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礼拝
友納靖史

常盤台バプテスト教会 2025.4.20 イースター礼拝 「復活の愛・とことんまでも」友納靖史牧師【ルカによる福音書 24章13~35節】(新共同訳 新約P.160~161)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                  
招詞    ルカによる福音書 24章1~7節   司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生240番「救いの主はハレルヤ」
主の祈り
献金感謝
聖書    ルカによる福音書 24章13~35節
特別賛美  「イエスは尊き」聖歌隊
宣教    「復活の愛・とことんまでも」  友納靖史牧師
祈祷
賛美    「見よ暗き夜は明け」
頌栄    新生33番「輝け主の栄光」
祝祷
後奏
宣教概要
 「あの方は、ここにはおられない。復活なさった」。日曜の明け方早く、墓にはイエスの遺体がなく、恐れおののく婦人たちに輝く衣を着た二人の人が語り、続けて呼びかけます。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている (24:6-7)」と。福音記者ルカは「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した(24:8)」と記します。主イエスは繰り返し弟子たちに言われていた十字架と復活の予告 (9:21-22,43b-45他)を、弟子でさえ誰一人理解していませんでした。
エマオへ向かっていた二人の弟子(クレオパと、もう一人の弟子〈「クロパの妻マリア」ヨハネ福19:25から推測すると夫婦?〉・十二弟子以外の七十二名の中)も、やはり主の十字架の死の意味を理解できず、エルサレムにある信仰の交わりからも離れようとしていました。その二人に、復活の主ご自身が現れて下さったのです。彼らも主が「メシアであり、苦しみを受けた後、栄光に入る(天におられる父なる神の右に座す)神の御子(ルカ24:26)」と語られていたことなど一切心に残っておらず、主と共に歩み偉大な主の働きをしながら(ルカ10:17)、真理を悟っていなかったのです。後にルカは福音書の続編で「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受け・・・地の果てに至るまでわたしの証人となる(使徒言行録1:8)」と記し、イエスを主と信じる信仰は人の努力や理解力でなく、聖霊なる神の業であると予告しました(ルカ24:48-49)。
このエマオ途上の出来事は、ルカが記した99匹を置いても迷い出た1匹の羊を探し出す譬え(15:1-7)と重なります。迷い出た弟子を主イエスが捜し出し「とことんまで」関わり正しい道に導こうとされる姿がここにも…(ヨハネ21章のペトロ)。主は悲嘆の中にある二人の弟子達の旅に同伴され、彼らの考えにまず耳を傾け、話し論じ合う一人の友として寄り添っていかれました。そして真理を悟っていなかった彼らに、旧約聖書に記された主ご自身に関する御言葉(メシア預言:イザヤ53:1-12他と推測)を忍耐強く丁寧に解き明かされたのです。
後にルカはサウロ(パウロ)が聖霊の働きによって回心する様子を「目からうろこのようなものが落ちた(使9:18)」と語りますが、この個所では主イエスが直接御言葉を解き明かした後、同じ食卓に着き、賛美の祈りとパンを割く、霊の交わりが彼らの「<心の>目を開いた(24:31/45)」と証言されます。つまり、福音の真理を悟るとは、御言葉を理性で「学ぶ」こともですが、神の臨在に触れる(「生きておられるイエス24:23」と出会う)ことでした。何よりも、深い主イエスの愛に触れる経験が後の聖霊体験と同じように人生を変えるとルカは証言するのです。
特出すべき箇所は、同伴されたお方が実は主イエスだと分かった時、彼らは「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていた(24:32)」と証言される所です。つまり彼らの「心が燃え(ギ語:点火され)た」のは、御言葉に触れた喜びと共に、真理を悟っていない二人に対し「とことんまで」忍耐強く関わられる復活の主イエスの愛の炎が彼らの心に点火されたからでした。
この「愛」に触れた弟子二人はエルサレムに戻り、他の弟子達と互いに復活の主イエスとお会いした喜びを証し合います(24:33-35)。すると何と!その場に再び主が現れ、更に深く旧約聖書に記された救い主預言(詩22・23他)を通して正しい「信仰」を解き明かされました(24:44-48)。これは「イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった(24:29)」とある通り、世界中へ神の国の福音を宣べ伝える証人として弟子達を遣わす熱い「希望(ビジョン)」を持っておられたからです(24:47・48)。私たちは今、中途半端な者かもしれません。しかし復活の主イエスが日々の生活で現れて心を燃やしてくださいます。ですから、私たちも遣わされた場で「とことんまで」信仰・希望・愛を分かち合って参りましょう。