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礼拝
友納靖史

常盤台バプテスト教会 2022.2.27 主日礼拝 悲嘆から希望の民へ㉒「神よりあなたへの親書」友納靖史牧師 【エレミヤ書 29章1~14節】(新共同訳 旧約P.1229-1230)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。

礼拝プログラム
前奏                     
招詞  コヘレトの言葉3章1~8、11節    司式者
祈祷             司式者
賛美  124番 この世はみな 1、3節 
聖書  エレミヤ書29章1~14節
特別賛美  “み神こそわが望み” 
宣教  悲嘆から希望の民へ㉒「神よりあなたへの親書」 友納靖史牧師
祈祷
賛美  550番 ひとたびは死にし身も 1、3節 
献金感謝                 司式者
祝祷
後奏
宣教概要
理不尽な戦争が始められました。ウクライナのために祈り、私たちに今、何ができるのでしょうか。問題を解決するため、『親書』が相手に送られることがあります。願わくは今、ロシアの大統領が神からの「親書」を読み、悔い改めへと導かれることを切に祈りましょう。

 29章は、B.C.598年にバビロンに最初に連れ去られて捕囚民となった人々へエレミヤを通して神から送られた『親書』です。その頃、直ぐにでもエルサレムへ帰還できるかのように惑わされていた人々に神は告げます。「あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。彼らは、わたしの名を使って偽りの預言をしている・・・(29:8-9)」。いつの時代も偽情報を鵜呑みにさせ、間違った方向へ向かわせようとする指導者がいます。この手紙は神がエレミヤを通して、惑わされた人々の目を覚まさせる特別な親書となりました。間違いなく彼らは当時、直ぐにエルサレムへ帰還できるのだから、ここバビロンで何かを成し遂げることなど考えてはいなかったはずです。その時に主が、「家を建て、果樹を植え、子どもを産み育てなさい・・・(29:5-7)」との手紙を読んだユダヤの人々は、驚き戸惑ったに違いありません。なぜなら「おかれた場所で咲きなさい(渡辺和子シスター著)」と神から語られたからです。

 常盤台教会がこの二年、支えられ励まされた聖句「・・・神が立てた計画は平和の計画であって、災いではなく、将来と希望を与えるものである(29:11簡約)」へと続きます。この文の直前、主は「バビロンに七十年の時が満ちたなら・・・わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す(29:10)」と語り、人間の思い描く願いとは異なる『神の時』がある、と宣言されます。これは、コロナ危機はもう直ぐ終わり、元の生活に戻る…と思い描いては何度も覆され、更には世界を巻き込む戦争まで起きたこの時、ズシンと胸に響く御言葉となりました。

 最も注目したい神の呼びかけは、「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会う(29:12-14)」との箇所です。なぜなら当時、バビロンにおいて神の計画とは異なる預言に心奪われ、何も手につかず無気力感に苛まれた人々に主なる神は告げるのです。あなた方が今できること、それは日々主に『祈り』、『礼拝をささげ』、『心を尽くして御心を探り、従うこと』だと。そうすれば神は『出会って』くださると約束されました。私たちが今、置かれた場所で出来ること、つまり『≪神の≫家を建て、≪神の≫家族を増やす』(29:4-6)ことの大切さが語られます。

 神は「・・・捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安がある(29:7)」と、声を上げて祈り、叫び、行動することを命じられます。人間の思いや計画を越え、神の時に、平和を実現し、将来と希望を約束しておられる主に心から信頼するからこそ祈れるからです。何よりも、御子イエスの流された貴い血潮によって私たちは、神の裁きから免れ、永遠の命の中に生きる者とさました。ですから「迫害する者のために祈れ(マタ5:44)」との主イエスの御言葉に従い、恐れず祈りの声をあげ、なすべきことを選び取る力を聖霊によって与えられ歩みましょう。世界中の『神の家族』と共に・・・。



 「ナチスが共産主義者を攻撃したとき、私は声を上げなかった。私は共産主義者ではなかったから。社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。私は社会民主主義者ではなかったから。彼らが労働組合、学校、新聞を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私はそうではなかったから。そして、彼らが私たち教会を攻撃したとき、声を上げようとした。が、すでに手遅れだった。」(M.ニーメラー牧師の回想語録より)