうすれば私の僕(部下)は癒されます>」と、主イエスの力を心底から『信じる』者でした。更に彼は彼自らが出向いて彼の僕が癒されることをイエスに希(こいねが)う程、互いに『愛し合う』者とされたことが証しされます。主イエスは百人隊長の健全な信仰に感心し祝福して言われました。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と。
エレミヤ書全章が、そして聖書全巻が一番伝えたかったことも、この三つにすべて言い尽くされるでしょう。それは、神の前に『悔い改め(自らが罪人であることを知り)knowing』、主なる神<父・子・聖霊>を『信じ(believe)being』、神(と隣人)を『愛し仕えるdoing』ことでした。自己中心の罪に染まる人間は、神からの健全な真理を受け入れられず、預言者と主イエスの語る言葉を拒み続けたのです。現代に生きる私たちは今、聖書と聖霊なる神の声に耳を傾け、神の前に人生を(悔い改め)方向転換し、イエスを主と信じ、互いに愛し合って遣わされる所で生きる時、平安の中でこの地上と天の国で共に歩む希望に生きる者とされます。
新型コロナ危機による試練の中を通され、聖霊なる神から私たちは大切な真理に目覚めさせられたようです。エレミヤ時代の人々と同じように、主の神殿(教会)に集うことだけで救われ祝福されるかのような思い込みから解放されること。何よりも、日々それぞれの場で一人一人が主を信じつながり、キリストの愛に基づく健全な信仰に生き、その喜びを<ひと言ももらさず>伝える使命が託されていると。
すべてを主に感謝。