礼拝
渡部信
常盤台バプテスト教会 2022.7.31 主日礼拝「心の目が開かれる」渡部信牧師【マルコによる福音書 10章46~52節】(新共同訳 新約P.98)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 イザヤ書 54章4~10節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生59番「父の神よ 汝がまこと」1・3節
聖書 マルコによる福音書 10章46~52
特別賛美 新生521番「キリストには替えられません」1~3節
宣教 「心の目が開かれる」 渡部信牧師
祈祷
賛美 新生626番「主はいのちを与えませり」1・3節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 今日の聖書の箇所は、エリコと言う町で起こった出来事を記しており、道端で物乞いをしていた一人の盲人が、この町にイエスが立ち寄ることを耳にして、そこを通りかかるイエスに向かい大声で「私を憐れんでください」と叫び求めたことが記されています。癒された盲人のバルティマイのバルとは子を意味し、父親ティマイの子という意味ですので、少し町では誰でも知っていた有名な家族だったと言えます。このように目が見えないと言うことは本当に不自由なことです。目が見えませんと近くのものを手で触って、杖を使って行動しなければなりません。また人の手を借りなければ生きられない人生です。イエスは、このような身体的に障害を持っている人々を心から憐み、多くの奇跡を行って癒されました。
そしてこの物語は、目の見えない一人の盲人をイエスが癒すという奇跡物語なのですが、今日は別な角度からお話します。実は、私たちも心の世界では目が見えない盲人と同じなのです。毎日、このバルティマイと同様に、不自由な世界を生きていると言うことです。イエスは、たとえ目が見えても、真理の世界が見えない人々に対して、「私たちは目が見えていると言う人々に対して、そう言い張るあなたがたが、実際は見えず、目が見えない人が見えるようになるために私はこの世に来たのである」と語られました。有名な山上の垂訓の教えの中で、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気が付かないのか。兄弟に向かって、「あなたの目からおが屑を取らせてください」と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、おが屑を取り除くことができる」と。目が見ええると言い張る人は、自分の目に丸太があるのに、他人の目のおが屑を取ろうとしている。
使徒言行録には、ユダヤ教の信棒者、キリスト教徒の迫害者、使徒パウロのことが書かれています。彼は最初、自分が信じているユダヤ教が一番正しい。その結果、次々とキリスト教徒を捕まえては投獄し、ステパノいう信者を石で撃ち殺すこともありました。そのパウロが、ある日、突然、大きな天からの光を受け、全く目が見えなくなりました。その時、彼は天から彼の名前を呼ぶ声を聴いたのです。パウロは言います。「あなたは一体だれですか。」「わたしは、あなたが迫害しているイエス・キリストである。とげある鞭をければあなたが傷つくだけだ」と語りかけられたた。キリスト教徒は何も悪いことはしていない。それなのにパウロは自分が思っていた正義感によって、罪のないキリスト教徒を迫害し、或いは殺すと言う行為をしている。この正義感が、全く本末転倒で間違っていたことにが気づかされた時に、今まで見えていた目が見えなくなってしまい、ダマスコという町のアナニアというキリスト教徒の所に連れられ、頭の上に手を置いて神様に祈ってもらうと、サウロの目からうろこのようなものが落ち、再び目が見えるようになったとのです。まさにこれが「目からうろこが落ちる」ということ。彼がクリスチャンに回心した瞬間です。